第八十一話 哀に呼ばれし徒花
全身傷だらけで、立っているだけでも苦しいはずだった。
それでも、神を見据える紫の瞳には、絶望も諦めも宿っていない。
「ケセナは、あんたの哀しみだけで決められる人じゃない……!」
自分勝手な理屈で愛しい家族を閉じ込めようとする神を、ラルは真っ直ぐに睨み返した。
「あたし、あんたみたいな『嘘つき』、大嫌いなの!」
叫びとともに、冷え切った絶望の空間へ、ふわりと温かな金色の粒が舞い始めた。
ラルが喚び出した光精霊たちだ。
「風だけが、あたしの味方じゃないんだから!」
無数の光の粒が彼女の全身を包み、裂けた頬も、打ちつけた身体の痛みも、じんわりと癒していく。
その耳元で、光精霊たちの無邪気な声が弾んだ。
『風と一緒に遊びたいー』
『あの変なもやもや、消えるかも』
『風と一緒〜!』
「……風精霊と、光精霊を、一緒に……?」
ラルは紫の瞳を見開いた。
風と光を重ねるなど、試したこともない。精霊たちの呼吸が噛み合わなければ、魔力は暴走し、ラル自身を内側から潰しかねない。
それでも、グレンたちを起こすには、もうこれしかなかった。
(お願い……力を貸して!)
風と光を、同時に喚ぶ。
次の瞬間、広間の底から淡い緑の暴風と、眩い金の光が螺旋を描いて噴き上がった。
光を纏った風が、浄化の竜巻となって広間を駆け抜ける。
精霊たちの無邪気な遊び心ごと巻き込んだその複合魔術が、哀神の放っていた重く冷たい波動を、内側から強引に吹き払っていく。
「……何……?」
哀神の顔に、初めて明確な驚きが走った。
神の重圧が砕けた直後、石畳を蹴り砕く音が響き、解放されたグレンが漆黒の外套を翻し、ラルの目前へ神速で駆け寄った。
「先生……っ」
彼は哀神へは目もくれず、真っ先に満身創痍のラルへ駆け寄り、その場へ片膝をつく。
「すまない、ラル……!」
絞り出すような声だった。
ラルをたった一人で矢面へ立たせてしまった悔いが、その顔に隠しようもなく刻まれている。
だが、ラルは柔らかく微笑み、首を横に振った。
「あたしは平気。光魔術で、血は止めたから」
「……ああ。そうだな」
グレンは深く息を吐き、それから大きな手でラルの赤みがかった金髪を、がしがしと乱暴に、それでもどうしようもなく愛おしげに撫で回した。
「……ありがとう、ラル。よく耐えてくれた」
「ふふっ」
頭を揺らされながら、ラルは猫のように目を細めて笑う。
「さーて、反撃と行こうぜ。うちの特攻隊長が、見事に道を開いてくれたんだからよ」
「ほんと、無茶苦茶さには呆れるわね。……最高だけど」
背後では、重圧から解放されたガイアが短剣を鳴らし、キョウが長弓を構え直して不敵に笑っていた。
頼もしい仲間たちの声を受け、グレンはゆっくりと立ち上がる。
つい先ほどまで神の重圧に耐えていた姿とは打って変わり、その身には『王の剣』としての恐るべき殺気が満ちていた。
黒い瞳が、階段上の哀神を鋭く射抜く。
「行くぞ。神だか何だか知らんが――」
グレンは漆黒の剣を軽々と肩へ担ぎ上げ、獰猛な笑みを浮かべた。
「ラルの嫌いな『嘘つき』を、これから全員で叩きのめす」
「うん!」
ラルが力強く頷き、槍を構え直す。
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その頃。
隠れ家は不気味なほど静まり返っていた。
寝台で眠っていたケセナが、むくりと上体を起こす。
ゆっくりと開かれた琥珀色の瞳。
そこに宿っていたのは、先ほどまで怯えていた気弱な青年の光ではない。
