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異世界で無記憶無道徳【Gijutsu mahōの時代】改訂版  作者: 波修羅 直剣
「第1巻」サーンウッドでの幼少期・第一部
1/15

Requiem

空気が薄い。いや、むしろ完全に存在しない。


(ど、ど、どこ……?)


壁は狭く、息苦しい。捕らえたり押し潰そうとする意図はなく……むしろ外へ押し出そうとしている。湿った避難所のようでありながら、同時に虚無そのものでもあった。


(な、何が起きた……?)


慌ただしく、落ち着きのない足音が聞こえる。一方からは凍えるような冷たさとともに、サイレンのような音や悲鳴、恐怖、そして泣き叫ぶ声が次第に遠ざかっていく。そしてもう一方からは温かさが広がり、緊張しながらも先ほどのような狂乱状態ではない声たちが満ちてくる。


(一体……何が起こっているんだ?)


どこからともなく響く、耳には届かないが心の奥底に直接響くような女性の声が告げる。


(……生まれるのよ……)

(……えっ、誰がそんなことを……え、うわあああっ!!?)


途端に、その温かな感覚は質素な部屋の冷たい空気へと塗り替えられた。無数のロウソク、湿ったシーツと布が散乱する広い寝台、もろそうな木の天井、そして月明かりに照らされたひどく粗末な床。

赤ん坊の泣き声が部屋中に響き渡る。


「うわあああーん! うわあああーん!!」

(何が起きている!? どうして何も見えないんだ!?)


年配の助産師が赤ん坊を抱き上げ、慎重に一人の男へと手渡す。


「エリック(Erick)様! おめでとうございます。元気な男の子ですよ!」


その男は二十一歳ほどの若さで、茶色の髪に青い瞳を持ち、背が高く引き締まった体格をしていた。助産師が引き続き出産後の処置を行う間、男はとても大事そうに赤ん坊を抱きかかえる。


(えっ!? 何!? どうしてこんなに力が入らないんだ……!? 誰かが私を……抱いている? 何を言っているのか全く分からない。どこの言葉だ?)

「峠は越えましたよ、イレサ(Iretha)様。もう少しだけいきんでください。これで終わりますからね」


助産師がへその緒を切り、男が赤ん坊を毛布でおくるむ。寝台に横たわる汗と涙にまみれた女性は、赤ん坊を抱く男に向けて、疲れ切りながらも小さく微笑みかけた。


「……やったわね、あなた……。お、お願い、この子に名前をつけて……いい名前を、ね?」


男は腕の中の小さな命を見つめ、それから妻へと視線を移して微笑んだ。


(すごく……眠い……それに……泣きたい気分だ……でも、どうしてなのか……)


直後、赤ん坊は眠りに落ちた。


***


その声が告げる。


(……ねえ……起きて、起きてってば……)


ゆっくりと目を開けながら、心の中で答える。


(……んん……頼むから寝かせてくれよ……)


初めて目を開けて視界に飛び込んできたのは、輝くピンクの瞳だった。白い髪に整った顔立ち、細身の体つきをした美しい女性。白い寝間着姿の彼女は、誇りと幸せの入り混じった眼差しで自分の小さな赤ん坊を抱きしめている。

息子の瞳を見た彼女は、歓喜の声を上げた。


「あなた! あなた! 見て、目を覚ましたわ……私と同じ目……なんて可愛いの!」


父親がすぐさま部屋に入ってきて、寝台に上がり覗き込む。


「本当だ!……それに髪の色はお前と同じだな……うーん、これじゃあ本当に俺の子かどうやって確かめればいいんだ?」


すかさず女性が肩を叩く。


「エリック! 次そんなこと言ったら外で寝かせるわよ」


肩を押さえながら、男は引きつった笑みを浮かべる。


「ほ、ほんの冗談じゃないか!」


一方、赤ん坊は彼らの言葉を全く理解できぬまま、小屋の天井とロウソクが落とす影をただ見つめていた。 口をぽかんと開けたまま思考を巡らせる。


(誰だ……この人たちは……?)

(イレサとエリック、あなたの新しい両親よ)

(……新しい?)

(そう言ったでしょ。彼らの言葉が理解できないなんて驚きだわ)

(理解できるはずなのか?)


