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官僚、乱世を駆ける  作者: 八月河
天下三分其の二を得る
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第十二回 劉皇叔金蝉脱殻 曹孟徳虚君重法

劉備は曹操と酒を酌み交わした日以来、許昌から出ることに腐心していた。


「天下の英雄は、君とこの私だけだ」


あの雷鳴が轟いた日から、俺の心は常に張り詰めていた。曹操の言葉は、俺を褒めたたえたものではなかった。あれは、俺が、彼の天下統一を脅かす唯一の存在であると、見抜かれた瞬間だった。


「ちっ、こんなところに居たって、いつか殺されちまう…」


俺は、毎夜、許昌の街並みを眺めながら、脱出の機会を窺っていた。まるで、籠の中の鳥になった気分だった。


そんなある日、袁術が袁紹を頼って北上しようとしているという知らせが届いた。


「きた…」


俺は、その知らせを聞いた瞬間、心が躍るのを抑えられなかった。今、彼を討つ大義名分が立った。そして何より、この戦役は、俺が許昌を抜け出す最初で最後の機会になるはずだった。


俺は、すぐさま曹操の元へと向かった。


「曹公、袁術の如き不忠者を、この劉備が討ち取ってご覧に入れます!」


心の中の焦りを隠し、熱心に討伐軍の指揮を志願する俺を、曹操は不敵な笑みを浮かべ、静かに聞いていた。


一方、曹操は、劉備に軍を任せることを決断し、その軍議の場では軍師たちが一斉に顔色を変えた。


「曹公、何をお考えですか!」


郭嘉が、眉間に深い皺を寄せて進み出た。


「劉備は、その器量と才覚、決して侮ってはなりません!一度野に放てば、二度と我らの手には戻りませぬ!」


荀彧もまた、静かに、しかし強く諫言した。


「劉備は、仁義を重んじるがゆえに、民心を得ております。袁術討伐は、他の将軍でも事足ります。この男は、今はまだ曹公の監視下に置くべきです!」


彼らの言葉は、全て正論だった。


私自身、彼らの言う通りだと分かっていた。前世の記憶でも、劉備を逃がしたことが、後に大きな禍根となった。しかし、私は、あの「青梅煮酒」の光景を思い出していた。雷に怯え、箸を落とす、臆病な劉備の姿を。


フン……あの臆病者が、私に逆らう勇気などあるものか。


私は、郭嘉と荀彧の進言を一蹴した。


「良い。袁術は、袁紹と手を組ませるわけにはいかぬ。劉備を袁術討伐に向かわせれば、奴らが互いに消耗し、我らが利となろう。これほど都合の良いことはない」


それは、劉備を過小評価し、自分の才覚を過信する、私の傲慢さからくる決断だった。


そして、その日。


俺は、曹操の命を受け、軍を率いて許昌を出た。城門をくぐり、自由の風が頬を撫でたその瞬間、俺は心の中で叫んだ。


「やったぜ…!ついに、ここから出られたぜ…!」


曹操の野郎…俺を甘く見やがって…!俺は、てめえの想像なんて、とっくに超えてやがったんだ!あの箸を落としたのは、雷に怯えたからじゃない。あんたの言葉が、俺の心の奥底に眠っていた野心を、再び燃え上がらせたからだ。


「よし、兄弟達よ!」


俺は、馬首を東に向けた。袁術を討った後、俺は再び徐州を拠点とする。そして、この地で、俺は必ず、天下に号令をかける力を手に入れてみせる。俺は、曹操の掌から逃れた。今度は、俺が、彼の天下をひっくり返してやる番だ。


