第19話 帰らなかった人々
包丁2本で異世界転移した少女は、今日も敵を許さない
第一章 森の向こうの世界
第19話 帰らなかった人々
――ギャ。
小さなゴブリンの幽霊が、壁の向こうを指さしていた。
黒瀬莉央は、作業室の石床に腹をつけたまま、その指の先を見つめた。
(……そっちに何かいるんだな?)
「ギャ」
ゴブリンは頷いた。
いつもなら、もっと嬉しそうに飛び回る。
だが、今夜は違った。
何かを見つけてしまった子どものように、落ち着かない様子で壁と莉央の間を行き来している。
(……分かった。行くよ)
莉央は、マルタの方を振り返った。
三十八歳の女性は、膝の上に置いた木箱の中で、一本の紐を指先に巻きつけていた。
結び目を一つ、二つ。
確かめるように触っている。
「……七人」
マルタが、小さく呟いた。
(……ん?)
「七人、だったわね」
その声には、妙な重さがあった。
莉央は、動きを止めた。
マルタは紐を箱へ戻そうとしたが、途中で手を止めた。
「……あの子も、七人の中にいたのよ」
(……あの子?)
莉央は、首を傾げた。
だが、マルタはそれ以上話さなかった。
木箱の蓋を閉める。
そして、ゆっくりと立ち上がった。
「……さて。仕事に戻らなくちゃ」
壁に手を添え、扉へ向かう。
莉央は、しばらくその背中を見つめていた。
(……何かあるな)
だが、今は幽霊が見つけたものを確かめる方が先だった。
莉央は、床の排水溝へ飛び込んだ。
* * *
地下通路は、相変わらず薄暗かった。
壁の燭台には、小さな炎が揺れている。
遠くから、見張りの咳払いが聞こえた。
莉央は、排水溝に沿って進んだ。
途中で、ゴブリンが壁の中へ消える。
そして、少し先から顔を出した。
「ギャ!」
(……こっち?)
莉央は、方向を変えた。
そこは、以前通った牢屋の並ぶ通路ではなかった。
地下保管室へ向かう階段の手前。
石壁の根元に、古い排水穴があった。
穴の縁は欠けている。
その奥には、細い溝が続いていた。
(……また排水路かよ)
莉央は、思わずため息をついた。
(……異世界来てから、どんだけ下水道探検してんだ私)
だが、文句を言っても仕方ない。
莉央は、身体を低くした。
頭。
前脚。
腹。
後脚。
――するっ。
暗い穴の中へ入った。
ゴブリンは、壁をすり抜けて先へ進む。
(……お前は楽でいいよな)
莉央は、湿った石を踏みながら後を追った。
やがて、前方に薄い光が見えた。
莉央は、慎重に近づいた。
そこには、鉄格子があった。
ただし、今まで見たものとは違う。
格子の向こうには、広い空間がある。
石造りの床。
壁際に並ぶ木箱。
そして、古びた木製の台。
(……何だ、ここ)
莉央は、格子の隙間から覗いた。
部屋の中央には、何か大きな円が描かれていた。
白い粉のようなもの。
金属の線。
そして、床に埋め込まれた石。
(……魔法陣?)
莉央は、目を細めた。
地下保管室で見た図面に似ている。
だが、こちらは実物だった。
(……おいおい)
莉央は、息を呑んだ。
(……こんなところに、召喚陣があるのか?)
そのとき。
ゴブリンの幽霊が、格子の向こうへすり抜けた。
「ギャ……」
莉央は、その姿を目で追った。
ゴブリンは、部屋の奥へ進んでいく。
そして、何もない空間で立ち止まった。
(……ん?)
莉央は、首を傾げた。
そこには、何も見えなかった。
少なくとも、最初は。
* * *
――ふわり。
暗い部屋の奥で、薄い影が揺れた。
(……え?)
