88.毒を食らわば皿までです。
始祖はまるでついこの間、そのイヴリーンという方に会ったことがあるかのように、しみじみと懐かしそうに話されました。
「何百年か、何千年……何万年前だかは忘れちゃったけど。でも、君を見ていたら思い出したことがある。君みたいに落ち着いた吸血鬼だったよ。それでイヴリーンは不定形の血族だったかな? 領主の娘さんだった。あ、純血種じゃないよ? えっと、直系で、たしか……今のオルコット領の領主とは関係ないかな。彼女がいなくなった後、絶えたはずだし」
「……その方は」
思わず私がこぼしてしまったかすれた声に、始祖はにやりと笑います。
「聞きたい? 最期について」
ぐっと私は息を詰まらせました。
とても気になりますし、聞きたいとも思ったのですが、それを聞いてしまったら平生でいられないような気がしてなりません。
……そもそも私は、真血についてよく知りません。調べてもわからなかった、というのが正しいのですが。
吸血鬼となって十年しか経っていない私があまりに無知なのか、浅いのか。
どうやらその血のことは、吸血鬼たちにとっては自明のことのようなのです。以前、ローラやクリスにそのことを教えてもらった時も調べたのですが、真血が薬となる方法をあっさりと記してあるばかりでした。
真祖の器となる、そんな重大ごとの記述がなかったのが疑問だったのですが、どうやら吸血鬼たちは吸血鬼であるだけで、そのことを悟っているようでした。
………よりにもよって当の真血持ちがそれを知らないというのは、一体どういう仕組みの欠陥ですか。
「その血がふつうの吸血鬼と違うからだよ。まったく違うってわけじゃないけど、明らかに異なっている。王と平民の血はそりゃあ違うさ。君臨する者と属する者、支配される者も、似ていても全部違うのさ」
始祖は私の考えを呼んで答えてくれますが、やはりいまいちピンときません。
……不可解な吸血鬼はそういうものなのだと、そう思うほかないでしょう。何度目でしょうね、この境地。
始祖はなおも、どうする? と言わんばかりに私の顔を覗き、見上げておられます。
……イヴリーンについて、知るべきか否か。
彼女という器は、現在の真祖となって生きていると思われますが、その以前の彼女の足跡を追うのは難しそうですね。系譜が絶えた者は、その記録がほとんど残りません。
吸血鬼は同じ血を持つだけで、わざわざ記録に残さずともあらゆることを知っておくことができますから、他の者のために文書なり何なりで残す、ということをあまりしないのです。
ですので、イヴリーンの系譜については、今のオルコット領には何も残されていないと見た方が良いです。
調べるなら元老院ですが、さすがにそこまでして知ろうとまでは思えません。怖いですしね。
……ここでは、知らないままのほうが良さそうです。覚悟が足りません。
「……いいえ」
私がゆっくり首を振ると、始祖はすこしつまらなさそうな、そしてすこしほっとしたように笑いました。
「そっか。うん、そのほうがいいよね。死なんてものはいつ来るか、知らないほうがいいんだから」
始祖はひょいと近くの岩の上に腰かけられました。
そしてぽんぽんと隣りを叩きますので、私はすこし躊躇いながらも、頭を下げて腰を下ろします。
「……でないと、生き物は生きていけないからねえ。吸血鬼なんて死にながら生きてるけど、まあ大差ないし」
先ほどの続きを付け足すように呟かれて、始祖は私をじっと見つめます。
……先ほどよりずっとお顔が近いので、何だかとても居心地が悪く感じられるのですが……。
私がすこしのけ反っていると、始祖はまたもぱっと笑いました。よくよく笑いかけてくださるお方ですね。
「神話のお話って面白いよね」
「え?」
「いやね、さっきの“アベル”とかの話のことさ。僕らって人を支配して殺したり生かしたりするじゃん? それってある意味、人に罰を与えているって感じだよね?」