「見てやがれ、曹操の野郎。てめえの天下は、この劉備が、ひっくり返してやんよ!」


劉備が袁術を討ち、配下の車冑を斬り劉岱を縛り徐州の地に再び独立の旗を掲げたという報告が、許昌の私の元に届いた。


「なに…!」


私は、その知らせを聞いた瞬間、怒りで机を叩きつけた。


「劉備め、あの臆病者が…この私を欺きおって…!」


郭嘉が、冷徹な目で私を見つめ、静かに口を開いた。


「ご覧なさい、曹公。私が申し上げた通りではありませんか。劉備は、やはり虎を野に放つが如しです。このまま放置すれば、いずれ必ず、我らの天下統一の道に、大きな禍根を残しましょう」


私は、何も言えなかった。彼らの言葉は、すべて正しかった。私は、劉備を過小評価した。あの「青梅煮酒」の夜、雷に怯える彼を見て、私は彼の真の器量を見誤ったのだ。


しばらくの間、怒りで何も考えられなかったが、やがて、その激しい感情が、静かな諦めへと変わっていった。


「フン……見かけは忠義の君子、その実は奸詐の小人。この私と対して変わらぬ梟雄よ……」


私の言葉に、郭嘉はわずかに眉を動かし、荀彧は静かに目を閉じた。


やはり、そうか。あの男は、最初からこの道筋を読んでいたのだ


劉備は、雷に怯えたのではない。私の言葉を聞き、自らの正体を見抜かれたと悟った。そして、雷を利用し、巧みにその動揺を隠したのだ。その機転と、胆力。それは、私と寸分変わらぬものだった。


私は、劉備を、もはやただの敵とは見なしていなかった。それは、自らの才能を脅かす、唯一のライバルであり、そして、互いの信念をかけた、宿命の対決の相手だった。


「今度は、二度と逃がさぬぞ……」


私は、心の中でそう呟き、劉備討伐のために、静かに軍を動かす準備を始めた。


劉備を「梟雄」と認めた私は、すぐに軍を動かそうとした。


しかし、その前に、私の心は、許都の奥深くにある、もう一つの禍根に苛まれていた。


「劉備が離反したことで、奴らは勢いづいたであろうな…」


私の諜報網は、すでにその動きを察知していた。


董承、呉子蘭、そして、朝廷内に潜む反曹操分子たち。彼らは、劉備が私を裏切ったことで、今こそ決起の時と見たのだろう。


彼らが手にしているのは、献帝の密勅。


「曹操を討て」


そう記された血の詔だ。


私は、怒りを通り越し、静かな殺意を燃やした。


私を討つ?この私を…愚か者どもが!


