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黒塗という名の少女

「おいていかないで」


■■が初めて発した言葉が、それだった。

母親はたいそう驚いた。

■■がまだ言葉を話せぬはずの年頃。

生後数か月の赤子だったからだ。


「おいていかないで」


再び■■は母親の腕の中でそう懇願する。

母親は気味悪そうな顔をしながらも手を止めなかった。

祠の中に、赤子である■■を仕舞い込む。


「お前はこれから沼神様に引き取ってもらうんだ」


「私たちと暮らすよりも今よりもずっと幸せになれるはずさ」


「だから何も心配することはないんだよ」


母親は怯えたように周りを見渡しながらそう言った。

薄暗い森の中にある深い沼。

その水辺にあるのがこの祠だ。

人ならざる存在が住むのに相応しい場所といえる。

母親が怯えるのも仕方ないことだ。


(うそつき)


そう、幸せになれるのなんて嘘だった。

沼神様に引き取ってもらうなぞただの言い訳だった。

この場所は、いらなくなった子供や老人を捨てるための、ただの間引き場所。

祠の付近に置いておけば翌日には骨も残さず消えてしまう。

村人たちにとって都合よく利用されるだけの場所だった。


母親が走り去って数刻後。

沼からザバリと何か大きな物が持ち上がった。

巨大な蛇である。


沼神と名付けられたその大蛇は、神を冠するに値する知能を持っていなかった。

ただ古くから生き続けただけの人間を食らうバケモノ。

それが沼神だった。


身体に苔を纏ったその沼神は、祠の中に入れられた■■を見つけると器用に舌で扉を開けた。

そのまま■■を取り出して丸のみにしようとする。


「たべないで」


赤子の発した言葉は誰にも届くことなく。

そのまま沼神の口の中に落ちていった。


或いは沼神が人間を殺してから食べるバケモノであったならそこで話は終わっていたかもしれない。

生きたまま沼神の胃に落ちた■■は奇妙な安心感を覚えた。

ここはどこよりも暗い。

太陽の光も月の光も星の光もの光もない。

蠟燭に点る火の光すらない本当の暗闇。


まるで母親の胎内にいたころのよう。

■■は胃の中で丸まり、そのまま溶けていった。



胃液にではなく。

"暗闇"自体に溶けていった。



■■を平らげ、水中で眠りについていた沼神は唐突に苦しみ始めた。

体内に耐えられないほどの「寒さ」を感じたからだ。

陽の当たる陸地に上がってもその「寒さ」は解消されない。

苦しみ悶える沼神の長い身体に、少しずつ黒い染みが広がっていった。

それは暗闇だった。

粘度を持つ液体のような暗闇が少しずつ沼神を侵食していっているのだ。


数刻もしないうちに沼神は、平面のただの黒い粘液になり果てた。

沼神の残骸である黒い粘液からズブリと這い上がるものがいる。

■■だった。


■■は暫しポカンとした様子で天を仰ぎ。

思い出したかのように、四つん這いで進み始めた。


「すてないで」


まるで黒い墨に塗られたかのような■■は。

這いずりながらも沼から離れていく。


捨てられた赤子が、どこへ向かうのか。

それは言うまでもなく。






■■の身体に付着した墨のような液体は、決して彼女を離れなかった。

四つん這いで進んでも、手のひらからそれは剥がれ落ちることはなく。

まるで彼女を守るかのように、彼女を包んでいた。


ぺたぺたぺた。

ひたひたひた。


少しずつ近づいていく。

見覚えがある光景に。

少しずつ見えてくる。

見覚えがある建物に。


それでも■■がその場所に辿り着く頃には、既に日は落ち真夜中になっていた。

もう二人は寝てしまっているだろうか。

■■は少しでも早く二人に会いたくて、真っ黒な手で扉を叩いた。


グジュル。


そんな音がして扉が溶け落ち、黒い染みになった。


───ぺたぺたぺた

───ひたひたひた。


土間を這い上がり、二人の寝床に近づく。

やはり二人とも寝ているようだ。