全く理解できない言葉で話す両親を、目を細めて見つめる。


(ええ、まあ……いや、あなたの思考レベルからして、てっきり転生者だと思ってたんだけど)


声の主はため息をつき、言葉を続ける。


(この辺りの出身じゃないから言葉が分からないのね。ともかく、この生活に慣れるまでしばらく一人にしてあげるわ)

(私が……転生した?……じゃあ、これは幻覚でも夢でもないのか……)

(当然でしょ。ここにいるってことは、あなたは死んだのよ……落ち着いて。混乱するのは転生者によくある症状のはずよ、たぶん……うーん、どうだろ)

(私が……死んだ?……でも、どうやって?)

(あなたが知らないなら、私が知るわけないじゃない。今はそのことは考えないことね。首を動かして両脚の間を見れば、自分が男だって分かるはずよ。前世が女だったとしても、ショックを受けないといいけど)

(男だったか女だったかなんて覚えてないから、正直どっちでもいい……)


イレサとエリックが笑い合い、赤ん坊には理解できない会話を交わしている。カエリアン(Kaelian)はただ好奇心から彼らを観察することしかできない。そんな中、女性が口を開いた。


「Huhu、 veku vakarpredacuro na ker、 oyid ted kobico na da kaelian yabrena rul liod ted kobico jate、 gadra ru onbriratori Kaelian hana?」

「Kaelian? net、 ve gerseke uta sanaeke da onbri!」

「Protir sany、 ve uta tesenke、 ru Kaelian onbriraoka、 mimu oidtao」


声が続ける。


(本当にそれすら覚えてないの?……うわあ、思ってたより重症ね。あなたの名前を聞くのはもう無駄みたい。とにかく私はもう行くわ、さよなら……ああ、そうそう。お母さんは今、あなたのことをカエリアンって呼んだわよ)

(教えてくれてありがとう……って、待て、君は何者なんだ!?……んぐっ)


その瞬間、イレサに抱き上げられ、授乳が始まった。


***


翌朝、イレサの腕の中でシーツに包まれたまま目を覚ます。彼女はゆったりとした青いドレスを着ており、その袖は幅広く、茶色のベルトを締めている。


(なんだこの服は?……少し……不自然な気がする。今の私に、何が自然かなんて語る資格はないけど)


部屋は温かな日差しに満ち、窓からは心地よい風が吹き込んでいる。家の中では、軽快で急ぎ足の足音が近づいてくる。


「イレック(Ireck)? もう起きてるの!? こっちに来て、弟に挨拶してあげて」


五歳くらいの元気いっぱいの男の子が入ってくる。口元には満面の笑みを浮かべ、父親と同じ茶色の髪に青い瞳を持っていた。両手を広げてイレサへと駆け寄りながら、少年はねだった。


「僕も抱っこしていい!? ねえ? ねえ? お願い、やらせて! すっごく気をつけるから!」


イレサはイレックを見て微笑む。


「ふふ、そうね、いい子。男の子なんだから、まずはおむつを替えるのを手伝ってちょうだい」


カエリアンを寝台に寝かせ、ゆっくりとシーツを解いていく。そして抱き上げようと、彼女の柔らかく繊細な手が伸びてくる。その手が胴体に触れた瞬間、カエリアンは百万本の針が背骨に直接突き刺さるような激痛を感じた。針は椎骨の隙間を縫うように侵入し、肌には焼けるような痛みが走る。まるで真っ赤に焼けた鉄を押し当てられたかのような感覚だった。カエリアンは目を限界まで見開き、息を吸い込むために口を大きく開けた。


「うわああああああああああああーん! うわあああああああああーん!!」


その凄まじい泣き声に、イレサとイレックは思わず耳を塞いだ。すぐさま扉が開き、袋を持ったエリックが血相を変えて飛び込んでくる。


「どうした!? 赤ん坊に何があった!?」


耳から手を離し、イレサは夫を見上げた。


「何でもないわ! おむつを替えるのが嫌だったみたい」

(痛すぎる!! 手が燃えてるのか!? たった一日の人生でこんな感覚味わったことないぞ!!)


実際には泣き叫びながら手足をバタつかせ、ただ喃語を漏らしているようにしか聞こえない。イレックがイレサのドレスを引っ張り、赤ん坊を指差す。


「ママ……その赤いあざ、なに?」

「え?」


視線を向けると、カエリアンの脇腹に手の形をした赤い痕が二つ浮かび上がっていた。


「ど、どういうこと? そんなに強く握ってないのに」


少しの間、彼女は自分の両手を見下ろした。


「肌が敏感すぎるのね。急いで終わらせるわ」


再び、彼女の手が近づく。カエリアンは片目から涙をこぼし、唇を噛み締めながら念じる。


(やめろ、やめろ、やめろ!! 二度と触るんじゃねえ!! 歯が生えてて動けたら噛みちぎってやるのに!)