ベラリティル本宅の方角を静かに見据える眼差しには、五千星霜を生きる、古く冷たい魂の気配が満ちていた。
「……ファルイーア様?」
傍らで鍋の火を見ていたエンジが、静かに声をかける。
だが、金髪の青年は一瞥すら寄越さなかった。
(……っ)
エンジの背筋へ、冷たいものが走る。
違う。これはファルイーアでもケセナでもない。四星霜前の戦場で、リュウショウとグレンの傍らにいた蒼髪の男。正史に救世主と刻まれた、オウセイ・カイラーヌ。その気配そのものだった。
「なるほど。……報告の通り、というわけですか」
グレン捜索の折に目を通した報告書が、脳裏をよぎる。
ファルイーアの内に『オウセイの人格がいる』。にわかには信じ難かった記述を、エンジは今、目の前の現実として受け止めた。
「オウセイ・カイラーヌか?」
鋭く問いかけると、青年はふっと息を吐き、ようやくこちらへ顔を向けた。
「……お前は、黒い尻尾……いや、グレンの腰巾着か。相変わらず、小言が多そうな顔をしているな」
「……いい加減、名前を覚えていただけませんかね」
エンジは深い溜息を吐いた。
四星霜前の内乱中も、オウセイはついぞ自分の名を覚えようとせず、『グレンの腰巾着』だの『小言使い』だのと呼んでばかりいたのだ。
「ふん。覚えて何になる」
オウセイは鼻で笑い、掛け布団を払って寝台から降りようとする。
だが、熱に浮かされ、限界まで消耗したケセナの肉体では、着地した途端に足から力が抜け、身体が大きくふらついた。
「っ……」
床へ倒れ込みそうになったその身体へ、エンジは咄嗟に手を伸ばしかけ――ぴたりと空中で止めた。
そして、そのまま静かに手を下ろす。
「……俺は、平気だぞ?」
壁へ手をついてどうにか体勢を立て直したオウセイが、その不自然な遠慮を見て、くすりと意地悪く笑った。
「ええ。ですが、貴方が平気でも、この身体の持ち主であるファルイーア様が平気とは限りませんから」
エンジは冷や汗を呑み込み、極めて事務的な声で答える。
「お前が、この身体の持ち主を『主君』と認めていると?」
「報告と、ここまでの彼の働きを見る限りは」
「あははっ。薄っぺらいな」
オウセイは壁へ背を預け、嘲るように目を細めた。
「ファルイーアを『感情のない兵器』として、率先して死地へ送り込む作戦を立てていた、あの冷酷な副団長殿が。随分、丸くなったものだ」
「……!」
容赦なく急所を抉るその言葉に、エンジの表情がわずかに険しくなる。
命を削って助け出した存在を、結局は道具として使い潰そうとした。その過去に対する、明確な怒りと皮肉だった。
オウセイは壁から身を離し、ふらつく足取りのまま、隠れ家の分厚い石扉へ向かって歩き出した。
「……そう仰る貴方も、同じではありませんか」
エンジの静かな反撃が、その背へ投げられる。
正史では救世主と讃えられながら、四星霜前、貴方もまた後方にいたではないかと。
だが、扉の前へ立ったオウセイは、振り返りもせず、ぽつりと自嘲気味に零した。
「あの頃の俺は――見ていることしか、できなかったからな」
「……え?」
エンジが虚を突かれたように目を見開く。
盤面を動かしていたのではない。前線へ出て庇うことすら叶わず、ただ見ているしかなかった無力さ。その一言には、救世主と呼ばれた存在の、あまりにも深い悔恨が滲んでいた。
オウセイはそれ以上を語らず、重厚な石扉へ手をかける。
「悪いが、寝ていられない事情ができた。……俺が、呼ばれている」
