8/26 キュビズム
「それは単なるゆらぎでしかありません。セミファイナルを恐れる余り貴方は一歩踏み出せずにいる。足元に目を向けた本来の意味と意義をお忘れになってはなりません。」
蝉に目を向け、蝉が目を向けた場合、実質的にそれと私の間には相互観測による実在の確定が行われている。
つまり、私がこれを踏み潰すことが私が実在している唯一の証拠であり、それと同時に私は実在の唯一の手がかりを失うことになる。
それはまた蝉も同様で、踏み潰される足を否定することは自身の実在を証明する術を同様に否定することであり、しかしその観測を止めなければ同様に圧力と共に存在を失うことになる。
膠着状態だ。
私は思った。
いや。
私が見ている。
現在の私が足元の蝉の傍に立ち尽くす様を、未来の私が見ている。
つまりは、1:25時点での私、現在の私を思い起こし、文字に書き換えている未来の自身。
その時点で文体としての私は確立され、固定化される。
しかし不完全だ。
一方完璧だ。
蝉の傍に立ち尽くすというただそれだけの情報が抜き取られて、それ以外が形骸化する。
35℃の空も、並木の下に積もる枯葉も、情景描写でしかない。記憶でしかない。
未来の私からして観測できる情報は何一つもない。
現時点での認識は私ではあるが、1:25の私が思い起こしている私は11:35〜1:25までの記録が抜け落ちた私に近しい何かである。
本来連続するはずの認識が1:25の私が11:35の私を固定化した時点で分断されている。
現代の私は私ではあるが、1:25時点で私は私ではない。
蝉が見ている。
いや、いずれ見なくなる。
5秒後に踏み潰したからである。
現在の私より5秒先の私が踏み潰したからである。
足の裏で外骨格が潰される感覚と、数度の水音。
5秒後に体感し、脳天に突き抜けるような悪寒を味わい、足裏についたであろう蝉の体液を擦りながら帰路に着く。
私はそのことを知らない。
そもそも、蝉のことなど気にも留めていない。
今車校の帰りだ。
帽子も忘れ、強制的な長袖長ズボンに滝汗をかいている。
ボディソープの詰め替えを帰りに買うことを、未だ忘れている。
思い出すのは25分後だ。
帰りがけに目に入ったドラッグストアと蝉を踏み潰した感覚が同期して、ボディソープのことを思い出す。
25分後の私が見ている。
観測されている。
文体にもならない、記憶の中で渦を巻いて嫌悪感として。
右足だ。
右足の裏を観測されている。
蝉を観測している。
今の私は、12:00のボディソープを思い出した私と、1:25の日記を書いている私と、7:45の日記を読み返している私によって観測されている。
また同様に、この文章を読む全ての観測者によって形作られている。
神の視線とは、すなわち未来の観測者による実存確定である。
今の私は、何も知らない。
多くに観測され、実在を確かめられ、そして
足の裏で、黒々とした目が見上げ、中途半端に開いた足と発音膜が一緒くたに圧縮されて。
「ぐしゃり」と、音を鳴らした。