目を閉じ、必死に彼女の手を払いのけようとするが、赤ん坊の体ではどうにもならない。


(いやああああ……!!……あれ?)


片目だけを開け、恐る恐る視線を上げると、目を細めて微笑む母親の顔があった。


「ほらね? そんなに悪くなかったでしょ、おチビちゃん」


カエリアンが気づかないほどの凄まじい手際で、イレサはおむつを替え終えていた。同じ速さで新しいシーツに包み込み、イレックへと手渡す。少年は笑みを浮かべながら言った。


「本当に泣き虫な赤ちゃんだこと。でも……それでもお前のこと大好きだからね、弟くん」

(抱かれるのは居心地が悪いけど……シーツ越しなら痛くないな……)


***


小屋の外では強い風が吹き荒れ、空は晴れ渡っている。窓からは草の香りが入り込んでいた。部屋の隅に置かれた小さな木製の柵の中で、カエリアンは寝転がって自分の足を見つめている。


(あれから二ヶ月が経った。まだ言葉は理解できないけど、いくつかの単語や名前は聞き取れるようになった。赤ん坊って最高だな! 何の義務もないし、一日中寝てられる。少し泣けばイレサがご飯をくれるし。何て言えばいいんだ? ミルクの味がすっごく美味しいんだよ! まあ、火曜日だけなんだけど……気のせいかもしれないけど)


短い腕を胸の上に置き、床の上で体勢を整える。


(全部が楽しいわけじゃないけどな。体を洗われる時、服を着替えさせられる時、布越しじゃなく直接肌に触れられる時……とにかく痛い。スキンシップが拷問みたいだ)


寝間着の上から力いっぱい体を掻きむしり、ため息をつく。


(ううっ、誰かに触られるたびに発症するこの忌々しいアレルギーのせいだ。ヒリヒリするし、なかなか治らないし)


イレックが手に何かを持って駆け寄ってきて、柵に寄りかかる。


「やあ、カエル(Kael)! おもちゃを持ってきたよ。生後二ヶ月おめでとう!」


カエリアンの目の前におもちゃを置くと、少年はやって来た時と同じ速さで笑顔のまま走り去っていった。


(……犬のぬいぐるみ? ふむ。このボロボロ具合と汚れたシーツの匂いからして、イレックのお下がりだな。たぶん一緒に寝てたやつだ……プレゼント……ってことか?)


目を細める。


(前世で犬を飼ってたっけ?)


声が意識に滑り込む。


(本当にそんなこと気にしてるの?)


声の主を探して、カエリアンは周囲を見回した。


(戻ってきたのか! でも……やっぱり姿は見えないな)

(それは私があなたの頭の中にいるからよ)


カエリアンは自分の額をトントンと叩く。


(コンコン)

(ふふっ、物理的にって意味じゃないわよ。それで、何か思い出した?)


ため息をつく。


(ああ……でも……断片的なことだけだ)

(時間が経てばもっと思い出せるかもね)

(思い出すほど、ここでの生活が不便に思えてくるんだよ。シャワーもない、電気もない、テレビもスマホもない! 選べる家族はたくさんあったはずなのに……よりによって貧しい農民の家に生まれるなんて!)

(ええと……あなたが言ってる物の半分も知らないけど、この家族はそこまで悪くないわよ。この地域の、いや、都市部を除いた王国全体で見ても平均的な家だから)


目を大きく見開き、身を乗り出そうとする。


(なんだって? 王国って言ったか!? この場所ではまだ君主制が敷かれているのか?)

(ええ、ここはラグノリス(Ragnorys)王国よ。住むには最高の王国の一つね……あなたが特別でさえなければ)

(チッ……聞いたこともない王国だ。まあ、世界中の君主制を知り尽くしているわけじゃないけど。ともかく、もっと大きくなったらここを出て、自分の家に帰る……場所を思い出し次第だけどな)

(いいわね! 探すのを手伝ってあげる。教えて、どこの大陸にあるかは覚えてる?)