劉備という英雄を野に放ったという、私の唯一の失策。その傷口を抉るように、朝廷の臣下たちが牙を剥いた。だが、彼らの謀反は、私の手で、あっけなく潰え去るだろう。


「この機会に、朝廷の毒を、すべて抜き取ってやる」


私は、董承、呉子蘭らの逮捕を命じ、彼らの屋敷を兵で囲ませた。


「曹操め、卑怯者!」


董承は、縄に縛られながらも、私に罵声を浴びせた。


「おのれは、帝の御命に背く大逆賊だ!」


私は、冷徹な目で彼を見下ろした。


「帝の御命…か。帝は、すでに私の中にある」


私は、自らの手で、董承、呉子蘭らを処刑した。彼らの首は、見せしめとして、許都の市中に晒された。


その光景は、朝廷内にいるすべての反曹操分子たちに、静かな恐怖を植え付けた。


献帝、震える


そして、私は、震える献帝の前に立った。


「帝よ、ご安心ください。謀反人どもは、すべて処断いたしました」


私の言葉に、献帝は何も答えない。彼の顔は、恐怖で蒼白になっていた。


献帝は、私がすでに、彼が密勅を発したことを知っていると悟っていた。


帝よ、あなたは、私がどれほどの力を持っているか、まだ分かっていなかったようだ…


私は、何も言わずに、ただ献帝を見つめた。その瞳の奥には、彼への哀れみと、そして、彼が持つ「漢室」という権威への、揺るぎない支配欲が宿っていた。


献帝は、もはや私に何も言えない。この朝廷に、私に逆らう者など、誰一人としていない。


「これで、足元の憂いは消えた…」


私は、心の中でそう呟いた。


劉備を逃がしたという失策は、朝廷内の反乱分子を一掃するという、揺るぎない勝利へと昇華された。

私は、再び、完璧な勝利者となったのだ。


「フン…劉備よ。貴様が私から逃れたことで、私の権力は、かえって盤石となったぞ」


私は、遠い徐州の空を見上げた。


そして、来るべき袁紹との大戦、そして、その先にいる劉備との決戦に備え、静かに、そして力強く、全軍を動かし始めた。


劉備が許昌を脱出し、再び徐州を掌握したという報が届いた時、私の胸には、怒りと、そしてどこか親近感にも似た感情がこみ上げてきた。


「見かけは忠義の君子、その実は奸詐の小人…この儂と対して変わらぬ梟雄よ…」


私がそう側近に語った後、私は直ちに軍議を開いた。荀彧は厳しく劉備の不義を糾弾し、郭嘉は冷徹に劉備軍の弱点を指摘した。彼らの言葉を聞きながら、私の心は決まっていた。


この男は、袁紹との天下分け目の戦いを前に、必ず排除せねばならぬ最大の障害だ。


「全軍、徐州へ向かえ!劉備を討ち、二度と奴に反旗を翻す機会を与えてはならぬ!」


私の号令一下、大軍が許昌を出発した。私は、劉備が徐州でどれほど力を蓄えているか、そして、どれほどの覚悟で私を迎え撃つのか、すべてを読み切っていた。


徐州に到着した私は、すぐに劉備の本拠地である小沛を攻め立てた。劉備は、張飛と共に城を堅固に守っていたが、私の圧倒的な兵力と、将軍たちの巧みな連携の前には、まるで無力だった。


「ちくしょう、こんなにも差があるなんてな…!」


劉備は、城壁の上から、私の軍勢が波のように押し寄せるのを見て、歯噛みした。


曹操の野郎、本気で俺を潰しに来やがった…!あの時、雷に怯えるふりをして、奴を油断させたと思ったが…この怒りは、全部、あの時の報いってことか!


私の軍は、まず小沛の城を包囲し、補給路を断った。食糧が尽き、兵士たちの士気が下がる中、私は徐々に城壁を崩していった。劉備は、何度も打って出ようとしたが、私の将軍、于禁や徐晃らの巧みな迎撃によって、その試みはことごとく失敗した。


「兄貴、俺が敵将の首を獲ってくる!」


張飛は、何度もそう言って飛び出そうとしたが、劉備はそれを止めた。


「益徳、ここは無理だ。兵を無駄に失うだけだ…」


劉備は、自らの非力さを痛感していた。


徐州の戦線は、瞬く間に私の有利に進んだ。劉備は、私の圧倒的な兵力の前になすすべなく、張飛と共にわずかな兵を連れて敗走した。しかし、彼の義兄弟である関羽は、その場から逃げ遅れ、下邳の城に孤立することとなった。


