89.口は禍の元ですね。
軽く明るい印象の始祖パオレは、少年のあどけない笑顔とは裏腹に、何か思惑があられるようでした。
いろいろとたずねる私に、それは話せない、それは秘密だと口を閉ざされてしまうのです。
ですが、始祖が楽しそうにしてくださったお話がありました。旧世界のことについてたずねると、彼はとても懐かしそうに、その目を眇めるのです。何かを思い出されているのかもしれません。
旧世界の末期。世界が一度壊れ、作り変えられる前に、始祖たちは誕生しました。
始祖たちは元々、旧世界の人間だったはずです。末期の僅かな時間ですが、たしかに神話の世界を垣間見たはずなのです。
あのドラゴンだって、旧世界に生きていたと聞きます。その記憶を頼りに生み出したのであれば、始祖は旧世界に何らかの感慨を持っていると見て間違いないでしょう。
「旧世界はどんなところでしたか?」
「んー、今の世界とあんまり変わらないよ? あ、地図はぜんっぜん違っちゃったけど。その他に大きな違いは、吸血鬼がいるかいないか、そのくらいさ。あ、魔物もいなかったかな」
「エンダ―とフィーアも、その時代にいたドラゴンを参考にされて作られたのですか?」
「え? ……あ、うん? あれ、元からいたっけ? いなかったんだっけ?」
始祖が首を捻っておられます。はい、あまり彼のありのままの知識を受けとめないほうが良いですね。記憶違いも多そうです。
ですが、始祖が懐かしそうに語る私生活のようすは、とても現実感があって身に迫るものでした。そういった何気ない日常のものほど、よく覚えていられるのでしょうね。
「いやー、当時は殺伐としてたからね、僕は芸術に没頭してたんだよ。一番好きなのは絵を描くことだけど、彫刻も好きだよ」
話は旧世界の技術や芸術の話になって来ました。それで思い出すのは、アマデウス城にある宝物庫の品々です。
ジュリエットが気にしていた加護の瞳をはじめとする、あらゆる美術品の中には始祖パオレ作のものも含まれておりました。
「あ、僕の作品残しててくれたの? 嬉しいな! じゃあまた、肖像画とか書いちゃおうかな?」
「肖像画?」
「うん、アマデウスは僕が最初にもらった領地なんだ。制作にもってこいの、静かで気持ち良い領地がいいってお願いしてさ。当時は何もなかったけど、今は発展してるんだろう?」
当時、というのが旧世界末期か、極夜の国の黎明期かはわかりませんが、恐らくはそのあたりでしょう。
アマデウスは極夜の国の辺境にあり、それは全世界的に見ても同じです。北西から南西側に海があり、北側から南東側が極夜の国の別領地です。クリスのドラッケンフォール領は南東側ですね。
残りは荒れ果てた荒野に続き、そのさらに向こうに人々の国がある訳です。
そんな辺境ですが、城下はかなり大きな街ですし、多少規模は劣るものの、ほぼ同格の町が他にも点在しています。学園や病院などの施設もありますし、十分発展していると言えるでしょう。
ちなみに極夜の国の中央は、件の真祖のワラキア領であり、そこは侵入不可の領域です。
ですが、そこを特別に祖の座する玉座と見做して、周囲を厳格な円形の建物で覆い、一個の巨大な城となっています。内側には丘陵地帯があるくらいですから、その広大さがわかりますね。
ひとつの建物というよりも、都市と考えた方が良いでしょう。
そのもっとも内側に、六血族の大公を中心とする元老院があります。極夜の政に関する施設や機関も、すべてそこに集中していますね。
それをひっくるめて“王都”と呼び習わし、極夜の国の中枢となっているのです。
私も叙爵の時に一度訪ねたので、かろうじてそこまでは知っています。
そして、中枢に近い順に、公爵領、侯爵領と領地が続き、一番外側の辺境に当たる土地を、私やクリスのような辺境伯が治めます。伯爵以下は、それぞれの領地の領主から領地を分割してもらい、管理する権利を委任してもらっているわけですね。
ちなみに爵位には位階も存在します。公爵の第一位の領地にある下位貴族はすべて一位であり、二位なら二位となるのです。
私は辺境伯としては第一位なので、私の下にある爵位持ちの貴族はすべて一位ですね。まあ、あんまり意識しませんけれど。不良領主ですみません。
とにかく、領主が不良でも、アマデウスはたしかに美しい土地ですし、あらゆる資源も豊かです。
貴族たちと以下の領民たちはみな勤勉ですし、大きな災害も争いもないので発展しているのです。
「……たぶんアマデウスは、極夜の国で一番静かで、穏やかな土地ですよ」