(ええっと……アメリカ……いや、ヨーロッパ……いや、待て、それも違う気がする。アジア……うーん、それも違う)

(何の話をしてるの? そんな大陸存在しないわ……あ……ちょっと待って……そういうことか)

(存在しないってどういうことだ!?……おい、何が分かったって……)

(あなた、転生者だけど……ここの世界の人間じゃないのね。あなたは……)


その時、イレサが部屋に入ってきてカエリアンを抱き上げた。そのまま彼を腕に抱いたまま大広間へと向かうと、外から声が聞こえてきた。


「あなたー!」


扉の方へ振り返って開けると、一瞬、太陽の光がまぶしく差し込んだ。目が光に慣れると、肩に何かを担いだエリックの姿が見えてくる。男は満面の笑みを浮かべていた。


「見てくれ! 黄金牙のイノシシを仕留めたぞ! このクソ野郎どもはすばしっこくてな。あはは! 未来が見えるなんて噂もあるくらいだ。今日の夕飯は最高だぞ!」


イレサは小首を傾げ、微笑む。


「それはよかったわ! でもお願い、カエルの前では言葉遣いに気をつけてね。もしこの子があなたの悪い言葉を覚えたら、誰が罰を受けるか分かるわよね?」


再び、彼女はエリックをジロリと睨みつけた。

カエリアンはその動物を見て驚嘆した。毛皮から蹄、さらには瞳に至るまですべてが黄金色に輝いており、唯一黄金色でないのはその牙だけだった。


(あれは……何だ?)


その動物は巨大で重々しく、エリックとほぼ同じくらいの大きさがあった。所々焦げている。突然、イノシシが首をもたげ、耳をつんざくような恐ろしい叫び声を上げた。イレサはカエリアンを胸に抱きしめながら後ずさる。イノシシは暴れ回り、エリックの肩から滑り落ちた。地面に落ちるや否や立ち上がり、その巨体と牙を突き出して、突進しようとする。


「危ない!!」


エリックが手のひらをかざすと、その中央に赤と濃黄色の炎の球体が形成された。それをイノシシに向けて放つと、球体は膨張しながら熱量を増していく。イノシシが右へ避けると、炎の球体は地面に激突し、凄まじい土煙を巻き上げた。男はベルトの後ろから小刀を引き抜き、カエリアンの目には捉えきれないほどの速さで土煙を切り裂く。横へ一度跳躍しただけで距離を詰め、煙が晴れ始める頃には、すでにその心臓に小刀を深々と突き立てていた。

イレサはカエリアンの顔を庇うように覆う。


「ゴホッ、ゴホッ! ううっ、エリック!! 次に獲物を持ち帰る時は、完全に死んでいるか確かめてからにしてよ! 殺されるところだったじゃない、この大バカ!!」


その場に崩れ落ちながら、男は謝罪を繰り返した。


「ああああ!! ごめん、ごめん、ごめん、ごめんなさあああい! あれだけ炎をぶつけたから、もう死んでいると思ったんだよ!」


イレサが唸り声を上げて顔を背けると、扉からイレックが顔を覗かせる。


「あははは! パパってばおバカさん! でもお肉持ってきた! やったー!!」


床からゆっくりと頭を上げ、男は力なく言った。


「……お前まで?……ううっ、そこまで褒めなくていいぞ、イレック。カエルがまだ喋れなくて俺をバカ呼ばわりできないのが救いだな」


イレサは背を向け、家の中へと入っていく。一方、エリックはイノシシを持ち上げた。


「……全く同感ね。解体するから中に運んで。今度こそ確実に死んでいるか確認してよね」


カエリアンは笑みを浮かべ、小さな両腕を上げながら念じる。


(やっと分かったぞ……別の場所で生まれ変わったんじゃない……異世界に転生したんだ! あはは! 魔法のある世界だ、私も魔法を学びたい! 絶対に!……待てよ……異世界にいるってことは……もう私の家へは帰れないのか)

(ええ、帰れないわ……少し複雑な事情なの。あなたは私が知る初めての転生者で、しかも異世界から来たなんて……。説明しなきゃいけないことがたくさんあるけど、それは後回し。今は環境に適応することに集中して。ああ、一つ忠告しておくわ。前世のことはあまり考えすぎないこと。魂と記憶が必ずしも一致するとは限らないから、思い出すべき人生なんてそもそもないのかもしれない。思い出せないことで泣くなんて時間の無駄よ……だから、この人生を楽しみなさい……まだ楽しめるうちにね。それじゃあまた後でね、カエリアン)


***


夜、家族は小さな食堂に集まり、居間で夕食を囲んでいた。食卓には黄金牙のイノシシの肉を使ったシチューが並んでいる。香草、玉ねぎ、にんにくで味付けされたその料理はとても美味しそうだった。イレサの膝に座るカエリアンは、よだれを垂らしながら料理をじっと見つめ、煮込みの香りを感じていた。


(すごく美味しそう!早く大きくなって、私にもご飯をくれないかな!)