莉央は、目を凝らした。
人影だった。
小さな子ども。
年齢は、十歳くらいだろうか。
古い服を着ている。
裸足。
そして、胸元に小さな布袋を抱えていた。
(……おい)
莉央は、身体を硬くした。
(……マジかよ)
その子どもは、床の上に立っていなかった。
足が、石床から少し浮いている。
身体は、向こう側が透けて見えるほど薄かった。
(……幽霊だ)
ゴブリンが、その子どもへ近づいた。
「ギャ……」
子どもは、ゆっくりと顔を上げた。
そして、ゴブリンを見た。
驚いたように目を見開く。
それから、何かを話し始めた。
だが、莉央には聞こえなかった。
(……ん?)
莉央は、耳を澄ませた。
ゴブリンの声は聞こえる。
しかし、子どもの声は届かない。
口が動いているのは分かる。
だが、何を言っているのか分からなかった。
(……どういうことだ?)
莉央は、首を傾げた。
ゴブリンは、子どもの話を聞いているようだった。
そして、莉央の方へ振り返った。
「ギャ!」
(……何?)
ゴブリンは、部屋の奥を指さした。
そこには、古い木製の扉があった。
(……あっち?)
「ギャ!」
莉央は、扉を見つめた。
子どもの幽霊も、同じ方向を指さしていた。
* * *
莉央は、鉄格子を調べた。
隙間は狭い。
だが、一本だけ根元が腐食していた。
その下には、小さな穴がある。
(……いけるか?)
莉央は、身体を低くした。
――ぐにっ。
頭が通った。
前脚。
腹。
後脚。
――するっ。
(……よし)
莉央は、格子の向こうへ抜けた。
そこは、冷たい石床だった。
空気が重い。
湿気と、古い薬品のような臭いが混ざっている。
(……うわ)
莉央は、顔をしかめた。
部屋の中央に描かれた円を避けながら進む。
床には、細かな傷があった。
何か重いものを引きずった跡。
そして、円の周囲には、鉄製の輪が埋め込まれていた。
(……これ)
莉央は、目を細めた。
(……人間を固定するためのものじゃねえよな?)
考えたくなかった。
だが、そう見えた。
ゴブリンの幽霊が、奥の扉へ向かった。
子どもの幽霊も、その後を追う。
莉央は、慎重に近づいた。
扉の下には、細い隙間がある。
だが、身体は通らない。
(……クソッ)
莉央は、周囲を見た。
扉の横。
石壁の根元。
そこに、排水用の小さな穴があった。
(……またかよ)
莉央は、苦笑した。
(……この世界、排水穴多すぎだろ)
だが、今はありがたい。
莉央は、穴へ身体を押し込んだ。
* * *
扉の向こうは、小さな部屋だった。
壁には、棚が並んでいる。
古い帳簿。
木箱。
壊れた器具。
そして、金属製の札。
(……何だここ)
莉央は、棚の下へ潜り込んだ。
床には、紙片が落ちている。
文字は読めない。
だが、図柄は分かった。
二つに分かれた塔。
そして、円の中に三本の線と星。
(……また、この印)
莉央は、顔を上げた。
棚には、小さな金属札が並んでいる。
それぞれに番号のようなものが刻まれていた。
その下には、短い鎖。
そして、首輪。
(…………)
莉央は、動きを止めた。
(……首輪?)
人間用だった。
大きさの違うものが、いくつも並んでいる。
小さなもの。
大きなもの。
錠前のついたもの。
そして、内側に細かな文字が刻まれたもの。
(……何だよ、これ)
莉央は、背筋が寒くなった。
そのとき。
子どもの幽霊が、一つの棚へ近づいた。
そこには、小さな首輪があった。
ほかのものより、少し細い。
子どもは、その首輪をじっと見つめた。
そして、両手を胸元へ持っていった。
(……お前の?)
莉央は、思わず考えた。
子どもは、何も答えなかった。
ただ、ゆっくりと頷いたように見えた。
ゴブリンが、莉央を見た。
「……ギャ」
(……分かった)
莉央は、棚を見上げた。
(……ここで何かされたんだな)
* * *
そのとき。
――カチャ。
遠くで、鍵が回る音がした。
(……っ!)
