今際の忍
地上階2階フロアに待ち構える2人の熾天使ミカエルとガブリエル。
1階へとつながる非常階段の元へ名取とルシェルを行かせるために新橋とギル&デスは熾天使2人の足止めを買って出る。
ミカエルと新橋、ガブリエルとギル&デスとそれぞれの対面で繰り広げられる強大な敵との戦いは熾烈を極めていく……。
教会内の2階フロア、廊下内の静寂を慌ただしい足音が通り過ぎていく。
名取とルシェルは立ちはだかる熾天使達を掻い潜り、1階への非常階段を目指し廊下を振り返ることなく駆け抜けていた。
廊下に響くのはニ人分の足音のみが響き渡り、名取とルシェルは既に新橋達が足止めの為に残ったことには気付いていた。
だが新橋の「振り返るな」という言葉の通りに振り返らずにただ前だけをみて走った。
「あった! 非常階段だ!」
廊下の突き当たりまで走った二人は非常階段の入り口を発見し、非常階段の扉を開ける。
「名取、新橋達は?」
「新橋さん達は必ず追いつく。先に進もう。仮に新橋さん達が来なくても、俺達で決着をつけなくちゃいけないんだ」
ルシェルは新橋達を心配してか先に進んで良いのか迷いを見せるが名取は迷う素振りを見せることなくルシェルの肩に手を置き新橋達のいるホールの方角を真っ直ぐに見つめる。
「そうだね」とルシェルは非常階段の下を見つめるとそのまま階段を下りていく。
――新橋達が命を懸けて二人を先に進ませたことを無駄にしてはならない。ルシェルは必ず神父の元へと連れて行き、神父と決着をつける。後ろの心配など必要は無い。
――新橋達が必ず追いつくと信じて。
◇ ◆ ◇ ◆
白く眩しい光を残し弧を描く白銀の剣。胴を真っ二つに裂かれては丸太へと変貌する新橋の身体。すかさず新橋は別の角度から小太刀による斬撃を浴びせる。どれだけ斬ろうとそれを嘲笑うかのように尽く変わり身の分身となる答え合わせの連続に青髪の熾天使ミカエルの怒りの沸点は最高潮に達していた。
「クソォ! どいつもこいつも偽物ばかりだ! 一体どれだけの偽物を作り出せるんだコイツは!?」
苛立つミカエルは虫を払うように剣を振るい、周囲を薙ぎ払う。
新橋は後退し距離を取り、息1つ上げることなく平然と鋭い目で見返りを見据えている。
「斬っても斬ってもキリがない……一体君はどれだけの偽物を創り出すことができるんだい? 人間一人の魔力量ではこれらを創り出すのは相当な量が必要なはずだ。一体君は何者なんだ?」
新橋とは対照的に少し息が上がっているミカエルは、嫌悪感も感じさせるような表情で新橋を見ている。
「変わり身の術は伊賀流忍術の中では基礎的な術でな。極微量の魔力で発動できて非常にコスパがいい。元より伊賀忍者は奇襲や夜襲を得意とし『正面から戦わない』。故に派手な忍術よりもこういった隠密や奇襲に使う忍術を効率的に使う。つまりこれだけ多用しても実際消耗は殆どしていない。まぁ自慢じゃないが俺は他の伊賀忍者よりも才能はあったみたいなんだがな」
ミカエルはそう説明する新橋に「めちゃくちゃだ」と顔を歪ませる。
しかしミカエルは新橋の忍術について理解を示すと、白銀の剣でアーチを描く。するとそこから無数の剣が姿を現し、剣は宙を舞い、円をかくようにミカエルの周りをぐるぐると回転し始める。
――光輪の剣舞 《セラフィック・ワルツ》
「君がそうして偽物を無尽蔵の如く創り出すのならば僕も少し工夫を凝らすことにしよう。さぁ、始めようか」
ミカエルは翼と両手を大きくひろげる。すると周りを回転する剣の剣先が一本ずつ新橋の方を向いた、新橋は遠距離から苦無を投げつける。しかしミカエルの周りを回転しながら浮遊する剣の内の1本が苦無を弾き、さらに他の無数の剣が一斉に動き出し新橋に襲い掛かる。
まるで一本一本が自立しているかのように様さな角度から斬りかかり、新橋は回避に徹するしかなく防戦一方となってしまった。
「お得意の偽物は使わないのかな? 使ったところで私の剣が本体を捉えるまで追い回すだけだけどね」
