4/1 勤勉さの象徴
私は極めて勤勉な人間である。
勤勉である、などという言葉は本来、他者から慎ましく与えられる称号であるべきだが、私の場合、それを否定するための根拠が世界に存在しない以上、自ら名乗らざるを得ない。
私は努力をするのではない。努力は私にとって選択ではなく、呼吸や脈拍と同じく、存在の副作用にすぎない。
人々が頑張らなければならないと眉をひそめる場面で、私はすでに完了している。開始と同時に終点へ到達しているのだ。
世の多くの人間は、才能か努力かという二項対立にすがりつく。しかし私はそのどちらにも属さない。
なぜなら、才能とは努力の免罪符であり、努力とは才能の言い訳だからだ。
私はそれらを必要としない地点に立っている。すべてを当然の結果として引き受けるだけである。
他者が一晩かけて到達する結論に、私は通勤の途中で辿り着く。他者が反省と後悔を繰り返す地点に、私は最初から立っている。彼らが「成長した」と歓声を上げる頃、私はすでに次の退屈を探している。
ゆえに私は、自身があらゆる人より上にあると言う。
それは支配の宣言ではない。見下しでもない。位置情報の共有でしかない。
山の頂から平野を見下ろして「高い」と言うのと同じだ。感情は介在しない。事実があるだけだ。
もしこの文章を傲慢だと感じる者がいるなら、それは私が誇張しているからではない。
その者の視点が、まだ地表に縫い付けられているからである。
私は極めて勤勉な人間である。
そして勤勉さの果てに、私は私になった
そして今日私が宣言とするのは、明日以降を4/1とすると言う事である。
暦というものは本来、自然現象や社会的合意に基づいて淡々と進行する無機質な装置であるはずだが、私に限って言えば話は別だ。
なぜなら、私は昨日と今日の境界を「眠気」という極めて人間的かつ抗いがたい現象によって曖昧にされてしまったからである。これは怠惰ではない。不可抗力だ。むしろ、生理現象に誠実であった結果と言うべきだろう。
本来であれば、4/1には何かしらの短編小説、あるいは含蓄に富んだ文章をしたため、年度の切り替わりとともに己の才覚を世に示す予定であった。
構想はあった。確かにあった。頭の中ではすでに完成しており、起承転結も、余韻の置きどころも、すべて決まっていたのである。問題は、それを文字に落とす前に布団が私を捕獲したという一点に尽きる。
布団は強い。文明が生んだ最強クラスの誘惑装置である。
しかもその日は、やけに枕の角度が完璧で、掛け布団の重さも理想的だった。
抗えという方が無理だ。あの状況で起き上がれた人間がいるとすれば、それはもはや人間ではない。
結果として、私は何も書かず、ただ健やかな睡眠だけを獲得した。しかしこれは敗北ではない。英気を養ったのだ。物語は一晩寝かせることで深みを増すという格言もある。そう考えれば、この遅延はむしろ創作に対する高度な準備行為であったと言える。
以上の理由により、私は今日、明日以降を4/1とする。
時間は万人に平等だと言われるが、例外が存在することを、私は身をもって証明している。忘れたのではない。先送りしたのでもない。ただ、順番を少し並び替えただけである。