イレサはスプーンを口に運ぶ前に言った。


「あ、忘れてた。カエルのご飯の時間ね」


イレサはドレスの一部を開き、カエリアンを胸元に抱く。


(まあ……文句は言えないか……。食べ物で母乳の味が変わったりするのだろうか?)


イレサはビクッとした。


「痛っ!噛まれたわ」


エリックがイレサを見る。


「でも、歯はないだろう」


イレサがエリックを見返す。


「ないけど、強く噛むのよ」


イレックが席から言う。


「ふふっ、噛みつき赤ちゃん!」


カエリアンは考える。


(私は謝らないよ!)


***


空が暗いある午後、イレサは居間でカエリアンを寝台であやしていた。もう一つの椅子にはエリックが座り、刃物を研いでいる。カエリアンはその刃物を少し不快そうに見つめていた。普通の農民の男が扉の前にやって来て、二度扉を叩く。

エリックが立ち上がる。


「誰か来る予定だったか?」


寝台(揺りかご)を揺らす手を止める。


「ううん、誰か見てきて」


扉を開けると、男がいた。


「エリック、開けてくれてナリス(Narys)に感謝する!来てくれ、助けが必要なんだ」

「待て、まずは何があったか話してくれ。理由もなしに家から連れ出すのはやめてくれ」

「木に死体があったんだ!」


目を細める。


「ええと……それは殺人のようだな。なぜ私を呼ぶのか分からない。私に何ができる?」

「木の上にあるんじゃない、木の中なんだ!文字通り、男が上から木に埋まっているんだ……」


指を顎に当てる。


「……それは……間違いなく普通ではない。この森にそんなことができるほど強い生き物はいない。見に行こう」


***


カエリアンは扉を見つめながら考える。


(あの人、心配そうだったな……エリックはどこへ行くのだろう?)

(知らないほうがいい……)

(あ、またあなたか)

(そう……私は……)

(待って、前は聞き忘れていたけど……もう答えてもらう時だ。あなたは誰なの?)

(正しい問いは「誰」ではない。「何」だ)


呆れたように目を向ける。


(わかった……あなたは何なの?)

(聞いてくれて感謝する。私は一種の……観念体と言えばいいだろうか。物理的な実体は持たないが、存在し記憶を持っている)

(うーん、それだけじゃよく分からないな……。どうして私の頭の中にいるの?)

(それは良い問いだ。だが、答えを知る準備ができているかは分からない)


声がため息をつく。


(だが考えてみれば……今から自分が何に巻き込まれているのか、知っておいた方がいいだろうな)

(声に抑揚はないけど、なんだかその口調は気に入らないな)

(いいか……この世界には原初の力が存在する。神々や自然のすべてから独立した力だ)

(神々!?)

(口を挟むな)

(あ、うん、ごめんなさい)

(話を続けるが、その力は……「フレイム」と呼ばれる。何百年も前から定期的に地上に現れ、融合しやすい柔軟な魂の中に宿るのだ)

(フレイム……?それが、あなたと私にどう関係あるの?)

(今から説明する。他にも話すべきことはあるが、今は簡単なことだけを伝えよう。フレイムは通常、同じ血筋の中に現れる。最初に宿す者……いや、その部分は忘れろ。フレイムの各血筋には、次の保持者を導く意識がある。だから私のことは「遺産」と呼べばいい)


カエリアンは首を傾げる。


(ええっと……理解できたか確認させて。もしあなたがここにいて……声が聞こえるってことは、私の中にその……フレイムがあるから……だよね?)

(ああ、その通りだ。お前はフレイムの保持者だ)

(ということは、私にも特別な能力が手に入るってこと……?)

(時間が経てば……そうだな)

(すごい!!じゃあ、私も強くなれるんだね!……待って、誰かに触られるとすごく痛いのは、そのフレイムのせいなの?)

(いや……それとは全く関係ない。接触アレルギーや極端な痛みはフレイムとは無関係だ。だから、それについては助けてやれない。すまない)

(うーん、わかった……じゃあ、フレイムをどうすればいいの?)

(少し大きくなって、それが魂に定着し終えたら説明しよう)

(え?まだ私の一部じゃないの?)