そう言い残し、ふらつく身体を引きずるようにして、オウセイは夜巡りの皇都へ姿を消した。
石扉が閉まり、一人残された地下室で、エンジはしばし呆然と立ち尽くす。
だが、すぐにはっと我へ返り、石扉へ駆け寄った。
問い質したいことは山ほどあった。
言葉の意味も、あの悔恨の正体も。
だが、それ以上にあの身体は、すでに熱と疲労で限界を迎えている。
「お待ちください、オウセイ殿!」
エンジが石扉を押し開け、皇都の暗がりへ飛び出す。
だが、遅かった。
隠れ家の外の路地裏には、巡回から外れて周辺を警戒していた応龍騎士団の残存兵たちが数名。
ふらつく足取りの小柄な金髪の青年を、すでに完全に取り囲んでいた。
「しまっ……!」
エンジが舌打ちし、懐の武器へ手を伸ばしかけた、その刹那だった。
危惧は、杞憂では終わらなかった。
オウセイは、囲まれてなお表情一つ変えず、ただ鬱陶しそうに右腕を軽く振るう。
突如、目に見えない巨大な質量の『何か』が路地裏を薙ぎ払い、取り囲んでいた重武装の兵士たちが、一斉に壁へ激しく叩きつけられた。
「なっ、何が……!?」
エンジは驚愕に目を見張る。
青年の足元は熱に浮かされて覚束ない。魔力も底をついているはずだ。
それなのに放たれたのは、魔術の形を取らない。
魂そのものから叩きつけられる、神にも似た純粋な威圧だった。
「失せよ、有象無象」
倒れ伏す兵士たちを見下ろし、オウセイの琥珀色の瞳が闇の中で冷たく発光する。
「黄金龍が腹を減らしている。……それでも餌になりたいのなら、来るがいい」
ひっ、と兵士の一人が短い悲鳴を漏らした。
魔力すらないはずの青年の背後に、彼らは確かに見たのだ。主の歩みを阻む愚者どもを、骨の髄まで喰らい尽くそうと大きく口を開く、巨大な黄金龍の幻影を。
「ば、化け物……っ!」
圧倒的すぎる格の違いに、兵士たちは武器を取り落とし、我先にと蜘蛛の子を散らすように逃げ出していった。
周囲から気配が消えた途端、
「……っ、く……」
オウセイの顔が苦痛に歪み、限界を超えた身体ががくりと膝を折る。
「オウセイ殿!」
エンジは即座に駆け寄った。石畳へ倒れ込む寸前、オウセイの指がエンジの外套の端を掴む。それを合図に、エンジはその身体を支えた。
そのまま熱を帯びた細身の身体を、有無を言わせず軽々と抱き上げる。
「……貴様っ!」
突然抱き上げられたオウセイが、屈辱に目を見開いて抗議の声を上げた。
「暴れないでください。貴方の足より、私が走った方がはるかに速いですから」
五千星霜を生きる救世主の抗議を、エンジは極めて事務的な正論で封じた。
「それと、向かっている本宅の入口には厄介な魔力感知の結界が――」
「知っている」
オウセイが不機嫌そうに、冷たい声でその言葉を遮る。
「は?」
「あそこは元々……俺の家だ」
その言葉に、エンジは息を呑んだ。
三星霜齢までファルイーアが実験体として繋がれていた、ベラリティル邸の地下室。
あの広大な屋敷そのものが、五千星霜前のオウセイの『家』だったというのか。
(だとしたら、あの屋敷の方角から微かに滲む、この肌が粟立つような異常な気配は……)
オウセイの過去と、確実に繋がっている。
すべての点が、一本の残酷な線で結ばれていく気配に、エンジはそれ以上思考を深めるのをやめた。
腕の中の青年をしっかりと、けれど決して傷つけぬよう抱き直し、前だけを見据えて全力で駆け出す。
抱えた身体は熱を帯び、額には大粒の汗が浮かんでいる。何度か、苦しげに表情が歪むのを感じながら、それでもエンジは足を止めなかった。