私の言葉に、始祖は二コリと微笑みました。
「旧世界も懐かしいけど、あっちはそんなに素晴らしい世界じゃない。でも、扱き下ろすほどひどくもなかった。そんなもんだよ。まあ、当時は争いばかりでちょっとうるさかったけどさ。こっちの世界だっていろいろ言われてるけど、何だかんだで好きだし。どこでだっていつだって、住めば都ってね」
「始祖パオレも、あまりここに籠られてばかりおられずに、外出されてはどうですか? アマデウスの領地を案内させていただきますよ」
「ああ、それもいいねえ! んじゃ今度頼もうかな」
私のあながち社交辞令とも言えない言葉に、始祖は深くうなずいて見せました。
元々の領主、それも始祖というとんでもない大吸血鬼に対して、いかにも軽々しいお誘いだったのですが、彼にも見てもらいたかったのです。たぶん、気に入ってくれると思いましたし。
ですが始祖をお迎えするとなると、生半な歓迎では済みませんね。双子たちにも相談して計画を立てねばなりません。
……それにしても、だいぶ話し込んでしまいました。
エリはといえば、どうやらだいぶ釣果があがったらしく、今も懸命に釣り竿を振るっています。二頭のドラゴンたちも興味深そうに顔を持ち上げて眺めており、微笑ましいようすでした。
そろそろ戻って、あちらに混ぜてもらおうかと思った時、始祖がぽつりと呟きます。
「たくさん話して喉が渇いた」
……はい。
私がそっと彼を窺い見ると、始祖は私を見上げてにこりと笑っておられました。
「ね、君の血をちょうだい?」
私は自分のこめかみを押さえます。
……いえ、いい加減諦めようとは思うのですが、こうも求められると……ああ、もういいです。
というか、始祖は真祖の眷属で、より始祖に近い血を持つはずなのですが、真血のほうがより近いということでしょうか?
「そりゃそうだよ」
またも始祖パオレが心を読んで、そしてごく真面目な表情で私を見ています。
「君臨する者と属する者、支配される者。似ていても全部違うって、さっき言ったよね? 僕は属する者で、真祖は君臨する者。君のほうがより近い」
……それが、真血持ちは“器”だと言われる所以なのでしょう。
私が君臨する者に近いと言われても、さっぱり理解できませんが。
まあ、吸血鬼に力を与えたり、吸血鬼や人の病を癒す不思議な血です。それはたしかに、他の吸血鬼には無いものです。
とにかく、始祖パオレがにこにこしながら待ちかまえているので、私は観念して襟元を緩めました。
途端、始祖の目がきらりと赤く輝き、伸びあがるようにして私の肩に彼が手をかけた瞬間には、その鋭い牙は首筋に突き立てられておりました。
クリスに無理矢理吸血された時のような、遠慮も労りもない噛みつき方です。
そして相手が始祖であるからか、噛みつかれたその瞬間に、ものすごい悪寒が全身を走り抜けたのです。
「ぁっ……」
漏れた呼気が声帯を揺らし、声と言うよりも音が漏れたのは覚えています。
始祖たるお方に噛まれ、血を吸われるということは、ふつうに吸血されるのとはまた別なのでしょうか?
ぐらり、と大きく視界が歪みました。何もかも、輪郭が定かではなくなります。
そしてぷつりと唐突に、私の意識は途切れたのでした。
「……アベル、ほら起きて、アベル」
はっ、と気づいて目を瞬くと、目の前に始祖のお顔がありました。
すこし心配そうに顔を歪めた始祖パオレは、私の視線と目が合うと、くしゃりと笑って私の肩を叩きます。
「いやー、ごちそうさま! 美味しかったよ。それにしても君、血の層が薄いの? 貧血気味?」
その言葉に、彼に血を吸われて気を失ったのだと、直前のことを思い出しました。
……なんでこう毎回、気絶するほど血を吸われなければならないのでしょうか。
真血は便利で恐ろしいものですが、こう言ったことが続くとうんざりして来ます。
「……実はそうかもしれません。それに比較的しょっちゅう、血を分けてくれとせがまれるので……」
どうやら私は岩の上に横たわっているようでした。多少眩暈がするまま起き上がろうとすると、思ったほど力が入らず、よろけてしまいます。
始祖はその小さな体で異様なほどの力を発揮し、私の体を簡単に支えてくれました。
「ごめんごめん。あんまり美味しかったからたくさん飲んじゃった。いやー、滅多に味わえないからつい、さ」
「……出来れば手加減していただきたかったです」
「ごめんって! 埋め合わせはするからさ!」
その段になって、私はふと気づきました。始祖パオレのお顔が、先ほどよりわずかに高揚しているようです。