(攻防ともに全自動の剣か……。これでは変わり身を使ったところでジリ貧になるだけだ。かなり厄介だ……どこかに抜け穴がないか探る必要があるな)
新橋はひたすらに攻撃を回避しながら思考を巡らせる。
嵐のような攻撃の中で新橋は煙玉を取り出し、投げつける。煙玉は浮遊する剣の自動防御によって防がれるも、その衝撃で周囲に煙幕を焚き、爆ぜた煙が周囲を覆い尽くし、視界を眩ませる。
「無駄だ」
ミカエルの言う通り、煙幕を焚いたところで剣の自動攻撃による追撃が止まることは無く、煙の立ち込める空間の中でも正確に新橋を追尾する。
(視覚的な阻害では効果なし……それなら)
すると突然、新橋を追尾していた剣の攻撃がピタリと止んだ。それと同時に新橋の気配が完全に消え、魔力による感知も全くできなくなった。
(気配が消えた……? 魔力の一切も感じられない。これではセラフィック・ワルツの攻撃もできない。どこだ? どこに消えた?)
煙に包まれた中でミカエルは新橋を探すがこびりつくような煙のニオイと真っ白な視界の中で隠密に長けた新橋を見つけるのは困難をきわめていた。
「何をしたか分からないけど姑息な手段ばかり使って……舐めるなよ人間!」
ミカエルはセラフィック・ワルツを身の回りに集め、ハリネズミのように剣先を外へ向け全身を覆う。
――天剣の輝き 《セラフィック・レディアンス》
全身を覆う無数の剣が弾けるように全方位へと一斉に撃ち出された。
弾丸のような剣が四方八方へ飛び、広範囲な攻撃が展開される。
全方位の攻撃など避けられるはずもないと勝ちを確信し、ミカエルに笑みがこぼれる。
しかし光の剣が飛び散ったその瞬間――
――煙の中からミカエルの喉元に小太刀の刃が迫った。
ミカエルは小太刀を左手で受け止め、右手に持っている白銀の剣を振り下ろす。
白銀の剣は空を切り、左手には小太刀のみが残り、刃が食い込んだミカエルの左手の掌からは鮮血が流れ落ちる。
(バカな!? まさか僕のセラフィック・レディアンスを躱したのか!?)
「こ、この僕に二度も傷を……!? この野郎……いい加減に姿を現せぇ!!」
ミカエルは勢いよく翼を羽ばたかせ、台風のような風圧で煙が一気に晴れる。
視界がクリアになった頃には、壁付近に風圧で飛ばされたのだろう新橋の姿があった。
現在の新橋には目には見えるものの、不思議と魔力の一切を感じなかった。
「先程までは姿はおろか魔力すら感知できなかった……一体どんな手品を使ったかは分からないけどこうすれば同じだよね。分かるかい? 君は最初で最後の勝機を逃したんだ。もう君に勝ち目はない。この僕の全霊をもって君を殺す」
新橋はポーカーフェイスを貫くが額に流れる冷や汗は心の奥での動揺を隠しきれずにいた。
(「伊賀流忍体術 影断ち」は気配や魔力などあらゆる身体の情報を消すことで視認されない限り完全隠密状態を実現する技だが、その代わりに魔力の流れまで絶ってしまうが故に身体能力も常人レベルまで落ちてしまう。奴を仕留めるに及ばなかったのは想定外ではないかったが、ある意味、数少ない勝機が絶たれてしまって苦しい展開である事には変わらない)
影断ちによる身体能力が常人レベルまで落ちるデメリットによって風圧に耐えられず壁まで飛ばされてしまった新橋は煙も晴れて姿を視認されてしまったことで隠密が潰され、ミカエルに捕捉されてしまう。
(広範囲攻撃は紙一重で回避したがやはり常人の身体能力では首を落とすには至らなかったか……。影断ちを継続したところで剣の追尾は免れても本体が攻めて来られると瞬殺されてしまう。やむを得んか……)
新橋は影断ちを止めると、魔力の流れを感知したミカエルと浮遊する剣は新橋を感知し、再び追尾を始める。
度重なる戦闘、後輩や任務中に出会った少女達の護衛など教会に来た頃から一度も緩めることのなかった新橋の集中力は限界に迫り、新橋の身体には疲労の色が見え始める。そんな新橋に容赦なく襲い来るミカエルの斬撃は、徐々に新橋の体を捉えつつあった。