「雲長め、兄とはぐれてしまったか…」


私は、下邳を包囲した。だが、武神とまで謳われる関羽を力ずくで降すのは容易ではない。私は、関羽の武勇を惜しみ、そして、その忠義を自らのものにしたかった。


「雲長よ!今、城を出て、この操に仕えよ!この乱世、そなたの武勇は、劉備という男のためだけにあるのではない!」


私の呼びかけに、関羽は答えなかった。彼は、ただ静かに城壁に立ち、私をまっすぐに見据えていた。その目には、敗者の悲哀も、命乞いの卑屈さも、一切なかった。


「ふん…頑固な男だ…」


私は、策を講じた。関羽の武勇を最も尊敬する張遼を、使者として城へ送った。張遼は、かつて呂布の配下として、関羽と面識があった。


「関羽殿!今、この城を出て、曹公に降伏なされよ!それが、あなたの命を救い、あなたの忠義を貫く道でございます!」


張遼の説得に、関羽は静かに答えた。


「文遠、お前の言うことはわかる。だが、私には、受け入れられぬ降伏の条件がある。もし曹公が、この三つの条件を飲むならば、私は喜んで降伏しよう」

張遼は、その三つの条件を私に伝えた。


一、漢の降将として降伏すること。

二、劉備殿の妻子を、漢の宗室の妻として遇すること。

三、劉備殿の行方が知れれば、すぐにその元へ行くこと。


「…!」


三つ目の条件を聞いた時、私は、一瞬言葉を失った。この男は、私の厚遇よりも、劉備への忠義を貫くことを選んだのだ。


しかし、私は、その言葉に、胸が熱くなるのを感じた。これこそが、私が求めていた「忠義」だ。この男の心を、一度でいい、手に入れてみたい。


「良い!その三つの条件、すべて受け入れよう!」


私は、関羽の降伏を受け入れた。彼は、私の客将として、私の元に身を寄せた。


徐州の地は、私の手に落ちた。劉備は、一人、妻子と兄弟を失い、袁紹の元へと逃げ延びた。私は、完璧な勝利を手にしたはずだった。


だが、私の心は晴れなかった。


劉備という男を、私は再び逃してしまった。そして、彼の義兄弟である関羽は、私の元にいるが、その心は決して私のものではない。


「フン…」


私は、徐州の城壁の上から、北の空を見上げた。

そこには、天下統一を夢見る、もう一人の英雄、袁紹がいる。


そして、その元には、私を裏切り、再び力を蓄えようとしている、劉備がいる。


徐州の戦いを終え、関羽という稀代の武将を手に入れた私は、勝利の美酒に酔いしれていた。劉備という男は、再び私の掌から逃れたが、彼の義兄弟を手に入れたことで、私の天下統一への道は、もはや盤石になったと確信していた。


「フン…劉備よ。貴様が私から逃れたことで、私の武威は、かえって天下に知れ渡ったぞ」


私は、勝利の報告のため、献帝に謁見した。


宮殿の門をくぐり、玉座に座る献帝の前に進み出た。

献帝は、いつも通り、私の顔色を窺い、震える声で私を称えるだろう。


私は、そう思っていた。


「曹操よ…」


しかし、その日の献帝は、いつもと違っていた。

彼の声は、静かで、しかし、威厳に満ちていた。その瞳は、私をまっすぐに見つめ、微塵の怯えもなかった。


「朕を大事に思うなら、よく補佐してほしい…」


献帝の言葉に、私の心臓は、一瞬、止まったかのように感じた。


何…?この男は、何を言っている…?


「そうでないなら、情けを掛けて退位させよ」


その言葉は、まるで雷鳴のように、私の脳裏に響き渡った。


私は、言葉を失い、ただ呆然と立ち尽くすしかなかった。

この男は、私の傀儡ではなかったのか…?