……そんなに真血って、興奮するような代物なのでしょうかね。
双子やローラ、クリスも執着しておりますし、一体どんな味がするのか気になって来ました。
……自分の血を味見だなんて、そんな変態じみたことはいたしませんが。
げっそりしつつ首を捻っていると、始祖もまた何かひとり言をおっしゃっているようでした。
「……久しぶりに、懐かしいお方と会えたしね」
「始祖? ……何か?」
よく聞こえなかったので何かと問えば、彼はぱっと顔を明るくさせて、うきうきとドラゴンを指差します。
「何でもないよ! さ、あの子たちとお嬢さんが待ってるし、行こう!」
ドラゴンの手綱を引くのは初めての経験でしたが、かの美しい生き物はまるで私の手足の如く、意のままに従って空を駆ってくれました。
「うわぁ!」
ばさり、と大きく羽ばたく度に、前に座っているエリが感嘆の声を叫びます。
楽しんでくれて何よりですが、私も同様に楽しんでおりました。変身して空を飛ぶのと、大きな生き物に跨って空を駆るのとでは、また違った面白さがありますね。
……始祖パオレによると、この異空間の出口はすこし遠い場所にあるようでした。
そのためにドラゴンたちを紹介してくれたようですが、すっかり話に夢中になっているうちに、だいぶ放置してしまいましたね。
とはいえドラゴンはそのようなことは気にしていないのか、今も悠々と空を舞っています。
ドラゴンたちに釣った魚を与えているエリの横で、始祖パオレにあっさりと手綱を投げ渡された時は仰天しましたが、ドラゴンという生き物が元からそういうものなのか、はたまた始祖の調教が良いのか、ドラゴンにはじめて乗るというのに全く問題がありませんでした。
始祖パオレは金のドラゴンのフィーアを繰り、私とエリは黒のドラゴン、エンダ―に跨っております。彼の先導に従って飛ぶだけですし、作られた空は快晴です。こんな空を飛ぶのは私にも物珍しく、美しい風景を楽しんでおりました。
エリがまたも高い声を上げて、私の胸に背中を預けてくれます。にやけてしまいそうです。
以前の乗馬の際は、エリが張り切って特訓しており、遠駆けの時にはひとりで騎乗できるほどでしたから、相乗りはなりませんでした。それがすこしばかり無念だった私は、自分でもそれとはっきり分かるほど上機嫌です。
またも吸血されて貧血気味ですとか、さして気にもなりません。
というか、噛まれた瞬間と気がついた瞬間はひどい気分でしたが、今はさほどではありません。むしろすっきりしているくらいですが、これも始祖パオレが噛んだためなのでしょうか。
それでも多少、頭がくらりとする瞬間もありますので、あまりはしゃがないように致しましょう。
「……アベル」
ふと気付くと、エリが静かに私を振り向いています。
つい先ほどまで楽しげだったのに、今はずいぶん真剣なまなざしです。
ドラゴンの背は快適で、空を舞っているのにも拘らず、不思議なことに揺れも風圧もさほど感じません。なのでこうして密着していれば会話もまったく問題ないのですが、ふだんにない状況ですので、すこしどきどきしてしまいますね。
「何ですか? エリ」
「……えっとね、その、昨日? 一昨日だっけ、とにかく、アベルが私の部屋に来てくれた時のことなんだけど……」
はた、と私も思い出しました。
そういえば、状況が何だかんだで立て込んでいたせいで、きちんとそのことについて話し合っていないままでした。
「あ、あの――」
「ううん、いいの。アベルは悪くないから」
私の言葉はエリに遮られ、彼女は自嘲するかのように目を伏せました。
「わたしがちょっと、拗ねていただけなのよ。アベルが吸血鬼だってこと、よくわかってなかったくせに」
「……えっと、私が吸血鬼だから、エリは悩んでいたのですか。私が話を聞かなかったからではなく?」
私が自己紹介する前から、吸血鬼だと気づいていたエリです。それがよくわかっていないとは、どういうことでしょう。
エリの顔を覗き込むと、彼女は困ったように眉を寄せて、ふるふると首を横に振ります。
「わかってるつもりだったのに、わかってなかったことに気づいたっていうか。えっと……」
エリはもどかしそうに、懸命に思いを言葉にしようと四苦八苦しているようでした。
「わたしが吸血鬼だって思ってたことと、アベルが吸血鬼だって知っていることが、似ているようで違くて……ああ、もう、上手く言えないけど、とにかくね」
困ったような顔から一転、すこし怒ったように顔を赤らめて、エリは告げました。
