58,ああ、神様!
「関係ないわ。鍵がかかっているし」
だが、チャイムは何度もしつこく鳴る。葉菜から目を離さないまま、河合は言う。
「余計なことをしたら、すぐに刺すわよ。どっちにしても、もうあんたに逃げ場はないの」
河合の言う通りだ。葉菜は今、鍵のかかった家の中の、さらにドアの閉まった部屋の中にいて、自分をナイフで刺そうとする相手と対峙している。
たとえ叫んで助けを求めても、河合の行動を速めるだけだ。もう助かる道はない。
そう思って天を仰いだのだが。
突然、バタバタと足音がしたかと思うと、勢いよく部屋のドアが開いた。
「未玖!」
それは、河合の父親だった。
手に、鍵のついたキーホルダーを握りしめている。なるほど、この洋館の所有者なのだから、鍵を持っていて当たり前だ。
「未玖、ナイフを離すんだ!」
だが、河合は、素早くドアから離れながら叫んだ。
「来ないで! 来たら死ぬから!」
そして、自分の喉元にナイフを突きつける。
「未玖、馬鹿なことはやめるんだ」
「うるさい! どうせ私は馬鹿よ!」
河合は、父親に向かって泣き叫んでいる。父親は、河合に釘付けになっていて、誰も葉菜を見ていない。
葉菜は気づかれないように注意しながら、ゆっくりと後方から河合に近づく。幸いなことに、高級そうな絨毯のおかげで、足音を心配する必要はない。
だが、うまく行く自信はない。ああ、神様!
一瞬、目だけを動かしてちらりと葉菜を見た父親が、声のトーンを落として河合に話しかける。あるいは、葉菜の意図を察したのだろうか。
「パパが悪かった。全部パパのせいだ。未玖の気持ちを踏みにじって済まなかったね」
その間にも、葉菜は河合ににじり寄る。あせってはいけない。ゆっくり、ゆっくり……。
「さあ、ナイフなんか捨てて、こっちにおいで。うちに帰ろう。ママも待っているよ」
「パパ……」
河合が涙声でつぶやき、ナイフを持った手を、わずかに下ろした。切っ先が喉から離れる。
今だ! 葉菜は、河合に素早く駆け寄りながら、渾身の力を込めて、ナイフを持つ手元を目がけてトートバッグを叩きつけた。
ナイフが手を離れ、絨毯の上を転がる。
「未玖!」
すかさず父親が駆け寄り、両腕で河合を抱きしめた。
「あ……あ……パパァ!」
河合が号泣する。
ああ、うまく行った。ほっとするのと同時に、全身の力が抜け、葉菜は、その場にぺたりと座り込んだ。(終)