莉央は、棚の下へ身を伏せた。
隣の部屋から、人間の声が聞こえる。
「……旧礼拝堂への移送は予定通りだ」
「候補者は一人か?」
「ああ。今回は女児だ」
「年齢は?」
「十歳前後」
(……あの子だ)
莉央は、身体を硬くした。
男たちは、さらに話を続けた。
「……適性がなければ?」
「商会へ戻す」
「……それだけか?」
短い沈黙。
そして。
「……記録上は、そうなる」
(……記録上?)
莉央は、目を細めた。
男の声が、さらに低くなった。
「……前回の七人も、そう処理した」
(……七人!?)
莉央は、息を呑んだ。
マルタが数えていた紐。
七人。
その中に、彼女が「あの子」と呼んだ人物がいた。
(……つながった)
男たちは、何事もなかったように話を続けた。
「領主府の監査は?」
「問題ない。帳簿は二種類ある」
「……表と裏か」
「ああ。表向きは、商会への売却だ」
「裏では?」
「……聞かない方がいい」
莉央は、動けなかった。
(……ふざけんな)
表向きは売却。
だが、実際には別の場所へ運ぶ。
そして、戻ってこない。
(……人間を消してんのかよ)
そのとき。
子どもの幽霊が、莉央の隣へ近づいた。
何かを伝えようとしている。
口が動く。
だが、声は聞こえない。
(……ごめん)
莉央は、心の中で呟いた。
(……何言ってるか分かんねえ)
子どもは、悲しそうに目を伏せた。
ゴブリンが、そっとその子の隣へ寄り添った。
莉央は、二人を見つめた。
そして、決めた。
(……絶対、調べる)
この施設で何が起きたのか。
誰が命令しているのか。
そして、あの子どもが何を伝えようとしているのか。
* * *
やがて、男たちの声が遠ざかった。
莉央は、棚の下から出た。
子どもの幽霊は、まだ首輪の前にいた。
莉央は、ゆっくりと近づいた。
「ケロ」
子どもが、顔を上げた。
莉央は、首輪を見つめた。
そして、子どもの方へ向き直った。
(……お前、ここで死んだのか?)
もちろん、答えは分からない。
だが、子どもは莉央の前へしゃがみ込んだ。
小さな手を伸ばす。
莉央の頭に触れようとする。
その手は、身体をすり抜けた。
子どもは、少し驚いたように目を見開いた。
そして、寂しそうに笑った。
(…………)
莉央は、何も言えなかった。
ゴブリンの幽霊が、子どもの隣へ立った。
「……ギャ」
莉央は、二人を見つめた。
そのとき。
子どもの幽霊が、突然、何かを思い出したように顔を上げた。
そして、莉央を見つめた。
口が動く。
何度も。
同じ形を繰り返している。
(……ん?)
莉央は、目を凝らした。
何かを言っている。
だが、声は聞こえない。
子どもは、必死に口を動かした。
そして、胸元の布袋を指さした。
(……袋?)
莉央は、首を傾げた。
子どもは、さらに奥の壁を指さした。
そこには、古い木製の棚があった。
棚の下には、小さな隙間。
そして、壁際には、古い石材の継ぎ目。
(……何か隠してあるのか?)
ゴブリンが、壁の向こうへすり抜けた。
しばらくして戻ってくる。
「ギャ!」
莉央は、目を細めた。
(……分かった)
そして、棚の下へ向かった。
そこには、まだ誰も気づいていない何かが隠されていた。
――第19話・完――
次のエピソードは…
子どもの幽霊が指し示した棚の奥には、施設の裏帳簿に関わる手掛かりが残されていた。マルタが語った「七人」と、記録上だけ売却された人々。そして、首輪に刻まれた奇妙な文字。莉央は、奴隷売買と召喚術を結びつける証拠へ近づいていく。一方、夜明けを待たずに移送時刻を早める動きが始まっていた――。