献帝の瞳の奥に、私は、漢室の血を引く者としての、揺るぎない誇りを見た。そして、私という、漢王朝を食い物にする「奸賊」への、深い憎しみを見た。


私は、自分がこれまで築き上げてきた権力が、この男の一言によって、一瞬にして崩れ去る可能性があることを悟った。


もし、この場で献帝が「曹操を討て」と叫べば、私の権力は、砂上の楼閣のように崩れ去るだろう。


「…ッ!」


私の背中に、冷たい汗が流れ落ちる。


私は、恐怖に顔を歪め、言葉を失った。


この男は、私の命を握っている。そして、私は、この男を殺すことができない。


なぜなら、この男こそが、私の大義の、唯一の根拠だからだ。


私は、何とかその場を取り繕い、宮殿を後にした。

しかし、私の心は、勝利の喜びに満たされることはなかった。


献帝という存在は、依然として、私にとって最大の脅威だった。


彼は、私の権力を、そして私の命を、いつでも奪うことができる。


「帝よ…」


私は、宮殿を振り返り、静かに呟いた。


私は、この日から、宮中への参内を控えるようになった。

勝利の美酒は、もはや私にとって、苦い毒のように感じられた。


私の天下統一への道は、決して平坦ではない。


北には袁紹という大敵が、東には劉備という梟雄が、そして、私の足元には、漢王朝という、巨大な亡霊が横たわっている。


「フン…」


私は、静かに笑みを浮かべた。


この恐怖こそが、私の力を、さらに強固なものにする。


私は、この国のすべてを、私の掌に収めるまで、決して立ち止まることはないだろう。


献帝との謁見で、私は背筋が凍るような恐怖を味わった。漢王朝の権威は、私が思っていた以上に重い。このままでは、いつか足元を掬われ、私の大義そのものが崩れ去るだろう。私は、宮中への参内を控えるようになったが、それは単なる恐怖からではない。


私は、自身の目指すべき国家の姿を、根本から見つめ直す必要性を感じていた。


帝を傀儡とすることは、もはや限界だ…


私は、自室に、腹心である荀彧、郭嘉、荀攸、程昱を呼び出した。彼らは、私の突然の呼び出しに、ただならぬ緊張を感じているようだった。


「皆の者…私が目指す天下とは、どのようなものだと考えるか?」


私の問いかけに、荀彧が恭しく答えた。


「漢室の再興…王道の下、天下を泰平に導くこと、でございます」


私は、静かに首を横に振った。


「違う。私が目指すのは、漢室の再興ではない。私が目指すのは…永続する国家だ」


私の言葉に、四人の軍師は、驚きを隠せない。


「私が目指す国は、帝は、権威の象徴として玉座に座る。しかし、政治の実権は、宰相であるこの私が、法律に基づき、宰相府の合議をもって執り行う」


「…それは、すなわち、帝の権力を剥奪するということでしょうか」


荀彧が、戸惑いを隠せない表情で尋ねた。彼の理想は、あくまで帝の権威を尊重する王道だ。私の構想は、その王道から逸脱しているように見えたのだろう。


「剥奪ではない。分離するのだ」


私は、現代日本の歴史、そして世界の歴史を思い浮かべながら、彼らに語りかけた。


「君主が全ての権力を持つ専制国家は、君主の資質によって、国の命運が左右される。名君の時代は栄えるが、暗君の時代は必ず滅びる。それは、数千年の歴史が証明している」


私は、力説した。


「私が目指すのは、帝という権威と、宰相という権力を、分離させた国家だ。帝は、民衆の敬愛を集め、国の象徴となる。そして、政治の実務は、我々が合議の上で進める。これこそが、国を永続させ、民に真の安寧をもたらす道だ」


私の言葉に、四人の軍師は、それぞれ異なる表情を見せた。


荀彧は、依然として困惑していた。彼の心は、漢王朝への忠誠と、私の描く理想の間で揺れ動いていた。


「それは…もはや、新しい王朝を創り出すことと同じではないでしょうか…?」


郭嘉は、静かに私の言葉を聞いていたが、やがて、その瞳を輝かせ、不敵な笑みを浮かべた。


「なるほど…!愚かな君主の暴走を防ぎ、賢明な臣下が国を導く。これこそ、最も合理的な統治体制ですな!」


彼の合理主義は、私の構想の真髄を即座に見抜いた。

荀攸と程昱は、郭嘉とは少し異なる視点から、私の構想の利点を評価した。


「帝を飾りにすれば、献帝の如き者から、再び血の詔が届く心配も無くなりますな」


「そして、曹公の権力は、もはや誰も揺るがせぬものとなる…」


彼らの言葉は、私の心を代弁していた。


そうだ、これが、私が目指す「立憲君主制」なのだ。

私は、ただの覇者ではない。私は、歴史を学び、独裁政権が崩壊する未来を知っている。私が目指すのは、後世にまで続く、安定した国家の礎を築くことだ。


「皆の者、私は、漢室の権威を尊重する。だが、私が目指すのは、漢王朝が再び滅びる未来ではない。私が目指すのは、私という存在が、この国の未来を、永続的に保証することだ」


