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第四十五話 治癒という冒涜

 黄金龍は、沈黙した。


 ケセナの右腕の奥底で蠢いていたはずのそれは、圧倒的な深淵に触れ、怯えるように気配を潜めていた。


 強引に捩じ曲げられた精霊たちの悲鳴が静まったあと、ケセナはその場に仰向けに寝転んだ。枯れた草が乾いた音を立てるのを聞きながら、琥珀色の瞳を静かに閉じる。


「ああ……この身体だと、やはり反動があるんだな」


 客観的で、どこか他人事のような呟きが口をついて出る。

 直後、全身の骨が軋むような激痛が走り、ケセナは痛む身体を抱き締めるように丸まった。


 先ほど行使した力は、ファミラスの魔術とは似て非なるものだった。

 精霊と契るのではなく、捩じ伏せ、搾り取り、使い潰す力。理を逸脱したその業に、今の脆い肉体が耐えきれるはずもなかった。


 痛みに耐えながら、ケセナの脳裏に暗い思考が渦巻く。


 大切な人が苦しんでいる刻に、何もできない。

 なら、自分には何ができる?

 かつてのように、ただ命じられるまま力を振るい、何かを壊すことしかできないのか。


「結局、僕は『兵器』だからか……」


 自嘲する声は、冷たかった。

 黄金龍を怯えさせたオウセイの記憶と、己の心の傷跡。

 そして、ただの兵器として扱われてきた絶望。


 入り乱れる感情の中で、どれが『自分』なのか、もう分からなくなっていた。


 明るく前向きで、生きることに貪欲なケセナか。

 冷酷で死を望むオウセイか。

 それとも、ただ壊れたファルイーアか。


 ひた隠しにするしかない。

 自分という、あまりにも曖昧で恐ろしい化け物を。

 ケセナは痛む身体を抱いたまま、浅い眠りへと落ちていった。


 ------


 肌を刺す風は少しだけ和らぎ、東の空が白み始めていた。


 昼巡り初めの靄が立ち込める草原で、ケセナは静かに立ち上がり、大きく背を伸ばす。

 その琥珀色の瞳からは、いつもの柔らかな光が完全に失われていた。


 同じ頃。


 街道へと続く冷たい石階段の下では、ぱちぱちと小さな焚き火の音が鳴っていた。


 高熱に魘されていたグレンの容態は、夜巡りの終わりと共にようやく峠を越えたらしい。ゆっくりと重い目を開けると、すぐ横で、看病を続けていたのだろう愛弟子ラルが、疲れ切って小さな寝息を立てていた。


「ありがとうな」


 掠れた声で、誰にともなく呟く。


「痛っ……くそっ」


 身体を起こそうとした瞬間、全身の傷が強烈に痛み、思わず悪態が漏れた。


 顔をしかめながら視線を巡らせると、焚き火の向こうでは、もう一人の愛弟子であるガイアが、大の字になって無防備な鼾をかいている。


(まだまだ子供だな、お前らは)