(一部だが、完全ではない。フレイムは君と一つになろうとしているのだ。見せてやろう)


遺産はカエリアンの心にぼんやりとした映像を送る。暗い空間で、白い不定形の塊が動き、青い液体の中に入り込んで広がろうとしている様子だった。


(これが……フレイム……?)

(大体はな。君の精神が理解できるように私が作った表現だ)


イレックが自室から居間へ移動し、イレサに近づく。イレサは彼を見て言う。


「ムゲッテ (Muggete)、下に物を取りに行く間、ちょっとカエリアンを見ててくれない?」


【ムゲッテは愛称であり、家族、友人、または恋人同士で使われることがある呼び方です。「ハニー」に近い意味合いです。】


笑顔を浮かべ、胸に手を当てる。


「はい、ママ!命にかけて守るよ!」


イレサは立ち上がり、小さく笑い声を漏らす。イレックは寝台に近づき、カエリアンを見る。イレサは床で家の下へ続くと思われるハッチを持ち上げる。カエリアンはそちらに視線を向け、寝台の柵越しに彼女がハッチを持ち上げて降りていくのを見る。

遺産が言う。


(……おい、気を散らすな。今から重要なことを話すところだ)

(あ、うん、ごめんなさい!続けて)

(融合の過程でフレイムは露出され、世界にいくつかの残滓を残すのだ……そして君のフレイムの残滓は……まあ、非常に強力になっている。君の魂全体を覆うのに苦労しているようだが、君と結びつくことに本当に興奮しているらしい)

(でも、それはいいこと……だよね?)

(全く逆だ。激しいほど、世界に探知されやすくなる)

(……それで?……)

(……もうすぐ君自身で気づくことになるだろう。幸運を祈る、カエリアン……)


カエリアンの頭の中で声が薄れ始め、答えよりも多くの疑問が残される。


(えっ、いや、待って、そんなことだけ言って勝手に消えないでよ……遺産ぁ!!)


カエリアンの呼びかけにもかかわらず、遺産が再び口を開くことはなかった。


***


(遺産が話しかけてきてから、もう一週間が経った……。怯えているとは言いたくないけど……やっぱりすごく怖かった)


カエリアンはイレサの背中で抱っこ紐によってしっかりと支えられている。イレサは台所で作業をしており、大鍋や、棚に吊るされた葉、枝、根、ニンニクがある。台所にあるものの中には奇妙な色や形をしたものもあった。イレサは素早く台所内を動き回り、香草や液体を掴んで大鍋に入れ、杓子を取ってかき混ぜ始める。


(どうやら……イレサは薬草師か、薬屋か、あるいは治療師のような存在らしい。よく分からないけど、私から見れば魔女に近い気がする。時々、怪我や病気を抱えた人たちが家に来るけど、イレサはわずかな銅貨や時には銀貨と引き換えに彼らを診てあげる。するとほとんどすぐに治り、みんな笑顔で帰っていくんだ……。おそらく何らかの魔法を使っているんだと思う……人を心地よくさせる彼女の能力を尊敬する)


かき混ぜ続け、何度か深呼吸をした後、バケツの水で大鍋の火を消す。


(皮肉なことに……一番の常連客は私なんだ……。そう、イレックやエリックが不用意に私の肌に触れるたび、拷問が訪れ、ついでにアレルギーが残っていく。でも幸いなことに、その度にイレサが布を使って軟膏を塗ってくれる。

不思議なことに、私の体は首から下にしかそう反応しない。頭は誰かに触られても痛みの兆候を見せないけど、それでも不快だし、極力接触は避けたい。今だって……間に布を挟んで触られても……まるでたくさんの蟻が力強く肌を噛んでいるように感じる……。……絶対に嫌だ)


そこへ、軽い鎧と革の手袋を身につけたエリックが家に入ってくる。

イレサは笑顔で振り返る。


「あなた、おかえりなさい。あの可哀想な人を襲ったものは、もう見つかったの?」


エリックは近づき、カエリアンの額に口づけをする。そして彼が目を細めて見つめる中、その柔らかい白い髪に触れる。


(ちょっと、それはダメだよ!!)


