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知らないままの一歩

~第一章エピローグ~


 月兎亭の部屋に戻ったとき、メリアは自分が「帰ってきた」という

事実だけを、少し遅れて理解した。


 窓の外は夕闇へ滑り込む手前で、屋根の稜線が柔らかく滲んでいる。

廊下を歩く足音が遠くで響き、階下からは食器の触れ合う音と湯気の

匂いが上がってくる。街はいつも通りの生活を続けていて、さっきまで

森の中で起きていたことが嘘みたいだった。


 身体は重い。けれど、さっきまでの底抜けの空虚は薄らいでいる。

医務室で飲まされた甘い湯が、まだ舌の奥に残っていた。


「……おなかすくと、倒れるんだ」


 ぽつりと呟く。言ってから、少し恥ずかしくなる。けれどその

恥ずかしさすら、今の自分には救いだった。生きているから感じる。


 階下からリナの声がした。


「無理せんと寝とき」


 深追いはしない。それがこの宿の距離感で、メリアにはありがたかった。


 森で起きたことは、まだ自分の中でうまく整理できていない。だから、

眠った。無数の風刃も、赤い血飛沫も、背中の揺れも、まとめて布団の

底へ沈めるように。



 翌朝、窓を開けると街の空気は澄んでいた。屋台の準備が始まり、パンの

香りが漂う。遠くで鐘が鳴る。昨夜、自分が倒れていたことさえ、少し遠い

出来事のようだった。


 メリアは身支度を整え、月兎亭を出た。石畳は朝の光を反射して白く、

歩くたびに小さな音が返る。森の湿った土とは違う、硬い現実の感触だった。


 冒険者ギルドの扉を押す。ロビーの空気は、いつも通りだ。依頼書の前で

相談する声、報告を終えて笑う声、武具が触れ合う音。昨日ここで担架が

運ばれたとは思えない。その「いつも通り」が、胸を落ち着かせた。


 受付に立つリシェルがメリアを見つけ、一瞬だけ表情が揺れた。


「おはようございます、メリアさん」


「おはようございます」


 昨日の「メリアー!」はもう外には出ていない。丁寧な距離に戻している。

けれど、目の奥の安心は隠しきれていなかった。


「翠影の森、薬草採取。納品確認済みです」


 差し出された小袋は、思ったより重かった。メリアは受け取り、袋を開く。

銀貨が三枚。


「……え?」


 契約は銀貨二枚のはずだった。


「多くないですか?」


 リシェルは少しだけ口元を緩める。


「あなたの採ってきた薬草、ほとんど最上級品質だったの。

依頼人が追加報酬を出したのよ」


 メリアは袋を握り直す。森で立ち止まり、葉を見て、匂いを嗅いで、

焦らないように選んだ。あれが、ちゃんと値段になる。


「……よかった」


 ぽつりと漏れた声に、リシェルは頷いた。そして表情が少し変わる。


「よかった、じゃないわ!あなた、武器も持たずに森へ行ったでしょう?」


 メリアは固まる。


「……はい」


「薬草採取は低難度。でも森は森よ。危険がゼロになるわけじゃない」


 声は優しい。けれど、小言は小言だ。


「装備を整えて。最低限でいいの」


 そして、静かに言った。


「……ちゃんと生きて帰ってきて」


 その一言だけで十分だった。メリアは小さく頷いた。


「はい。武器屋に行ってきます」



 街角の武器屋は、少し傾いた看板が目印だった。扉を押すと、鉄と油の

匂いが鼻をくすぐる。剣、槍、斧、弓。武器が壁に並ぶ。カウンターの

奥で、店主が顔を上げた。


「……何だ?」


「杖を見たいです」


 店主は無言で武器立てを顎でしゃくった。メリアは一本ずつ手に取る。

木の感触、重さ、バランス。どれも悪くはない。けれど、どれも決め手に

欠けた。


 視線が壁際に流れたとき、ローブが目に入った。白地に青の差し色。棚の

端に、少し忘れられたように掛かっている。


「……きれい」


 思わず足が向いた。値札を見る。銀貨一枚と銅貨四十枚。少し迷う。杖も

要る。


(どっちを先に、決めるべきか)


 試着すると、鏡の中の自分が少しだけ冒険者らしく見えた。少しだけ……。


 メリアはローブを戻し、もう一度武器立てに向き直った。杖を吟味する。

長いもの、短いもの、飾り気のないもの。そのとき、隅に立てかけられた

一本が目に入った。


 深い色の軸。先端に青い宝玉。他の杖とは明らかに違う。


「……きれい」


 手を伸ばす。


「触るな」


 鋭い声にメリアの手が止まる。


「欲しいなら値段を聞け」


「いくらですか?」


「銀貨一枚だ」


 メリアはローブの値札に目をやった。


「ローブも買うのか?」


「はい」


「予算は?」


「銀貨が三枚あります」


 店主は少し考える顔をした。


「……ローブは銅貨四十枚まけてやる。銀貨二枚でどうだ?」


「まけてくれるんですか?」


「ただし条件がある」


 店主は杖を顎でしゃくった。


「その杖、返品不可だ」


「返品?」


「魔力を流すと震えるんだよ。気持ち悪いって返品ばっかり持ってくる。

もう在庫を抱えるのも嫌になった」


 メリアは杖を見る。


「……すごい」


 店主が呆れた顔をする。


「お前、バカなのか?」


「でも、きれいです」


 メリアは即決した。


「ください」


 銀貨二枚を差し出す。手元に一枚残る。



 ギルドの扉を開くと、リシェルがこちらを見て目を止めた。白地に

青のローブ、宝玉の杖。一瞬だけ、表情が動く。


(……あの杖)


 返品が続いて武器屋の主人が頭を抱えていると、ギルドでも噂に

なっていた。まさか、この子が引き取ってくるとは。


「……似合ってるわ」


 優しい嘘だった。


「でしょ!杖も買いました!」


「いくらだったの?」


「ローブと合わせて銀貨二枚です!まけてもらいました!」


 リシェルは瞬きをする。


「……そう。よかったわね」


(授業料としては、安いのかしら)



「はい!これで私も、ちゃんと冒険者です」


 リシェルは小さく息を吐いた。


「……ちゃんと帰ってきてね」


 メリアは大きく頷いた。



 夜。セラフィンは机に向かい、黒革の手帖を開く。ペン先が走る。


 ――翠影の森・はぐれゴブリン遭遇事案


 ・観測対象右眼に赤色変化

 ・風刃多数発生

 ・出力は想定以上

 ・戦闘後、低血糖症状


「……糖質不足」


 小さく呟き、追記する。


 ・魔力使用と糖消費の関連性、再確認

 ・赤色変化と効率補正現象の関連、要再観測


 そして次の行を書く。


 ――観測対象、本日返品常連の杖を購入


 ペンが止まる。沈黙。数秒後、セラフィンは小さく息を吐いた。


「……私は何を書いている」


 だが、その行を消さない。観測だからだ。


 最後に一行だけ書き足す。


 ――観察継続(責任者直轄)


 ペンを置き、窓の外を見る。静かな夜の街。誰も知らない、赤い瞳の

意味を。だが観測者だけは、知らないままにはしておけない。


 静かな夜の中で、研究は続く。優しい物語のすぐ隣に、危険がある

ことを示しながら。


第一章 完

挿絵(By みてみん)

挿絵(By みてみん)

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