私の言葉に、四人の軍師は、それぞれの思惑を超え、静かに頭を垂れた。


袁紹との天下分け目の戦いを前に、私は、この国をどう統治すべきかという、最大の問いに答えを出した。

私の心は、もはや揺るぎない。


幕閣との合議を終えた後、私は、一人静かに残っていた荀彧に声をかけた。彼は、私の「立憲君主制」の構想に、最も複雑な表情を見せていた。


「文若よ、何か言いたいことがあるのではないか」


私の問いかけに、荀彧は静かに頭を垂れた。


「曹公…あなたの構想は、確かに、安定した国家をもたらすでしょう。しかし、それは、王道とは異なる…」


彼の言葉には、漢王朝への揺るぎない忠誠と、私の描く未来への懸念が入り混じっていた。彼は、私を支える上で、常に漢室の「王道」を重視してきた。だが、私の構想は、その王道から逸脱しているように見えたのだろう。


「フン…王道、覇道…そのいずれも、ただの言葉だ。私が目指すのは、この国を真に安定させる道だ」


私は、荀子の末裔である彼の知性を頼りに、私の真の構想を語り始めた。


「文若よ、遠い東の海に、日出ずる国があるという。その国では、古より、君主と権力が分離していると伝え聞く」


私の言葉に、荀彧は眉をひそめた。見慣れぬ話に、戸惑っているのだろう。


「彼らは、君主を、血筋によって継がれる権威の象徴とする。しかし、政治の実権は、宰相や官僚が握り、彼らの言葉を民は従う。そして、その国を統べるのは、法なのだ」


私は、荀子の思想と結びつけ、その概念を説明した。


「君主の感情や血筋に左右されることなく、法という普遍の理によって、国が治められる。法の下では、貴族も庶民も平等であり、法を遵守すれば、誰もが安心して暮らせる。これこそが、荀子が説いた、真の法治国家ではないか?」


私の言葉に、荀彧の瞳に光が宿った。彼は、法の大家である荀子の末裔だ。彼の思想の根底には、法によって社会を安定させるという教えがあった。私の構想は、彼が長年追い求めてきた理想と、根底で繋がっていたのだ。


「…それは…」


「そうだ。私が目指すのは、王道という名の専制ではない。法によって、この天下のすべてを治める、真の王道だ」


私は、熱意を込めて語り続けた。


「この国では、奸臣が跋扈し、皇帝の気まぐれで民が苦しむ。そのような悲劇を、二度と繰り返してはならぬ。法を制定し、官僚制度を整備する。民に法を周知させ、法を犯した者には、身分や血筋に関係なく、平等に罰を与える。これこそが、真の秩序をもたらすのだ」


荀彧は、静かに私の言葉を聞き、やがて、深く頭を垂れた。彼の表情は、もはや迷いではなかった。それは、自らの理想と、主君の理想が一つになったことへの、深い感動だった。


「曹公…私は、これまで、漢室への忠義と、あなたの才能との間で揺れ動いておりました。しかし、今、あなたの真の理想を知りました。あなたは、天下を統一するだけでなく、後世にまで続く、新しい時代の礎を築こうとしている…」


「文若よ…」


「私は、あなたと共に、その新しい時代を築くために、この身を捧げます」


荀彧の言葉は、私の心を深く打った。彼は、私の最も頼りになる腹心だ。彼の理解を得たことで、私の構想は、単なる夢物語ではなく、現実のものへと変わるだろう。


「ありがとう、文若…」


私は、彼に、今後の国家建設の中心人物となることを告げた。そして、私たちは、来るべき官渡の戦いを前に、新しい時代の到来を、静かに誓い合った。


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