■■は、ぐっすり眠る一人に近づき声をかけた。



「おとうさん」



黒い手で、その頬をぺたりと触る。

手を通して暖かさが伝わってくる。

だがそれも一瞬だった。


グシャリ。


そんな音がして。

父親の顔は黒く陥没した。

不思議に思った■■は、何度も父親の顔に触れる。

触れた個所は次々と暗く陥没し、床に広がった。

これではもう生きてはいないだろう。


「ひっ」


近くから母親の声がする。

振り向くと、寝床から立ち上がり逃げようとする母親がいた。


「おいていかないで」


思わずその足を手で掴む。

■■の黒い手により、母親の足もグシュリと陥没した。

顔から床に倒れた母親は、それでも■■から離れようとする。

逃げようとした。

悲しくなった■■は、倒れ伏した母親の身体に這い登りながら、こう問いかけた。


「どうしておいていこうとするの」


───ぺたり。

■■の黒い手が触れた個所は、黒く陥没する。


───ぺたり

太ももも。


───ぺたり。

お腹も。


───べたり。

乳房も。


触れる部位は全て陥没したけれど。

それでも母親に痛みはなかった。


彼女は半狂乱になり、様々な事を吐露した。

文学者であった二人は識字率を上げるためにこの村に派遣されたこと。

当初は村長達から振舞われていた「教育の代価」が飢饉により正しく支払われなくなったこと。

明日食うものにも困っている事。

家族三人では生きていけなくなった事。

その為に泣く泣く子供を間引きしようとしたこと。

本当は子供を愛していたこと。


(うそつき)


何故か■■には、相手の嘘を読み取る事ができた。

母親は自分のことなど最初から愛してなどはいなかったのだ。


全てを告白した母親は、虚ろな目でブツブツと呟くだけになった。

誰かを呼んでいる。

恐らくは、もう亡くなってしまった父親の名前を、呼んでいる。

■■は母親にこう懇願した。



「わたしのなまえも」


「よんでちょうだい」



その声は母親の元には届かなかったのか。

或いは届いているのに無視をしたのか。

それは判らない。

それ以降も、名前を呼んでくれなかったからだ。


翌朝、母親は父親の傍で死んでしまっていた。

残された■■は、暫く二人の死体をそのままにしておいたが。

そのうち腐ってきたので、真っ黒な染みに変えてしまった。




二人が学者であるというのは事実だった。

家には沢山の書物が残っていた。

識字率を上げるという目的の為か、文字を伝えるための書物も沢山あった。

やることがなくなった黒塗は書物を見て過ごした。

元々、両親の会話から学習して独自に言葉を喋る事ができた■■であったので。

文字の学習も数カ月もたたず完了した。

その間、何も食べず何も飲んでいなかったけれども。

■■はこの時、不思議に思わなかった。


書物の中にはこの家の家系図も残されていた。

両親の名前と思わしきものも載っている。

だが二人の子供である■■の名が記された個所は。

黒く塗られて読めなくなっていた。


恐らく。

両親が■■を捨てた際に、塗りつぶしてしまったのだろう。

■■は指でその部分をカリカリと掻いた。

だが剥がれはしない。


それはもう決して。

剥がれはしないのだ。


「読めなくなった名前」


「黒く塗られた名前」


「じゃあこれから私は」


「黒塗と名乗ろう」






昼は薄暗い家で書物を読み。

夜は沼に行き風を浴び。

襲ってくる動物や妖怪がいればそれを黒い染みに変える。

特に不満はない生活。

そう、不満はなかったけど。


この家は、黒塗ひとりで使うには。

少し広すぎる気がした。


そんな生活をする黒塗の元に、たいそう大きな鬼が訪れた。


今まで出会った妖怪たちとは違い、人の言葉を話すことができたその鬼は。

黒塗にそれなりの礼を払うと、取引を持ち掛けてきた。


「俺の群れの傘下に入れ、そうすれば腹心にしてやろう」


(うそつき)


