第百一話:墨花の心
「あの子は、あんな子なんです。……しゅうに騙されているだけ。……」
アイの震える声が、静まり返った部屋に落ちる。
妹・ペインターの狂行を、必死に「外部からの悪意」のせいにしようとする姉の、悲しい逃避。
かつて共に笑い合った、遠い日の残像を。アイは縋るように抱きしめていた。
「それは、違うわ!」
鋭い声と共に、影に潜んでいた墨花が、弾かれたように飛び出した。
その双眸はいつになく厳しく、内に秘めた怒りが、青白い炎となって燃え上がっている。
「では、アイさん。酷だけど、はっきり言わせてもらうわね」
一歩、また一歩。
墨花が、詰め寄る。アイの細い肩が、その威圧感に小さく跳ねた。
「あなたのことは、はじめ様に直接手を出していないから。私たちは、受け入れられた。けれど……」
墨花が、はじめが、無防備に刺された。あの瞬間を思い出す。
「あなたの妹は、どうなの? あの子は、明確な殺意を持って。はじめ様を貫いた。そうでしょ?」
「そ、そのとおりですわ。……」
言い返す言葉など、アイには一欠片も残されていなかった。
事実が。鋭利な刃となって、アイの心を切り刻む。
「アイさん。中途半端な気持ちなら、今すぐここを抜けてくださいな。……私たちは、止めません」
墨花の言葉は、優しさという仮面を脱ぎ捨てた、「掟」そのものだった。
はじめを想うからこそ。身内への甘さを許さない。
この場を支配したのは、凍てつく沈黙だった。
「わ、私は……そんなつもりじゃ……っ」
アイの唇が、幽かに震える。
その場逃れの言い訳さえも、墨花の凍てつく視線の前では、意味をなさなかった。
「では、『そんなつもりなく』。はじめ様を、死の淵へ追い込む毒を招き入れたと? そんな無責任な覚悟で、隣に立っていたの?」
墨花の言葉は、情け容赦のない追撃となって、アイの心を完膚なきまでに打ち砕く。
だが、そのあまりの苛烈さに、静観していた者たちが。ついに声を上げた。
「……流石に。……お姉様! 言い過ぎですわ!!」
ベアトが、弾かれたようにアイの前に立ちはだかる。
その羽は、未だ不自由なままだが。
墨花を睨み据える瞳には、かつての誇り高い鳳凰の気高さを宿していた。
「アイさんがいなければ。……五星連弾も、成功しませんでしたわ。それを忘れたのですか!? ……言い過ぎです!」
「私も。……ベアトさんの意見に、賛成です……っ」
りりも、祈るように胸の前で手を組み、必死にアイを庇うように頷く。
「私には、難しいことわかんないけど……アイねぇちゃんは、いい人だよ?」
琥珀の、無垢な瞳が墨花を、悲しげに見つめる。
一斉に浴びせられる、否定の言葉。
墨花は、たった一人、孤立を甘受するように。静かにその場に立っていた。
「自分ら、あほなんか? どんだけ一緒におってん。まだわからへんのか?」
凍りついた空気を一瞬で粉砕したのは、場違いなほどに抜けたケルちゃんの声だった。
墨花の影からひょっこりと顔を出したそのライオンは、あきれたように鼻を鳴らす。
「ケルちゃん。まだ早いわ。……でも、ありがとう」
墨花の唇に、いつもの穏やかな、けれどどこか寂しげな微笑が戻った。
彼女は静かに、一人一人と視線を合わせ、深く、深く頭を下げる。
「まず、ベアトさん。素直なあなた、本当に好きよ。しかも、頭も切れる」
「え……っ、あ……」
あんなに食ってかかっていたベアトが、毒気を抜かれたように言葉を失う。
墨花の謝罪には、嘘偽りのない、相手への深い敬意がこもっていた。
「りりさん。琥珀さん。あなたたちがいなければ、このメンバーは暗くなっていたわ。潤滑剤ね。……本当に、好き」
二人の瞳に、安堵の涙がじわりと滲む。
そして墨花は最後に、震えるアイの正面に立った。
「アイさん。さっきのペインターへの機転、最高だったわ。……でもね」
その瞳には、先ほどの冷徹な光はない。
あるのは、同じ痛みを分かち合おうとする慈愛だった。
「あなたのことは信用している。……大好き。……けれど、家族を裏切れないのもわかるの。この後の返事は、自分で決めて」
静かな、けれど魂に問いかけるような囁き。
アイはその言葉を真っ向から受け止め、涙を拭って顔を上げた。
「……答えは決まっています。はじめ様に、ついていきます。私はアイアンではありません。……アイです」
その声に、迷いはなかった。
アイは自らの胸に手を当て、自分を庇ってくれた仲間たち、そして眠るはじめを見つめる。
「ペインターのことは残念ですが。……もし、次に彼女が牙を剥くなら。……最悪は、私がペインターを倒します!」
強烈な決意。
それは、過去の自分を切り捨ててでも「はじめの盾」になると決めた、一人の女性の産声だった。
「なんや。こうなるの、わかっとったんかいな。ほんま、えげつないな」
ケルちゃんの呆れたような、けれど深い信頼の籠もった声。
墨花の冷徹な仮面の下にあったのは、 全てを包む慈愛だった。
「そんなことないわ。……みんなが凄いだけよ」
その会話を耳にした瞬間、アイの目から、堰を切ったように大粒の涙が溢れ出した。
「私が。……私が悪いんです。すみません、墨花さん……っ!」
アイは床に泣き崩れ、嗚咽で言葉も満足に聞き取れないほどに。己の不甲斐なさと、それを導いてくれた墨花への感謝に震えていた。
「墨花ねぇ様。……ごめんなさい。私が、先走ったわ」
ベアトが、俯きながら、絞り出すような声で謝罪を口にする。
その瞳には、溢れ出しそうな涙が 煌々と溜まっていた。
「すみません、……すみません……っ!」
りりは、声を上げて号泣し、祈るようにアイの背中を擦る。
「なんで、みんな泣いてるの? 悪いことしたの?」
一琥珀だけが、無垢な瞳で、 問いを投げかける。
その幼い純粋さが、逆に張り詰めていた空気を 解きほぐしていく。
(これで、レイラさんさえ来れば、どんな困難でも、 立ち向かえますわ。)
墨花が確信したその「結束」は、かつてないほどに 固く、そして、美しいものだった。