誰にも理解されないが、喃語で抗議する。その後、エリックはさらに近づき、イレサに口づけをする。


「まだだ。東の方でも引き裂かれた遺体がさらに見つかったと聞いた。すべてが同じ化け物の仕業かは分からないが、数キロの範囲で大きな木が倒されたり、家が破壊されたりしているのも発見されている……すべてが奇妙すぎる」


カエリアンを横目で見る。


「もしかして……いや、あるいは……くそっ、ムゲッテ……お前に……話さなきゃならないことがある」


イレサは心配そうな顔で振り返る。


「今の言い方、嫌な予感がするわ。何かあったの?」

「ああ、いや、その……赤ん坊を少しだけ寝台に置いてくれ。寝室へ行こう」


疑念を抱きつつも、イレサはカエリアンを寝台に置き、エリックと一緒に寝室へ向かう。


(変な顔をしてたな……何が起きているんだろう?)


最初はあまり聞こえず、二人が静かに話しているだけだった。やがてイレサの驚いたような声がし、床に膝をつく音が聞こえ、続いてエリックの顔に向けられたと思われる平手打ちのような乾いた音が響く。数分後、イレサは涙目で居間に戻り、カエリアンを悲痛な目で見つめると、抱き上げて胸に強く抱きしめる。

その後、エリックがうつむき加減で、片頬を赤くして出てくる。


「三日……三日だけくれ。その間にここを出るのに必要なものをすべて揃える。いくつかの街に寄りながら、俺が働いて、四人で北の大陸へ行こう」

「うぅっ、チッ……分かった、あなたを信じてる……。ただの憶測であってほしいけれど、この家族のためにそうする」

「ありがとう……。今日と明日はギルドに行って、一番報酬のいい仕事を受ける。それに……輸送を手伝ってくれる知り合いもいる」

「気をつけて……」

(彼らが何を言っているのかほとんど分からないけど……あの人が面倒なことに巻き込まれているのは、私にも分かる)


***


やや近いある村で、フードを被った男たちが家々の扉を叩いている。彼らは眼の監視者だ。

そのうちの一人が、リストを確認する。


「ここじゃなかったか……まあ、一軒減ったな」


もう一人が尋ねる。


「おい!何か見つけたか?」

「ダメだ、そっちはどうだ?」

「こっちもだ。だが、家に入れるのを拒んだ男を一人殺した」

「ほう、そうか?」

「ああ!その家の末娘も調べたが、何も起こらなかった。本当にこれ、機能しているのか?」


手を上げる。そこには青と濃い紫の間のような色をした宝石のペンダントが握られていた。


「色が変わったか?」

「いや、少し震えただけだ」

「なら、ただのナリスの変動だな」

「ふん、調べる家はあと何軒残っている?」

「あと数十軒だ。この調子なら、一日半ほどで最後の村に着けるだろう」

「いいな。この村で見つからなければ、間違いなく保持者は次の村にいる。もっとも、すでに魔物に喰われていなければの話だがな」

「もし放浪の錨や他の魔物がすでに喰っていたら、俺たちは今頃全員死んでいるさ」

「なぜそう言い切れる?」

「魔物の移動が予想以上に増えている。俺たちが以前いた村のいくつかはすでに壊滅したと聞いた。俺たちが探しているフレイムは、意志のフレイムだという噂がある」

「グルル……保持者がそのフレイムを持っているなら……世界中を滅ぼされる前に殺した方がいい」

「いや、王は保持者を生け捕りにしろと命じた。もし本当に意志のフレイムを相手にしているのなら、なおさら生かしておきたいだろう。千載一遇の好機だからな」


別のフードの男がやって来る。


「もし魔物がそれを手にしたら……まあ、まだ何も起きていないなら、奴らも場所を特定できていないということだ」

「その通りだ……もっと急がないと……さらに早く」

「次の村の名前は何だ?」


リストを確認する。


「ええと……テルニア(Ternia)だ」


***


二日後の夜。午後の雨で地面は湿り気を帯びていた。イレックが自室で深く眠り込んでいる一方、イレサはカエリアンにパジャマを着せようと悪戦苦闘している。家の扉が開き、泥だらけのブーツを履いたエリックが入ってくる。木片で扉を固定した後、ブーツを脱いで隅に置き、鎧のベルトを外しなから部屋へ入る。