……そして、笑顔でこんな話を振って来られるわけです。私はぶんぶんと振り回されている気分になりました。
始祖だけあって、さすがに見かけどおり……いえ、昨日は中年男性の姿でしたが、今は子どもで、見かけどおりの幼子ではないのだとまざまざと感じます。
まあ、吸血鬼なんてみんなそうですが。外見など当てもなりません。
ですが、いたって子どもらしく首をかしげてこちらを覗き見られますと、子どもを無碍に扱うことなどとてもできない思いに駆られてしまい、話から逃げられなくなってしまうのです。
私は額に手を当てて悩みながら、始祖のお言葉にお答えしました。
「……ええと、それは思い切り、語弊があると思われますが。……広義の意味では、そういう風に捉えられることもできないこともないのではないでしょうか」
「……やけに遠回りな言い方をするねえ。まあ、いいんだけど」
始祖はぷっと頬を膨らませて、それから気を取り直したように正面を向き、足をぷらぷらとしておられます。
ほんとうに少年そのままですね。まあ、中年男性の姿でも同じようなことをしそうな方ではありますが。
私が阿呆なことを考えていると、始祖はまたも重く真面目な内容の話を、あくまで軽く語られたのでした。
「……神話にはさ、人に罰を与える天使ってのがいるんだよ。それって僕たちのことみたいじゃないか?」
「いや、それはさすがにちょっとどうかと」
「えー。だって、人を殺すのはだいたい神や神の使いの仕事だよ? 悪魔っていうのは罰を与えるんじゃなくて、人を悪いほうに誘うとかって感じでしょ? で、そこで堕落したら悪い奴ってことで、神様が罰を与えるの」
「……罰を与える悪魔もいますでしょう?」
「あれ? そうだったっけ? ど忘れしちゃった?」
始祖が首をかしげておられますが、彼の話す神話は、私の知るものと違うようです。
旧世界の神話は、どうやら新世界の聖書の話と、すこしだけ違ってきているようですね。数十万も年を経ているのですから多少どころかほとんど変わっていてもおかしくはないのですが、すこしの違いはあっても不思議とほとんど一緒のようです。
ですが、ほんの些細な差異を、真祖は気にしておられるようでした。
ぶつぶつと呟きながら、たまに「あいつってそんなこと書き遺したの?」と聞こえたりしたのですが、気のせいですよね……?
救世主教の成り立ちに疑問を覚えそうになっていると、気を取り直したのか、始祖パオレがまたもご教授くださるようでした。
「まあいっか! 細かいことはほっといてさ、つまりはそういうことじゃん? 吸血鬼に下った人間を堕落したっていうなら、それを罰するのは神様の仕事。やっぱり僕たち吸血鬼のことじゃない?」
いろいろと良くないし、細かくもない気がしましたが、とりあえず私はそれを忘れることにしました。
そこに突っ込んでも、結局は彼の思うままに話を運ばれてしまいそうですし。押しが強いですし。
なので私は首をかしげながら、自分の考えを言うのです。
「……吸血鬼を悪魔に言い換えれば、その通りではないでしょうか」
「あ、そーか。そういう風にも捉えられるか。じゃ、僕たちは天使で悪魔なんだね!」
私は思わず頭を抱えます。うん、やっぱりこうなりました。
ディートリンデやプリムローズ、そして始祖パオレ。頭が良くて強くて偉い方々は、私にとってはどうやら鬼門のようです。私は学もないし、頭も要領もよくないので、こういう小難しい話は苦手なのですが、どうにもそういった方々にひっかかってしまうようです。
「……どうしてこう、難しくてよくわからない方向に行ってしまうのでしょうか……」
「ん、何の話?」
「強くて偉い方々は、何だかとても難しいことをお考えのようです、と思っただけです」
私なりに重いため息をつきますと、思いのほか真面目なお顔をされて、始祖がうなずかれました。