かすり傷が増えていく新橋の体、魔力の消耗も募っていきもはや致命的な一撃を受けてしまうのは時間の問題であった。
「どうやら君も限界のようだ。いい加減諦めたらどうだい? 人間が熾天使に勝てるわけがないだろう?」
ミカエルは呆れたように息も絶え絶えで膝をつく新橋を見下ろす。
それでもまだ諦めないとでも言うかのような視線でミカエルを見上げる新橋は疲労に力も上手く入らず震える足でゆっくりと立ち上がる。
「勝てるなんて思っちゃいないさ……それでも……負けるわけにはいかねぇんだ」
右手に握る小太刀を逆手に握り、ミカエルへ刃を向ける。
手に握力は残っておらず軽くはたいただけで落ちてしまいそうなほどに小太刀を握る手に力感はなかった。
「名取達の元へは行かせない。ここで刺し違えてでも倒す!」
「もういいよ、そういうの」
ミカエルはそう言うと人差し指を下に落とすようなジェスチャーをする。すると新橋の頭上に光の輪が現れ、新橋を明るく照らす。
しかし光の輪から与えられるのは恵みではなく、さらに光の剣が振り注ぐ。
――光環の剣域 《ジャッジメント・ヘイロー》
光の剣が新橋の周りに突き刺さり、点と線がつながるようにして新橋を囲う。――その瞬間、新橋の身体に電気が走るように痺れる感覚を覚える。
身体が麻痺して思うように動かない。それでも力を振り絞り新橋を囲う光の剣の陣から出ようとする。しかし見えない壁のようなものに阻まれ、さらにそれに触れると電気ショックを受けたように全身に電撃が走る。
完全に逃げ場を失った新橋に絶望を与えるかのようにミカエルの周りを浮遊する無数の剣がそれぞれ意思を持つように自在に軌道を描く。
「もう逃げ場はない。人間ながらにして熾天使である僕に挑み、戦い方は卑劣ながらも二度に渡り傷をつけた。君以上の人間は今後現れないだろう。敬意と断罪の正義を捧げる僕の全霊の剣技をもって君を屠ろう」
もはや熾天使による処刑の瞬間を待つことしかできない新橋はそれでも抜け道はないか思考は止めない。しかし無情にも時間は待ってなどくれなかった。
――神裁剣界
刹那、周囲を舞う光の剣と共に白銀の斬撃が唸りを上げ一点に集中する。逃げ場を失ったその中心に向け、幾千もの斬撃がその肉体を斬り刻み、通り過ぎていく。視界を埋め尽くす程の無数の剣がただ己の肉体に線を入れていく。
暴風のような絶え間ない斬撃に成す術も無く通り過ぎるまでただ斬られることしかできなかった。
ミカエルが攻撃を終え通り過ぎ、少し間をおいて、止まっていた時が動き始めたかのように遅れて全身の無数の裂傷から血を噴き出した。
藍色の忍装束は真っ赤に染まり、新橋は虚ろな目で膝をつく。その瞳に光はなく、新橋の死は想像するに難く無かった。
新橋を拘束していた光の陣と浮遊する光の剣はうっすらと姿を消し、ミカエルは振り返り、ゆっくりと床に倒れる新橋を見届けた。
「君の存在は僕の記憶に永遠に刻まれるだろう。せめて名前くらい聞いておけばよかったかな? まぁいい、今はそんな事を気にしている場合じゃない。天使を追わないとね」
◇ ◆ ◇ ◆
――次の頭領は凪助だろうな。
――間違いない、奴の才能は別格だ。
――"初代の生まれ変わり"とまで言われるようにもなれば歳関係なく継承候補になれるんだな。しかも筆頭だとよ。
――新橋凪助を第34代目・服部半蔵とする。
里の重鎮たちが一堂に会し、静まり返った座敷の中で名を告げられた。
類稀なる才能からいつしか"初代の生まれ変わり"とも称された。
里の伝統・服部半蔵の名の継承、それは長きに渡る歴史の中でかつて伊賀忍者の偉人として名を残した男の名を後世に語り継ぐ為に今にまで受け継がれてきたもの。
だがそんなもの、この現代では何の役に立ちやしない。
忍者としての才能が抜きん出ている――だからどうした。そんな才能があったところで社会に出てどこで発揮するのか?