本当は腹心にするつもりなどなかった。

都合よく使いたいだけだった。

だが。


(一人でいるのは、もう嫌だな)


ほんの些細な気まぐれだったけれども、

黒塗は、鬼の提案に乗ることにした。


鬼は喜び、自分の拠点である「御山」で大層な宴を開いてくれた。

食べた事の無い肉、飲んで事の無い飲み物が台座に並ぶ。

だが黒塗は嬉しくはなかった。


「これは全てお前の為に用意したものだ」


(うそつき)


「そのうち俺達は朝廷の術者達にも引けを取らぬ勢力となろう」


(うそつき)


「お前も俺の元で存分にその力を振るうがよい」


(うそつき)


この宴で出されたものは前日に行われた別の宴の残り物だった。

本当は朝廷と対抗する勢力となるつもりはなかった。

もしそうなったら黒塗を盾に逃げようと考えていた。

黒塗を置いていこうと考えていた。

何もかもが嘘だった。

そう。

母親と同じように。

こいつらも私を騙すつもりなのだ。

騙して置いていくつもりなのだ


「飽きたからもういい」


黒塗は、黒い手で鬼の足に触れた。

鬼は声を上げる間もなく一瞬で黒い粘液と成り果てた。


宴の席に集った妖怪たちは暫し困惑していたが。

黒塗の元に跪きこう言った。


「これから貴女は我らの長です」


「どんな命令にも従いましょう」


(うそつき)


この席が終われば大半の妖怪たちは逃げ去るつもりなのだ。

残った者達も黒塗を利用しようとしか考えていないのだろう。


「もういいって」


黒塗の足元から大きく広げられた暗闇により、宴の席に集った妖怪たちは全て闇に落ち去った。






多くの妖怪たちを屠った黒塗は、妖の王と呼ばれるようになった。

黒塗としては自分の住処に近づきさえしなければ誰かを害するつもりはなかったのだけれども。

それでも来訪者は次々と現れた。


「我らは朝廷を代表する術者です」


「この地を平定した貴女とは、友好的な関係を築きたいと思っています」


「この供物はその証ですので、どうかご賞味ください」


(うそつき)


本当は食べ物に毒を盛られていた。

黒塗の価値など認めるつもりは最初からなかったのだ。




「僕と同じような年頃なのに、そんなに強い術を使えてすごいね」


「ねえ、僕と友達になってくれないかな?」


(うそつき)


じゃあ懐に隠し舞った毒の塗られた短刀はなに?

誰にそれを突き立てるつもりなの。




「私も子供を亡くしていてね」


「貴女さえよければ私の子供になってくれないか」


(うそつき)


昨年私が殺した子供の母親だろうお前は。

憎しみを抑えてよくそんな言葉を吐けるな。




(うそつき)


(うそつき、うそつき)


(うそつき、うそつき、うそつき)


(うそつき、うそつき、うそつき、うそつき、うそつき、うそつき)


嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘。



誰も彼も黒塗を騙そうとした。

騙そうとした者は全て暗闇に変えてやった。

繰り返し。

繰り返し。

繰り返し。

それの繰り返しが黒塗の日常になった。

嘘は見破れる。

私はもう。

決して騙されない。

決して置いていかれたりはしない。


────だが。






敵の中に酷く巧妙な術者がいた。

朝廷が配する術者の長が繰り出す「呪い」は決して黒塗には見抜けなかった。


少しずつ誘導された。

少しずつ力を削がれた。

少しずつ意識を割かれた。


そうして最後には。


黒塗は結界に囚われ、逃げる事ができなくなってしまった。


それでも黒塗は恐怖しなかった。

暗闇を纏えば自分は死ぬことはないからだ。

どんな妖術もどんな霊術もどんな呪術も。

黒塗を最後まで殺しきることはできない。


黒塗の性質は「暗闇」である。

暗闇を晴らし続けることは。

決してできない。

出来ないのだ。


「さようなら」


術者の長の最後の言葉が記憶に残る。

それを最後に、黒塗は地上から姿を消した。


「私は死なないよ」


「私は死なないの」


「例え数千年の時を経たとしても」


「私は死なない」


(うそつき)