「そうだね。まあそりゃあねー、僕たちにはいっぱい時間があるし、暇なんだよ。それに、自分の始末をつけられる程度の力があれば、余裕もできるから。だからみんな余計なことばっかり考えて、自滅しちゃうんだよねー」
だから怖くて重そうなお話は、もうお腹いっぱいなのですが。
ですがどうにも、始祖はわたしを逃がしてくれそうにありません。足をぷらぷらしつつ、悪戯っぽく私を覗き見るばかりです。
「……人って勝手だよねえ? 悪に誘う者がいたり罰を与える者がいたり、そんなお話を信じてるのに、いざそういう存在がいても、それを“理に外れた存在”だって嫌うんだもん。……たまに悪魔って言ったりもするけど。ずるいよねー、神も悪魔も勝手に解釈しちゃってさ」
「……始祖もかつては、人であられたのでは」
「もう忘れちゃったよ」
あっさり言ってのけてくださる始祖ですが、まだまだ人の感情を忘れられない私としては、何と答えたものかわかりませんでした。
というか、先ほどから始祖パオレが何を言いたいのか、よりわからなくなってきました。私という器の話から、何故に神話の話になど飛んでしまったのでしょう。
私がエリについてマリアに相談した時のように、宗教問答をしたい訳ではないと思うのですが。
というか、吸血鬼が人の神や聖書の話題を取り上げていいものなのでしょうか。
「始祖パオレ。あなたは……」
言いかけて、私のその質問はあまりに僭越だと気づいて、思わず呼気を止めてしまいました。
……あなたは神や天使、悪魔の存在を信じるのでしょうか、と。
私たち吸血鬼が信じるのは、神や悪魔ではなく真祖ですが、それでも吸血鬼はそれら神の影響を受けざるを得ません。聖印や聖水など、逃れられない弱点を持つのですから。
旧世界で信じられた教えは、ところどころ形を変え、新世界でも人々を救っております。
その中にある神話は、ただのお伽噺や作り話もあるようですが、ほとんどは事実だったと伝えられています。
その証として、印や水、あるいは呪具に聖なる力が宿り、吸血鬼のような邪を祓うのです。
……ですが、それら吸血鬼の弱点は、真祖が作られたとも聞いたことがあります。
そこにどのような深謀遠慮があったのか、推し測ることしかできませんが、それは神や宗教の成り立ちにまで及んでいるように思えて、私は悪寒を覚えざるを得ませんでした。
真祖。神ならざる身でありながら、同等のものとして崇められる存在。
その方について、私はもっとよく知っておかねばならない気がしてなりません。
私はそれに近しい血を持つそうですが、自覚など欠片もございません。調べようとしたのですが、吸血鬼の国でさえそれを詳しく記した文献もありません。
ローラやクリスといった長寿者に聞いても、はっきりとした答えが返って来ることがないのです。
はた、と気づきました。目の前の始祖パオレは、その真祖の眷属ではありませんか。
真祖を知る上で、これ以上ないそのお方に近い存在です。同じような方はほかに五人しかおられません。
「始祖パオレ、あの、あなたはご真祖について――」
「あ、ごめん。それについてはあんまり無駄口叩くなって言われてるんだ。いやー、余計なことばかり言っちゃって怒られてさ」
一瞬で糸を断ち切られてしまいました。私は続く言葉を、ぐっと飲み込むほかありません。
……どのような思惑、あるいは約定があるのかは分かりませんが、始祖のにこやかなお顔を拝見していると、それ以上なにもたずねられませんでした。
……ですが、せっかくの機会です。始祖にお会いするという幸運がまた巡って来るかもわかりませんし、いろいろとお話を聞いてみましょうか。
見れば、エリはドラゴンの首辺りに腰かけて、急流に釣り糸を垂らしているところでした。
ドラゴンともすっかり打ち解けて釣りまで嗜んでいるとは、ほんとうに強い娘です。
彼女が遠目にも楽しそうにしているのを確認して、私は始祖にいろいろと話を振ってみたのでした。




