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風の噂

 王立カリデア魔導学院――通称、アカデミー。


 その中央棟を貫く石造りの廊下は、昼下がりの光に静かに満たされていた。

高く組まれた天井は空洞のように音を吸い込み、わずかな足音すら柔らかく

反響させる。壁面には代々の魔法士たちの紋章が刻まれ、色ガラスの窓から

差し込む午後の光が、それらを淡く照らしていた。魔力灯はすでに点灯して

いるが、昼の光に押されて存在を主張することはない。ただ、静かに、規則

正しく、淡い輝きを保っている。


 その中を、学生たちが行き交っていた。数人のグループが、柱の陰に寄り

ながら雑談を交わしている。


「アカデミーでも話題らしいな」


 一人が、軽い調子で言った。細身で、いかにも書物に慣れた手つきをしている。


「何の話だよ」


「例のやつだよ。貿易都市の……なんだっけ」


「生活魔法だろ?」


 別の学生が思い出したように言うと、小さな笑いが起きた。


「ああ、それそれ。風をどうこうするやつ」


「風を循環させるだけ、だろ?」


「乾燥がどうとか聞いたな」


「それ、わざわざ魔法でやる意味あるか?」


 くすくすと笑いが広がる。その空気には、明確な軽視があった。わざわざ

議論する価値もない、という共通認識。魔法の最前線を自負するこの学院に

おいて、生活魔法は「基礎」にすら届かない領域として扱われている。


「そんなの、誰でも思いつくだろ」


「むしろ、今までなかったのが不思議なくらいだな」


「だから価値がないんだよ」


 言葉は軽く、しかし確信に満ちていた。


     ――


 そのとき。


「ですが」


 少しだけ低い声が、その流れに差し込まれた。


 学生たちが振り向く。そこには、彼らより数歳年上の青年が立っていた。

学院付きの若手研究者――まだ教授陣には届かないが、実験棟への出入りを

許されている立場だ。色素の薄い髪を後ろで束ねていて、眼差しだけがどこか

落ち着いている。彼は資料束を片手に、わずかに首を傾けた。


「再現性があるようです」


 一瞬、笑いが止まった。


「……再現?」


「ええ。一般魔法の組み合わせで、安定していると報告されています」


 青年は淡々と続ける。その声音に誇張はなく、ただ事実を置いていくような

平坦さがあった。学生たちの間に、わずかな間が生まれる。


「いや、それって……」


「偶然じゃないのか?」


「一回できただけだろ?」


 すぐに否定が返る。だが、先ほどまでの軽さは少しだけ薄れていた。


「複数回の試行で同一結果が得られている、と」


「……誰が?」


「貿易都市の、工房単位での報告です。様式は簡易ですが、手順は明確に

記載されています」


 空気が、わずかに変わる。しかしそれは「興味」ではない。「完全な

否定を保留する」程度の、曖昧な変化だった。


「でも、生活魔法だろ?」


「それが何かになるとは思えないが」


 言葉は慎重になりつつも、結論は変わらない。


     ――


 そのとき、廊下の奥から足音が響いた。規則的で、重みのある歩調。

自然と、学生たちの姿勢がわずかに正される。


 現れたのは、年長の教授だった。共鳴派として知られる人物で、理論

構築において強い影響力を持つ一人だ。白髪交じりの顎髭。手には分厚い

書物。歩みに無駄がない。彼は足を止めず、横目だけで学生たちを見た。


「何の話だ」


 短い問い。


「生活魔法の噂です」


 誰かが答える。


 教授は、わずかに鼻を鳴らした。


「低次魔法の戯れだ」


 それだけ言うと、足を止めることもなく通り過ぎていく。ローブの裾が

揺れ、魔力灯の光をかすかに遮り、やがてその姿は廊下の先へと消えた。


 残された空気が、元に戻る。


「ほらな」


「教授もそう言ってる」


 安堵に似た笑いが戻る。だが、青年は黙らなかった。


     ――


 彼は手にしていた資料束の中から、一枚の紙を抜き取った。


「こちらを」


 差し出されたのは、簡素な報告書だった。装飾もなく、学院の正式な

様式とも異なる、実務的な記述。学生の一人が受け取る。細身の、最初に

口を開いた者だった。


「……風循環による乾燥効率向上」


 読み上げる声に、先ほどまでの軽さはない。


「魔石駆動の持続型……?」


 横から覗き込んだ別の学生が、眉を寄せた。


「持続型?」


 その言葉が、静かに廊下に落ちる。持続。それは学院において、決して

軽い意味を持たない語だった。単発の現象ではなく、維持される構造。