伝統として受け継がれてきたものは、時代の流れとともに役に立たない"不要物"となっていた。
「やだね! 俺はこんな里でそんな堅苦しい名前背負って生きるつもりはねぇよ! 優秀なヤツなんざ他にもいるだろ! ソイツらから選びやがれ!」
――耳奥にこびりつく"頭領"と呼ぶ声。
数多の若い娘達の声が幾重にもなって耳の中を反響する。
甘い香の漂う座敷で幾度となく向けられた乙女達の視線。袖が触れ、視線が絡み――幾度も交わされた誘い。
「服部半蔵」――その名を継いだばかりの青年に、娘たちの視線が静かに集まる。
笑みを向ける者、距離を詰める者、言葉にせず想いを滲ませる者。
そのどれもが、彼に一歩踏み込もうとする気配を帯びていた。
「へへ、女に囲われるのは悪い気はしねぇな。でもやっぱり"頭領"と呼ばれるのには慣れねぇ……てか俺は頭領じゃねぇしなる気はねぇぞ!」
――名を継がないだと!? 馬鹿なことを言うな! 服部半蔵の名を継ぐことは里の人間に生まれた人間ならば人生における最も栄誉なことなんだぞ! 凪助貴様! そのことをわかって言っているのか!?
――凪助……母はそのような愚か者に育てた覚えはありませんよ? 凪助、あなたは自身の生まれ故郷の宝である歴史や伝統を否定するのですか?
父上の怒声が、部屋の空気を震わせ、母上の哀しみの籠もった涙を含む震えた声が座敷を支配した。
肉親であり忍術を教わった直接の恩師でもある父上には「お前は何のために育てられてきた」とまで言われ、「誇りだったのよ……ずっと」と哀しみを超え、もはや失望したかのようなか細く、それでおきながら重たい言葉が母親から漏れた。
「なんだよ……俺の人生だろうが……。俺の好きに生きちゃダメなのかよ? なんだよ伝統って……なんだよ歴史って……そんなことで俺は自由に生きることすら許されねぇのかよ……。そんなの、名誉なんかじゃねぇ。呪いじゃねぇか」
――君の才能、この現代社会で役立ててみないかい?
――教官、俺……忍術とかは使えそうにないですけど……でも教官の忍体術、きっと対人戦闘で役立つと思うんです! お願いします! 俺に体術を教えてください!
――俺もお願いします! 俺は体術だけじゃなくて忍術も使えるようになりたいんス! 俺、落ちこぼれだからもっと強くならなくちゃいけないんです!
気配を殺す。呼吸を整える。
足音一つ立てずに、影から影へと滑り込む。指は自然に印を結び、刀は無駄なく急所に向け軌道を描く。
それは、体が勝手に覚えている動きだった。
不必要だと、切り捨てたはずの技。
皮肉だ。自身が否定し、不必要だと切り捨てたはずの技に今まで支えられて生きてきた。
「違う……はずだろう……」
――ガキの頃なんざ誰だって一度は親に反抗するもんさ。
――俺は俺のやりたいようにやる、それでいいだろ? 良い子じゃなくたっていい、『やりたい事をやりたい』って言えるのはガキの間だけだ。大人になったらそんな事言えなくなるんだからよ。
――一度くらいは自分のワガママを通してみるってのも貴重な経験だぜ
ルシェルに放った自身の言葉がそのまま自分に返ってくる。
本当に自分はそれでよかったのか? かわいい子供のわがまま程度に収まるようなものだったのだろうか?
自分はそのわがまま1つで大切な繋がりを失ったようにも感じた。
親、家族、生まれ故郷との繋がりを無下にしてまで選んだ選択は正しかったのか?
