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魂をそっとジョウの胸の上に置き軽く押すと、すっとジョウの体の中に吸い込まれていった。冥界神はそれを見届けると、いそいそと天上へと向かった。
ジョウは夜の眠りから覚めるかのように、まぶたを押し上げた。そしてカステを見据えてこう言った。
「アタシを殺して下さいまし」
地獄への入り口が見つからないままに年月が過ぎた。ジョウはとっくにダルンカステの魂が天上へゆき、そして転生してしまったであろうことを心のどこかで理解していた。
死神は頷かなかった。眼球をはめ込み、鼻梁を整える動作をする。
「肉体を……与えろと……? そうしたら殺してくれまして?」
死神は少しの間の後、頷いた。
今までダルンカステが見つからないことを薄々感じつつも、彼女は死を望めずにいた。独りで死んでしまうのが怖かったのだ。人間の息遣いが皆無なこの地下世界で、彼女は誰にも知られずに死んでいかなければならない。そこが不死人の死に場なのだ。
(それは……嫌、だった)
誰かに看取られて人のように死にたかった。そんな自分は今、この死神に自分の死を見送ってもらいたいがために、彼に再び肉を与えている。
(いいかげん、アタシは死ななきゃならないのよ)
彼に見守られてなら死ねる。顔が自然とダルンカステに似てしまった。それは以前に死神に与えた顔と同じだった。
(未練たらしいったらありゃしない)
彼女は己を笑う。だが仕方ないことだ。それはダルンカステの顔でもあったが、何より短い間だったが共に過ごしたカステの顔であるのだから。
(目は違う色にしよう)
ジョウが死ねば、死神に与えた肉を与える術はただちに消え失せてしまうだろう。すぐに無に帰してしまう肉体だが、ダルンカステに似たままだと、カステに失礼な気がした。
彼女は唇に色をつけるために切った指先をさらに深く切ると、両の眼窩に一滴ずつ血液を垂らし、まぶたを下ろした。
そして彼女は彼をカステではなく別の名で呼んだ。作り物の肉体を動かすには名前がいる。別の名にしたのは、もうダルンカステの名をとらないほうがよいと考えたからだが、死神は目を開かない。次々に名を連ねるが、一向に動く気配はなかった。
「………カステ……?」
恐る恐るその名を呟くと、死神のまぶたが上がり、二つの真紅の目が姿を現した。
「よう」
にい、とカステは笑った。ジョウはからかうようなその笑みを見て、本当に器用に笑うようになったと思った。
「……ごめんなさい。カステなんて名前……嫌でしたでしょう。それにその容姿だって、アタシの大事だった人のもので……」
いつもの高飛車な態度はどこへやら、ジョウはぽろぽろと泣き出した。
「いいよ、なんでも。気にならなかったって言ったら嘘になるけど、神ってのは長い時間を生きるせいで忘れっぽいから、もう気にしていない。そもそもおまえがいなかったら、俺に名前をくれる人なんていなかっただろう。今更別の名前をつけようなんて思うな」
カステの態度は優しすぎた。それはジョウを良心の呵責へと導いた。
「不法な生者を探す手伝いをしながら、死を認めていないのはアタシも同じでした。アナタの言う、死を冒涜する人間でしたわ。そしてアナタに勝手に他人の容姿を押し付けた。今だってまた……」
泣きながらうつくむくジョウはカステに抱きしめられ、頭を撫でられた。
「な、え……?」
ジョウは突然のことに動揺して、はくはくと口を動かすだけで言葉が出てこない。ジョウの涙が滑り落ち続ける頬が熱を帯びる。
「おかしいか? 人間はよくこうやっているじゃないか」
カステは穏やかな死に様を知っている。死にゆく人の身をささえ、手を取る者のいる優しい死を。
