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ノエリア

 白い。


 目を開けた瞬間、そう思った。どこまでも白い空間だった。空も床も壁も

ない。ただ均一な光だけが広がっている。風はなく、音もなく、匂いもない。

それでも、自分が立っている感覚だけは確かだった。


 ゆっくり息を吸う。喉の痛みはない。胸の圧迫もない。あの苦しさが、

嘘みたいに消えている。


 頭の中で、さっきの出来事が再生された。京都、産寧坂。観光客。接触

事故。生八ツ橋。……そして、呼吸が止まった。


「……俺、死んだ?」


 背後の光が、ゆっくりと人の形を結んだ。


「はい」


 すぐ後ろから、柔らかな声が返ってくる。驚いて振り向くと、そこに女性が

立っていた。長い髪、穏やかな微笑み、白い衣。人の姿をしているのに、

どこか輪郭が光に溶けている。


 しかし不思議と恐怖はなかった。むしろ――懐かしい。そんな感覚が胸の

奥に浮かんだ。初めて会う人間のはずなのに、まるで遠い記憶の底に眠って

いたものが、ゆっくりと浮かび上がってくるような。


「あなたは……?」


「私はノエリア。この世界を管理する者です」


 聞いたことのある名前だった。神話の中に出てくる、知識の神。


「……神?」


「はい」


 あまりにもあっさり肯定された。拍子抜けするほどだった。


 死んだ。神がいる。つまり。


「ここは死後の世界?」


 ノエリアは、少し困ったように首を傾げた。


「いいえ。そういう場所ではありません」


「違う?」


「はい。ここは……あなたと話すための場所です」


 なるほど。よくわからないが、筋は通っている気がする。


 沈黙が流れた。白い空間は相変わらず静かで、時間の流れすら曖昧だった。

ふと、胸の奥がざわつく。


 思い出した。


「……れもんは?」


 言葉が震えた。声に出した瞬間、ようやく自覚した。ずっとそこだけを

考えていた。この場所に来てから、ずっと。


 ノエリアは静かに視線を伏せた。祈るような、哀悼のような仕草だった。


「あなたの想いは無駄にはなりません」


 それ以上は語られない。


(……そうか)


 答えはわかった。聞く前から、わかっていた。それでも聞かずにはいられ

なかったし、今も胸の奥に何かが刺さったまま抜けない。喜びも怒りも出て

こない。ただ、小さな穴が空いたような感覚だけが残る。


 しばらく黙っていた。ノエリアも急かさなかった。


 この神は、沈黙の使い方を知っている。そう思った。


 やがてノエリアが、静かに口を開いた。


「あなたには、もう一度人生を歩む機会があります」


「……転生ですか」


「はい。ただし、世界も姿も変わります」


 周囲の白い空間に、淡い紋様が浮かび上がった。星図にも回路図にも見える

幾何学模様。眺めていると、不思議と目が離せない。


「あなたが生きるのは、剣と魔法の世界。アルケミア=ノエシスです」


 剣と魔法。ファンタジー世界。少しだけ現実感が遠のく。しかし、理解は

できた。


「ただし、一つ条件があります」


「条件?」


「あなたは、少女として生きることになります」


 一瞬だけ、思考が止まった。


(少女、か)


 正直に言えば、戸惑いがないわけではない。四十九年間、男として生きて

きた。感覚の全部が、それを前提に組み上がっている。しかし意外と驚きは

小さかった。死んで神と会っている時点で、今さらだという気持ちもある。


「理由を聞いても?」


「力を行使する時、世界は均衡を求めます」


 ノエリアの声は穏やかだった。だがその言葉だけは、絶対の法則のように

響く。つまり、転生という力の代償が、女性化ということか。


 ……まあ。死ぬよりはいい。


「わかりました」


 ノエリアが少しだけ目を丸くした。その表情は、どこか意外そうで、しかし

嬉しそうでもあった。


「迷わないのですね」


「死ぬよりはいい」


 俺は肩をすくめる。ノエリアは小さく笑った。今度は困ったような笑いでは

なく、ほんの少しだけ、温かみのある笑いだった。


「そうですね」


 そして、彼女の手の中に何かが現れた。小さな鞄だった。革製のショルダー

バッグで、中央には青い宝石が埋め込まれている。


「神器フィラ=ノエシス」


「神器……」


「神話級アーティファクトです」


 俺はそれを受け取った。軽い。しかし、妙に手に馴染む。まるで最初から

ここにあったものを、取り戻したような感覚だった。


「能力じゃないんですね」


「はい。これは道具です」


 ノエリアは穏やかに頷き、静かに言葉を続けた。


「これはあなたの知識と世界を結ぶ鍵。あなたには世界を観測し、理解し、

そして選択する力があります」


 その視線は、まるで未来を見ているようだった。見ているのに、押し

つけない。


「私はあなたの選択を導きません。あなた自身が選び、歩みなさい」


 突き放す言葉ではない。むしろ、見守る距離だった。


「怖くない……と言えば嘘になります」


 俺は正直に言った。ノエリアは微笑む。


「それでいいのです。恐れは、選択を慎重にしますから」


 少しだけ間があった。ノエリアの目が、細くなる。


「それに――怖いと言える人間の方が、私は好きです」


(この神、意外と人間くさいな)


 そう思ったが、口には出さなかった。なんとなく、言わない方がいい気が

した。


 ノエリアは静かに言った。


「どうか、良き旅を」


 白い世界がほどけていく。光が崩れ、視界が暗転した。落ちる感覚だけが

残る。


(れもん……)


 暗闇の中で、その名前だけを思った。返事はなかった。


――ノエリアは、「想いは無駄にならない」と言った。その意味が、まだ

わからない。


そして――すべてが、闇に溶けた。

挿絵(By みてみん)

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