「わたしの知らない吸血鬼のアベルがいることが気に食わなかったのよ。でも、そんなことどうでもよかった。だって元々あんたはそうだったんだし、今だって変わっていないわよね?」
「え、ええ、そうですね」
「それに今だって、こんなすごいところでドラゴンになんて乗ってるし、あのパオレって吸血鬼だってとんでもないひとなんでしょう? 今さらよね、吸血鬼がわけわからないなんてこと。はじめから知ってたのに、よく考えてなかったのよ」
エリは吐き出すように大きく息をついてから、私の目を覗き込みます。
「だから、もういいの。わたしは寂しがりやのアベルが好きだから。甘えん坊でわたしにすり寄って来るあんたが好き。それでいいんだって、やっと思ったの」
「……エリ」
私はエリの手のひらの上で転がり倒している気持ちになりながら、たまらず彼女をそっと抱きしめました。
さすがにドラゴンに騎乗中ですから、下手に動けません。ちょっともどかしいですね。
「……だ、だから、この話はもうおしまい! あんたもそれでいいんでしょ!?」
「はい」
私が嬉しさに顔を綻ばせると、エリは恥ずかしがっているような怒っているような、そんな表情をぷいと向こうに向けました。
エリが可愛くてどうしましょう。頭に血が昇りそうです。
と、そう思った時に、またもくらりと軽くめまいがして、私は懸命に手綱を手繰り寄せました。エンダ―が軽く下降して、ひとつ大きく羽ばたきます。
「ど、どうしたのよ?」
「……あー、すこし喉が渇いただけで……。すみません、今、血をいただいても?」
「ド、ドラゴンの上で?」
エリはすこし躊躇ったようですが、まあこれほど密着していれば、転がり落ちる心配もないでしょう。
手綱を取っているのも私ですし、具合が多少悪いのを心配してくれたようで、そっと襟を引っ張ってその首筋を晒してくれました。
そこにそうっと口付けてから、軽く食んで牙を立てます。一度エリから血を貰ってから数回、こうしたことがあるわけですが、やはり慣れがあるようで、一番はじめに指を噛んで血を貰った時ほどの反射反応はないようです。
とはいえ無理はさせられません。ふた口ほどもいただいてから、私はすぐに牙を抜きました。
「……ごちそうさまです、エリ」
私がそっと耳元に囁くと、エリはほうっと肩で息をつき、赤らめた顔を私に向けました。
「……前々から思ってたんだけど、吸血鬼に噛まれるって、みんなこうなるの?」
「と、申しますと」
私が首を傾けますと、エリはすこし眉を顰めて、恥ずかしそうに呟きます。
「な、何て言うか……き、気持ち良いんだけど、えっと、滾るっていうか……」
「気持ち良くさせる作用はたしかにありますが……滾る?」
「な、何でもない!」
エリがばっと前を向き、両手でエンダ―の首元にしがみつくようにします。
離れると危ないですよ、エリ。
私はそっと左右から抱き込むようにして、ゆっくり彼女を引き寄せました。すこしびくりとしたようですが、されるままです。
ちらりとエリがこちらを振り向いたので微笑むと、真っ赤な顔のまま前を向きました。可愛くて悶え死にそうです。
……ですが、エリの言うとおり、吸血鬼の吸血、噛みつき行為は、人にさまざまな影響を与えます。
意識して操ろうとすれば思いのままにできるのですが、ただたんに噛みつくだけなら、単純に陶然としてしまうか、軽い麻痺みたいなもので済むようです。
中にはヨハンのように拒絶や過大反応をしてしまう人もおりますが、意図しても催眠にかかりにくい人もいますし、ほんとうにさまざまですね。
……私は噛まれても、正直、気持ち良くも陶然としたりもしませんので、いまいちよくわからないのです。人だった頃に噛まれた時は、死ぬ直前だったからどうかはわかりませんが、ただつらいだけでしたし。
滾るって何でしょう。どういう感覚かよくわかりませんね。
「私は今まで、噛み逃げみたいなことばかりしていたので、よくわからないのですよね。領民の方たちは吸血慣れしていますから、そこまで過剰に反応するひとはあまりいないようですが」
「そ、そうなんだ……って、噛み逃げって何よ?」
「夜街で女の人に……あ」
しまった、と口を噤んだと気には遅かったようです。
……振り向いたエリの顔が怖いです。無表情かと思えば、今は静かに穏やかに……背後に黒いものを見え隠れさせながら、にこりと微笑んでおりました。
「……詳しく、お話してくれるかしら?」
「……はい」
私は生まれてはじめてのドラゴン騎乗体験中に、恋人に過去の所業を暴露しなければならないという、何とも情けない経験をするはめになったのでした。