「その……ひ、人の感触は苦手なのでは……!?」
ジョウを抱いて飛んだことがあったが、あれは必要に迫られてのことだ。
「まあ悪くはない。言葉を伝えることも、熱を伝えることも、肉がないとできない。わざわざ重い肉体を望んだ風神の気落ちがわからなくはないな」
風は人と人の間を木と木の間を通り抜けるのと同じように駆け抜けるしかない。死も同じようなものだ。人の一生、その最後のときに接するだけの存在。魂が宿る肉体の温度と親しむことはない。
ジョウは素直にカステの胸に身を預けた。その肉は冥界の土でできたまがい物だが、熱を持ち脈打っていた。
やがてジョウは泣き止むと顔を上げた。そっとカステから身を離す。
「サア、アタシを殺してちょうだい」
そのために死神の要求通り、肉体を作ったのだから。
「嫌だね」
カステはジョウの体を再び引き寄せた。
「なっ! 約束が違うじゃない。肉体を作ったら殺してくれるって……!」
約束を違えたカステにジョウは敬語を忘れて抗議する。
「俺はただ頷いただけだ。すぐにだなんて約束してない」
「そ、そうだけどっ!」
「俺が優しくしてやるのは、死を受け入れる人間であって、死に急ぐ奴じゃない」
「アタシは十分生きました」
「馬鹿言うな。仕事を放りだすつもりか。俺とおまえは今から人間世界に行かなきゃならん。そして俺に歯向かった奴らの魂を狩るんだ」
とにかく今は生きろ、とカステは言った。ジョウはそれを聞いて落ち着きを取り戻す。
「そうですわね。ではその後に殺してくれまして?」
「…………いいだろう」
カステに抱きしめられているため彼の表情が見えない。彼と生きて、やがて彼に殺される。それはジョウにとってはとても贅沢なことに思えた。
「アタシを甘やかしすぎですわ」
今ここで前言を撤回して、厳しい言葉を投げつけて欲しい。愚かな人間だと死神が断じてくれないものか。
(そうすれば、アタシはカステに側にいて欲しいなんて思えなくなる。この世に未練なんかなくなるのに)
だが彼はぎゅっと抱いていてくれる。ダルンカステを諦めながらも冥界に留まっていたのは、こうして再び人間のように誰かと共にいる時間を得たかったからかもしれない。その証拠に、ジョウはとても満ち足りていた。
「カステ、アタシはアナタに側にいて欲しいと思っていますわ。でもアタシはダルンカステの姿をしたアナタにいて欲しいのか、アナタ自身にいて欲しいのかわからない」
ホラ、アタシはひどいでしょう、と試すようなこと言って、ジョウはこの心地よさから距離を取ろうとする。
「側にいて欲しいと思ってくれるなら、どっちだってかまわない。一緒にいれば、そのうちに俺のほうがよくなるから。大体、ただの人間と俺を比べるまでもない話だ」
尊大さがカステらしい。嬉しすぎて、申し訳なくなっていた。
「嫌なのか……?」
ジョウが返答しないでいると、カステが不安そうな声で訊いた。表情が豊かになっても、感情豊かに話すようになっても、彼は少し人の心の機微に疎いようだ。しかもとびきり大事な場面において。ジョウは少しおかしくなった。
「そんなことないっ」
カステの腕の力が抜けたところを、ジョウはがばっとカステに抱きついた。
「そっか、じゃあ二人で頑張ろうや」
「エエ」
二人は近い距離で見詰め合って、にっと笑った。
ジョウがカステから離れると、彼は黒衣を出して身を包んだ。さらに影から鎌を取り出し数回素振りをして肩に担ぐ。
「行くか」
彼は空間を切り裂き、ジョウは彼の後に続くためその後ろに従った。
「そうそう」
カステがちらりとジョウのほうを振り返る。
「おまえ、その無理な敬語やめたほうがいいと思うぞ。態度と言葉が一致してないから」
にやりと笑うカステの背にぽすっとジョウの拳がぶつかった。




