第零話 その物語を読み始める前に知っておいた方が良い物語
ある日、私の旧友を自称する男が我が家を訪ねて来た。
その日私は、古本屋で全巻セット購入した漫画を読むのに忙しかったので、客が来たと母から聞いた時には「今いないと言っといて~」と返した。しかしこれが失敗だった。
母は玄関から奥の間にいる私に声をかけ、私も母に聞こえるように玄関まで届く声で返したので、母の目の前にいる彼に私が居留守を使おうとしたのがバレてしまった。そういう訳で私は重い腰を上げ、忙しい時間を押してまで来客の相手をしなければならなかった。
彼は近い内に結婚するからということで、どこか遠くの地から実家に挨拶しに帰ってきたと言う。地元に帰ってきた彼は、私のことを思い出して何となしに訪ねたという。しかし当の私は、この彼がいつの同級生だったのかよく覚えていない。そもそも何となしで人のプライベートの時間を取らないで欲しい。
ただ彼が言うには、かつて私と彼はお年玉をつぎ込んでガリガリ君を食いまくり、どちらが先に栄光の「あたり棒」を出すのかを競争したことがある仲だったという。そう言えば遥か遠い昔にそんな刺激的且つ平和的なストリートファイトをしたような覚えがあったりなかったりする。
彼は私に言う。
「君は何やら物書きをやってるんだって?」
私は肯定の意味を込めて「ふん」とのみ返す。
すると彼は「だったら僕がいいネタを提供するからそれで一本書いてみてくれよ」と言う。
この時私は、脳から溢れ出んばかりの量のネタを既に温めていた。後は文章に起こすのみといったところであった。しかしこの男の話も一応は聞いてみることにした。何であろうが情報や知識は集めて損はないはずだ。
「今度結婚する相手ってのは年上の女性で、実を言うと僕の先生なんだよ。かつては学生と教師の関係だった僕らは、今では対等な恋人、そしてもうすぐ夫婦になる。だから君は僕と彼女の馴れ初めを文章にすればいいと想うんだよ。これが他人に話すとだいたいは受けるんだよね。どうだい、アイデアに困窮してるっていうんならこれは書くしかないだろう」
ほぅ。こいつ、田舎臭さ丸出しで学校教員を落とすとは、なかなか攻めた恋をしてるじゃないか。
恋愛という何にも勝る人の情熱的な感情を題材とするならそれ自体は悪くない。肝心なのは、その恋の道の内容だと想った私は、この男からざっくりとしたこれまでの二人の物語を聞いた。
この後、男は2時間程私の家に居座ってぺらぺらと長い話をした。その間に私は男が土産に持ってきたぶっとい羊羹を丸々一本食ってしまった。これに関しては後で分けてもらおうと想っていた母が結構怒っていた。母の怒りは置いといて、男の話は物語にするなら及第点といった内容のものであった。そして羊羹は実に美味であった。
そんな訳で、私は数々あるアイデアを一旦は寝かせておいて、この男から聞いた話に、二人で冗談混じりに出し合ったフィクション要素を加えた革新的恋物語を書くことにしたのである。