イレサは真剣な眼差しで彼を見る。


「大変な一日だった?」

「ああ。何匹かのダイアウルフを追ったんだ。一匹に腕を引っかかれたが、全部仕留めたよ。報酬は良かったから、明日には輸送の手配について連絡先と話ができる」


イレサは赤ん坊にパジャマを着せ終え、寝台に寝かせる。


「シャツを脱いで。包帯を取ってくるわ」


立ち上がったその時、森の方から何かが折れるような乾いた音が聞こえる。

エリックは身震いする。


「今のは何だ?」

「動物が枝を折った音じゃないかしら?」

「二晩続けてはありえない……」


家の扉が三度叩かれる。


「開けろ!王の命による緊急の戸籍調査だ。他の隣人と同じように協力すれば、すぐに終わる!」


イレサとエリックの視線が凍りつく。

イレサに囁く。


「眼の奴らだ……間違いない」


素早くイレサはカエリアンを抱き上げ、エリックは蝋燭を吹き消して彼女に外套を渡す。二人は音を立てずに居間へ向かう。


「二度目の警告だ、開けろ!!」

(何が起きているの!?)


何も理解できないが、それでも心臓の鼓動が早くなる。イレサはハッチまで走り、それを開け、夫の目をまっすぐに見つめながら階段を降り始める。

エリックは決意を固めたようだ。


「赤ん坊を連れて北へ逃げろ。言ったことを忘れるな。俺を待つな、イレックを迎えに行く……愛している」


イレサは従い、キスや長い別れの時間もなく階段を降り切る。エリックはハッチを完全に閉める。家の下には木製の支柱や調理器具、箱が詰まった空間があり、土の脇にはイレサが薬に使う根がいくつか生えている。エリックが床へ手を伸ばすと、奥へと続く長い抜け道が開いた。イレサは仕切りの一つにあった物でいっぱいのリュックを掴んで背負い、カエリアンを前に抱えてその抜け道を走り出した。

エリックはイレックの部屋の方へ振り向く。


「あれは……かなり体力を削られたな……」

「三度目の!!……ん?」


フードの男は自分のペンダントが動いていることに気づき、それを見る。すると、石に鮮やかなオレンジ色の模様が浮かび上がっていた。

男は笑みを浮かべる。


「忘れろ、ここだ!この家はフレイムの残滓で満ちている!扉を壊せ!!」


エリックが立ち上がろうとしたその時、眼の監視者たちは風の魔法を使った。強力な気流が扉に激突し、それを吹き飛ばす。

エリックは心の中で叫ぶ。


(くそっ!)


抜け道を走るイレサの耳に、轟音とイレックの恐怖の叫び声が届く。それでも彼女は赤ん坊を救うために走り続けなければならなかった。出口に辿り着き森へ出ると、複数の足音が近づいてくるのが聞こえる。人間ではない、騒音に引き寄せられた魔獣たちのものだ。彼女はすぐさま岩の陰に隠れ、魔物たちが通り過ぎるのを待った。遠くからは村人たちの悲鳴が聞こえてくる。イレサは立ち上がり、カエリアンを抱えたまま全力で走る。だがその背後から、鹿や猪、さらには人間の部位すら混じり合った巨大な獣が姿を現す。それは咆哮を上げ、木々の間を抜けるには大きすぎるため不器用に、だが確実に彼女を追って走ってくる。

イレサとカエリアンは心の中で思う。


(あれは……何!!)


木々をなぎ倒しながら迫る魔物。イレサはそれらを避け、岩を飛び越える。小さな川に辿り着くと、迷わず飛び込み、カエリアンを高く掲げて渡っていく。魔物は徐々に距離を縮めてきたが、川に到達する手前、森の境界で立ち止まる。イレサはついに川を渡りきり、開けた対岸で膝をついて倒れ込んだ。

片膝をつき、荒い息を吐きながら言う。


「……運が……よかったわ……あれが……錨じゃなくて……」


魔物が姿を消すと、彼女は立ち上がり、道を探して走る。振り返ると、かつて我が家があった場所から黒煙の柱が立ち昇っているのが見えた。目に涙が溢れるが、夫と長男が襲撃から生き延びていることを信じた。カエリアンをさらに強く胸に抱き寄せ、より安全な場所へ辿り着くまで走り続ける決意を固める。

カエリアンはショック状態にあった。小さな手も瞳も震え、何が起きたのかまだ処理しきれず、どうしてこうなったのかも完全には理解できていない。


(いったい……今の……全部、何だったの?……)


(避けられないことだ……フレイムの保持者のほとんどに起こること。見つかって殺される者もいれば、魔物に襲われて死ぬ者もいる……そして君は不運なことに、その両方を同時に経験した。生き延びたことを幸運だとは言わない。だが覚えておけ、カエリアン……フレイムは祝福ではない。呪いだ……少なくとも、この社会で生きる限りはな)

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