そんな言葉は最初の十年で消え去った。

ここには何もない。

何もないのだ。

家にあった書物も。

沼に吹く水気を帯びた風も。

月の光も、星の光も、蠟燭の灯も。

大嫌いだった太陽の光も。


何もない。

何もいない。

誰もいない。


気が狂いそうになる。

頭がおかしくなる。


ここで本当に頭がおかしくなっていれば。

まだマシだったのかもしれない。


だが黒塗は強い精神力から狂うことができなかった。

正常であり続けた。






百年が過ぎて、幾つかの振動を感じ取った。

恐らく地上で天変地異が起こったのだろう。

それを感じ取って黒塗は飛び上がって喜んだ。


きっともうすぐ。

もうすぐきっと。

この結界が崩れて私は外に出られるはずだ。

地上に出られるはずだ。


地上に出たらまずは美味しいものを食べて。

朝廷の術者達を探し出して。

皆殺しにしてやろう。

クケケ。

そうしてこの国の支配者になってやるのも。

悪くないかもしれない。

誰も彼も私に跪く。

もう誰も私を置いていかない。

そんな世界を作ってやろう。


楽しみだ。

楽しみだな。


(うそつき)


だが振動はすぐに収まってしまった。

結界は微動だにしなかった。


外に出れないのが悔しかった。

術者を殺せなくて悲しかった。

少しでも多くの人間が、この天変地異で死んでくれてることを願った。






千年が経過して。

黒塗はまだ待ち続けていた。

これだけ待ったのだ、近いうちに何か変化があるに違いない。


(うそつき)


地上に出たら何をしよう。


(うそつき)


そうだ書物を読もう。


(うそつき)


あの沼にいた沼神と遊ぼう。


(うそつき)


あの雷撃を操る鬼を誘ってあげてもいい。


(うそつき)


久しぶりにお母さんに会いたいな。


(うそつき)


死にたい。


(うそつき)


もうしにたい。


(うそつき)


出来もしないことは言わない方がいいよ。


(うそつき)


私は死なない。


(うそつき)


本当に死なないの?


(うそつき)


何度も試したじゃない。


(うそつき)


本当は私は。


(うそつき)


もう死んでるんじゃないの?


(うそつき)


判ってるくせに。


(うそつき)


本当に外に出れるとか思ってるの?


(うそつき)


本当の事なんてないよ。


(うそつき)


それでも。


(うそつき)


それでもきっと。


(うそつき)


いつかは。


(うそつき)


わたしといっしょに。


(うそつき)


過ごしてくれる人がいるといいな。


(うそつき)


死にたい。


(うそつき)


死にたい。


(うそつき)


死にたい。


(うそつき)




















千五百年が過ぎた時。

黒塗の元にドチャリと落ちてきた少女が。

こう言ってくれた。



「私が一緒に、死んであげるね」


「……え?」



それは黒塗が望んでいた言葉だった。

この千年以上、望み続けていた言葉。

その言葉に嘘はなかったのだ。




(ああ)


(ほんとうのことだ)


(このひとは)


(ほんとうにわたしといっしょに)




こうして黒塗は結んでしまった。


その契約を、結んでしまったのだ。




黒塗を覆っていた暗闇が晴れる。

そこに居たのは、10にも満たぬ小さな幼子だった。



「おいていかないで」



黒塗の言葉に少女は。



「うん、置いていかないよ」



優しく手を握り、そう返した。

返したのだ。

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