安定した魔力供給と、制御機構の両立が前提となる領域。


「生活魔法で、持続……?」


「そんなの、聞いたことないぞ」


 ざわめきが広がる。


「魔石を用いた駆動で、一定時間以上の運用が可能とされています」


「時間は?」


「簡易記録では半日以上」


「……長いな」


 誰かが呟く。否定ではなく、評価に近い声音だった。しかし、まだ結論には

至らない。


「でも、それだけだろ?」


「乾燥効率が上がるだけで……」


 言葉が続かない。価値が「ない」と言い切るには、わずかに情報が増え

すぎていた。


 その沈黙を破ったのは、別の研究員だった。いつの間にか会話に加わって

いた、同じく学院所属の者。背が高く、腕を組んでいる。学生たちとは少し

距離を置いた位置に立っていた。


「一度、小会議にかけるべきでは」


 その提案に、数人が顔を見合わせる。


「王立が動くほどか?」


 疑問が投げられる。当然の反応だった。学院の会議は軽くない。扱うのは、

国家規模に影響を及ぼす魔法理論ばかりだ。生活魔法の改良など、本来で

あれば議題にすらならない。


 沈黙が落ちる。誰も即答しない。その中で、最初に口を開いたのは、あの

若手研究者だった。


「……検証だけでも」


 控えめな声だった。しかし、その言葉は確かに廊下に残った。


 軽視は消えていない。興味とも呼べない。だが――完全な無視では、

なくなっていた。


 色ガラスの窓から、午後の光が斜めに差し込んでいる。廊下の石畳に、

紋章の影が細く落ちていた。魔力灯が、変わらず淡く灯っている。学院の

空気はいつも通りだった。ただ、ほんの少しだけ、何かが引っかかったまま

残っている。


     ――


 同じ頃、貿易都市ポルタ=ルクスの定宿、月兎亭では。


 メリアは食堂の隅の席で、乾燥用の魔石消費量を紙に書き出していた。

数字を並べ、線を引き、また消す。その手が止まったのは、リナが盆を

片手にこっそり近づいてきたときだった。


「メリアちゃん、ちょっと聞いてほしいんやけど」


「どうかしましたか?」


「王都のお客さんが言うてはってな、学院でもうちの生活魔法が噂に

なっとるらしいで」


 メリアは筆を止めた。


「噂、ですか」


「なんや、風がどうとか、乾燥がどうとかで。うちらからしたら当たり前の

ことやのに、大層な話になっとるみたいで」


 メリアは小さく首を傾げる。特別なことをしたつもりはなかった。既に

ある一般魔法を組み合わせ、条件を整理し、記録を残しただけだ。


(半日以上の連続運用――データとしては悪くないよ)


 れもんの声が、頭の奥で響く。


(ただ、伝わり方はいつも歪むものだけどね。理屈より先に、驚きだけが

独り歩きする)


 メリアは頷きながらも、少しだけ苦笑した。理解されることと、驚かれる

ことは、必ずしも同じではない。


「学院の人たちに、ちゃんと伝わるといいんですけど」


「そんなん気にせんでええて。メリアちゃんの魔法はうちらが一番よう

知っとるんやから」


 リナが屈託なく笑う。メリアもつられて、小さく笑った。


(伝わるかどうかより、再現できるかどうかだよ。メリアのやり方は、

ちゃんと再現できる。それだけは、ボクが保証する)


 れもんの言葉に、メリアはそっと胸の内で頷いた。


     ――


 同じ頃。


 ポルタ=ルクスのギルド、その奥まった執務室に、一枚の報告書が

届いていた。


 セラフィンは机に向かったまま、封を開けた。特に急ぐふうでもなく、

ただ読む。視線が紙の上を滑る。風循環。魔石駆動。持続型。乾燥効率。


 読み終えると、報告書を机の端に置いた。


「……持続型、か」


 独り言のように言った。感嘆でも否定でもない。ただ、事実として口に

出しただけだ。


 引き出しから黒革の手帳を取り出し、ペンを走らせる。


 ――生活魔法域における持続型魔道具の実例報告

 ――魔石駆動確認。半日以上の連続運用

 ――術式の簡略化と効率の両立、要検証

 ――観察対象との関連性、未確認


 ペン先が止まったのは、わずかに間を置いてからだった。


「魔法はイメージだ、か」


 どこかで聞いた言葉のように、呟く。それから、最後の一行を書き足した。


 ――学院への打診、検討


 手帳を閉じる。窓の外では、港の夕陽が石畳を橙に染めていた。どこかから、

ぐる風が乾いた音を立てて回っている気配がする。


 セラフィンはそれを特に気にした様子もなく、次の書類に手を伸ばした。

挿絵(By みてみん)

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