 こんな過酷な旅に巻き込み、あまつさえ自分のせいで苦労までかけてしまっている。


 深い申し訳なさを覚えながら、グレンは長く息を吐いた。


 微かに、草と石が擦れる音が響いた。


 グレンの空気が一変する。

 先ほどまでの『師』の顔から、応龍騎士団団長の顔へ戻り、痛む身体に鞭打って本能的に身構えた。


 敵か。


 こんな昼巡り初めの靄が濃い刻に、気配を殺して近づいてくる者がいる。

 グレンは鋭く目を凝らし、階段の入口へ視線を向けた。

 そこには、昼巡り初めの陽に背を向けたケセナが、静かに立っていた。


「ケセナ……?」


 張り詰めた声で問う。

 だが、返事はない。


 異様な雰囲気を察したグレンの右手は、思わず己の腰にあるはずの剣を探していた。だが武器は少し離れた岩場に置いたままだ。

 短く舌打ちし、痛む身体に鞭打って警戒を強める。


 靄の中、近づいてくるケセナは無言だった。

 底知れない冷たさを纏うその姿に、グレンは低く、確かめるように問い詰める。


「お前は、誰だ?」


 その声で、ようやくケセナの足がぴたりと止まった。


 誰か。


 その問いに答えられないように視線がふらふらと泳ぎ、やがて「ああ」と、億劫そうな嘆息を漏らす。


 その仕草。

 その息の吐き方。

 グレンには、はっきりと覚えがあった。


 顔を合わせれば憎まれ口を叩き合い、幾度と言い合いを繰り返した相手。

 あの昼夜、リュウショウと共に出かけた森で初めて出会った、『救世主』と呼ばれた蒼髪の男。


「オウセイ・カイラーヌか……?」


 絞り出すようなグレンの声に、ケセナはゆっくりと首を横に振った。


「どうだろうな。俺であって、俺ではない。お前は……俺を、埋めただろう?」


 どこか相手を試すような、腹の立つ口調。


「ふざけるな。ケセナは……ファルはどうした!」


 グレンの怒鳴り声に、毛布に包まっていたラルとガイアがびくりと跳ねて目を覚ました。


「ん……先生?」


 目を擦りながら起き上がるラルを、グレンは視線だけで制する。

 ガイアもまた、目の前に立つ異様なケセナを見て、言葉を失っていた。


「ファルイーアは、“僕”だよ」


 ケセナがにやりと、彼らしからぬ不敵な笑みを浮かべて言った。


「押し問答は面倒だ。グレン・ラティア。玄武の末っ子。俺の望みは、『俺』が叶える」


 ケセナが、ゆっくりと右手を上げた。


(そうだったな。あんたは面倒ごとが嫌いなくせに、いつも面倒ごとに首を突っ込むんだ)


