39,赤く染まっていくパジャマの袖と遠くに聞こえる声
考えるより先に、体が動いた。とっさに葉菜は、河合を思い切り突き飛ばしたのだ。
だが、急いでベッドから離れようとしたものの、掛け布団に足を取られ、そのままベッドから転げ落ちてしまった。
「てめえ!」
河合が躍りかかって来たのと同時に、左の上腕部に何かが当たったかと思うと、数秒遅れて痛みがやって来た。
「葉菜ちゃん!」
佑紀乃の悲鳴。スマートフォンは、まだ鳴り続けている。
上腕部を見ると、パジャマの袖が切れていて、そこが見る間に赤く染まっていく。
「三丘さん、葉菜ちゃんが!」
佑紀乃が電話に向かって叫んでいるのが、やけに遠くに聞こえる。お姉ちゃんから? 今頃、遅いよ。
その後しばらくのことを、葉菜は覚えていない。
後から佑紀乃に聞いたところによれば、河合は、葉菜の腕に血が滲むのを見て我に返ったのか、ナイフを放り出してその場に座り込んでしまったという。
危険がないと判断した佑紀乃は、そのまま電話の向こうの葉菜の姉に、救急車を呼んでくれるよう頼んだのだという。
電話を切って、止血するものはないかと辺りを見回していると、河合が震える手でハンカチを差し出した。ハンカチで傷の上部をきつく結んだ後、葉菜をベッドに寝かせてから、佑紀乃は河合に話しかけた。
「未玖さん、お父さんに迎えに来てもらいましょう」
河合は、涙ぐんでいる。
「無理よ。パパはいつも忙しいもの。私のことなんて、お金だけ与えて放っておけばいいと思っているのよ」
「そんなことないわ。あなたのこと、とても心配していたわよ」
「嘘よ。あなたの言うことなんて信じない」
「でも、電話してみるわ」
「パパは来ないわよ」
河合の目から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。
河合の父親は、たまたま所用で近くにいたらしかった。彼の車が到着するのと、救急車が到着するのは、ほぼ同時だった。
佑紀乃は、河合を父親に任せ、葉菜に付き添って救急車に乗り込んだ。
腕の傷は、出血のわりに、たいしたことはなかった。保護のために三角巾で腕を吊っているが、縫うこともなかったほどだ。
だが、ショックのせいなのか、一度は下がっていた熱がぶり返し、様子を見るために、そのまま入院することになった。問題がなければ、明日には退院出来るという。
入院のために必要なものは、佑紀乃が病院内の売店で買って来てくれた。
大部屋の端のベッドに横になった葉菜に、ずっと付き添ってくれている佑紀乃が言った。
「お姉さんも、すぐにいらっしゃるそうよ。もうこちらに向かっていると思うわ」
姉の優しい顔が浮かぶ。
「お姉ちゃん、お腹に赤ちゃんがいるのに大丈夫かな」
「私もそのことをお聞きしたんだけれど、もう安定期に入っているから大丈夫っておっしゃっていたわ」
「それならいいけど……」
佑紀乃が言った。
「私、お姉さんがいらしたら謝らなくちゃ。私のせいでこんなことになってしまって」
葉菜はあわてて、首を横に振る。
「佑紀乃さんのせいじゃありません。いつも優しくしてくれて、すごくうれしかったし、今だってずっと一緒にいてくれて、どんなに心強いか」
「ありがとう。でも、昨日、葉菜ちゃんが訪ねて来たときに私が出ていたら、もっと違った結果になっていたんじゃないかと思って」
ふと思いついて、葉菜は聞いた。
「あのとき、佑紀乃さんはどうしていたんですか?」
すると、なぜか佑紀乃の顔が、さっと赤らんだ。
「あの……実は、お風呂に入っていたの」
なるほどと思う。あのとき、葉菜もちらりとそう思ったのだった。
そういえば、葉菜が訪ねて行ったとき、男性はバスローブを来ていたっけ。愛人であるということは、つまりは、そういうことなのだ。
だが、それならば、出て来られなかったのもしかたがないと思う。急にドキドキして、葉菜の顔も熱くなったけれど、きっと発熱しているせいだ。