自由を求めた結界、不要だと思っていたものばかりを残して大切な繋がりを失った自分が一丁前に他者へ助言を送っている構図があまりにも滑稽である。
自身の決断が間違っちゃいないと暗示し、己の過去に目を背け、それでも彼は他人の前に立つと、まるで長い道を踏破した先達のように、迷いのない言葉で薄っぺらな助言を与えている。
「一体俺は……何を偉そうにしていたんだ……? こんな歳にもなって子供相手に自己投影して、勝手に過去を悩んで引きずって……」
大量に血が流れ続け、体は次第に冷たく、重くなっていった。傷口からは、もう止まることなく血が滲み出し、体温を奪っていく。心臓の鼓動は少しずつ機能を失っていき、徐々に近づく「死」が新橋のすぐ側まで迫っていた。
――死の間際で新橋凪助は己の人生、「新橋凪助」という存在そのものを嫌悪するのだった。
「なんだ……俺は……ただ空虚で薄っぺらい人間なだけだったのか……」
ミニコーナー企画!
第2回 「休日の1ページ」
休日……それは人の安らぎの1日。日常の中で最も心の緊張が解れ、心も身体も休まる1日の中でこそ見られる登場人物達のプライベートな瞬間。
これはとある人物の休日の何気ない一時のお話……
横浜市 とあるカフェにて休日を過ごしている荒谷杏奈は窓を眺めていた。
はぁ~……久々に休みだけど何しよ……なんとなくで最近できたカフェに来てみたけど、やっぱり暇だな〜。でもただボーっとして過ごすのも勿体ないし、せっかく天気良いんだし目的も無く散歩でもしてみるかな?
――数十分後――
妙蓮寺まで来たけど、案外食べ歩きとかやるのも悪くないかもね。そういえば心陽兄ちゃんも食べ歩き好きって言ってたっけ。また連絡したら一緒に食べ歩きしてくれるかな? でもなんかマネジがうるさそうなんだよな〜「男と歩いてるとこ週刊誌に抜かれたらどうすんの!」とかいわれそう……。
そんな中、通りの脇道を歩いていると、一匹の野良猫と出会う。黒の縞模様のついた野良猫は、人に慣れているのか手を差し出すと、その手に擦り寄りゴロゴロと喉を鳴らす。
ふふっ可愛い。人懐っこいんだね。猫ってお腹とか撫でても大丈夫なのかな? なんかダメって聞いた子あるような気がするけど……頭だけにしとこうか。
しばらく猫を撫で続け、心が和んだところで、そろそろ帰ろうと新横浜駅向かっていた頃、帰り道の途中で前から様子のおかしな男性とすれ違う。
その男性の目の下はクマで真っ黒になっており、瞳に光はなく、まるでこの世に絶望したかのようなやつれた顔をしていた。
そしてその男性の胸元に「PSID」の文字が刻まれていた。
あの文字って……
男性はフラフラと歩いているが、杏奈は声をかけられずただ見送り駅へと歩みを進めるのだった。
帰りの電車で車窓を眺めながら杏奈はふと考える。
そういえばあの人の胸の文字って……心陽兄ちゃんやお兄と同じ所の人なのかな? どうしてあんな辛そうな顔してたんだろ。
少し気になって最近の事件などをネット記事を調べると、それらしい記事がすぐに見つかる。
「星の守劇場倒壊事件」――千葉県船橋市の星の守劇場という施設が謎の倒壊事件が起き、生存者は確認できず、行方不明者1人を除き800人に及ぶ犠牲者が出たというたった2日前の事件であった。
多分これかな……あの人はこの事件の調査をしてたのかな……でもあんなところ歩いているのはおかしいような……だとしたらこの行方不明者1人って……。
そう考えている内に電車は自宅の最寄り駅に到着し、杏奈は急いで下車する。
色々な推測が頭の中で飛び交う中、考えたところで面倒事に巻き込まれるのは御免だと深く考えることをやめ、自宅に帰りゆっくりと休んだ。
最後は色々あったけど、悪くない休日だったかな。また今度、心陽兄ちゃん食べ歩きに誘おうかな。
今日あったことをベッドの上で振り返り、杏奈はゆっくりと眠りにつくのであった。