 グレンが胸中で悪態をついたのと、ほぼ同刻だった。


 ケセナの足元から、爆発的な魔力が弾けた。

 鼓膜を劈くような、甲高い異音。

 それは自然の理を無理やり捩じ曲げられた精霊たちが上げる、痛ましい悲鳴だった。


「なに、これっ!」


 ラルが悲鳴を上げ、両手で耳を塞いで蹲る。

 ガイアとグレンの脳裏には、その異様な光景と音の記憶が鮮明に蘇っていた。

 四星霜前に終結した、あの凄惨な戦争の景色そのもの。


「ファル! やめろ!」


 ガイアが叫び、止めようと必死に手を伸ばす。

 けれど届かない。

 ケセナの周囲には、他者の介入を――なにより他者に触れられることを無意識に拒絶するような、強固な空間の壁が作られていた。


「ファルイーア!!」


 ガイアの悲痛な叫びに、ケセナは顔を歪め、吐き捨てるように怒鳴り返した。


「治療魔術は苦手なんだ、黙っていろ!」

「治療、だと……!?」


 意味を掴みきれず、グレンが息を呑む。


「したくもない奴にする治療魔術は、なおさらな!」


 ケセナの放った眩い光が、グレンの巨体を包み込んだ。


 攻撃ではない。

 それは、光精霊の理を捩じ曲げてまで強制的に行使された、規格外の治癒の力だった。


 形だけはファミラスの治療魔術に似ている。

 しかし、その本質は違う。精霊へ乞うのではなく、ケセナ自身の膨大な魔力と、オウセイから受け継いだ業によって、力ずくで従わせるものだった。


 光精霊を搾り取る力の渦が、グレンの傷を強引に癒していく。


「なっ……」


 光が収束し、グレンは己の身体を見下ろして、息を呑んだ。


 ツェヴァンに肉を抉られ、熱を発し、動かすことすら困難だった全身の深い傷が、痕跡すら残さず綺麗に消え去っていたのだ。


 圧倒的な奇跡。


 けれど、その代償は今の脆い人間の器にはあまりにも大きすぎた。

 治療を終えたケセナの身体から、ふっとすべての力が抜け落ちる。

 彼は何も言わず、ただ静かに後ろ向きへ倒れ込んだ。


「ケセナ!」


 ラルが悲鳴のような声を上げて駆け寄ろうとする。

 だが、その行く手を遮るように、小さな影がすっと立ち塞がった。

 銀髪の幼女の姿をとった剣精、プラークルウだ。


「プラウ……?」

「我が主は眠っているだけ、だから」


 淡々と告げるその言葉尻には、はっきりとした拒絶が込められていた。

 言葉にせずとも、『これ以上、近寄らないで』という冷たい意思が全身から滲んでいる。


「なんで……?」


 理解できず、ラルが震える声で問う。

 プラークルウは胸元を強く掴み、苦しげに顔を歪めた。

 先ほど聞いた精霊たちの断末魔が、同じ精霊である彼女の内側にこびりつき、今も消えてくれない。


「私は……精霊を強制的に編み上げる、あの力が大っ嫌いなんです!」

「え?」

「こんな……木偶みたいに魔術を振るう主なんて……もう、放っておけばいいんです!」

「え? ちょっ、プラウ!?」


 悲痛な叫びを冷酷に言い捨てると、プラークルウはラルの制止も聞かず、ふっと光の粒子となって自身の住処である封玉の中へ戻ってしまった。


 取り残されたラルは、涙を潤ませた目でグレンを見る。


 完全に傷が消えた己の身体を、どこか悔恨の滲む手つきで確かめながら、グレンは重々しく口を開いた。


「プラークルウは剣精だ。精霊を強制的に使役するあの力を、本能的に許容できないんだろうな……」

「……」


 ラルはきつく唇を噛み締めた。

 倒れたまま動かないケセナを見つめ、グレンは静かに息を吐く。


 今の彼を包む痛々しい魔力の残滓と、プラークルウの拒絶に戸惑う弟子たちを慮り、グレンは重く口を開いた。


「少し、一人で休ませてやれ。俺たちが囲んでいたら、目を覚ました刻にまた追い詰める」


 グレンは少し考えたあと、二人へ役割を振り分けた。


「出発は、ケセナが落ち着いてからだ。俺は少し用を済ませてくるが、すぐに戻る。ガイアは水と食料を頼む」

「おう」

「ラル。お前はここに残って、離れたところからケセナを見ていてくれ。目を覚ましても、すぐには近づくな。姿が見えれば、自分が囲まれていると思うかもしれない」

「分かった」


 ラルは迷うことなく頷いた。


 階段下から少し離れた草原側には、人一人が身を隠せるほどの石垣がある。そこならケセナから姿は見えず、風を通して呼吸や僅かな身動きも感じ取れる。


「絶対に、一人にはしない」

「頼んだぞ」


 グレンはラルの肩を軽く叩き、ガイアと共にその場を離れた。


 一人残ったラルは石垣の陰へ腰を下ろし、ケセナの呼吸を運んでくる風へ意識を澄ませた。


 規則正しい寝息が聞こえる。

 それを確かめ、張り詰めていた肩から僅かに力を抜いた。

 夜巡りの間、ほとんど眠らずグレンの看病を続けていた。


 そのうえ、ケセナが精霊を犠牲にしてまで治療魔術を行使し、プラークルウから拒絶される姿を目の当たりにしたばかりだ。

 身体も心も、とうに限界を迎えていた。


「起きるまで……ちゃんと、見てるから……」


 誰に聞かせるでもなく呟き、重くなった瞼を擦る。

 それでも、抗いきれなかった。

 やがてラルは石壁へ頭を預けたまま、深い眠りへ落ちていった。


 ------


 夜巡りの名残が完全に消え去り、陽射しが辺りを白く染め上げた頃。

 鉛のように重く痛む身体を、ケセナはゆっくりと起こした。


「うっ……」


 割れるように痛む頭を押さえながら辺りを見回し、怪訝に眉を寄せる。

 陽はすでに高い。


「グレンさん……? ラル? ガイア……?」


 返事はない。

 掠れた声は、草原側の石垣まで届かなかった。


「プラウ……?」


 剣精の返答もない。

 焚き火の跡からは、まだ微かに白い煙が上がっている。


 その横には、彼らの荷物が置かれたままだ。

 荷物がある。

 なら近くにいるはずだ。


 そう考えるだけの余裕が、今のケセナには残っていなかった。


 精霊を殺した自責。

 オウセイとしての呪われた記憶。

 何もできない自分。

 誰もいない階段下の空間。


 それらが、ケセナの思考を最悪の結末へと引きずり込んでいく。


(置いていかれた……?)


 荷物を置いていくほど、自分から急いで逃げ出したかったのか。あの戦場でも、役目を終えた壊れた兵器は、こんな風に放置されていたのだから。


 自分の居場所が跡形もなく消えたのだと、ケセナは疑いもしなかった。


「でも、最後くらい――」


 ケセナは震える足で、ふらふらと歩き出す。

 たとえ罵られようとも。

 別れくらいは、言いたかった。


 彼は気づけなかった。

 石垣を隔てたすぐ近くで、夜通しグレンの看病を続けたラルが、疲労に耐えきれず眠り込んでいることを。

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