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再び世界は空を雲が覆う薔薇の花園に戻る。薔薇は風に揺れるようにさわさわと揺れ、そっとジョウを解放した。
ジョウはカステの腕の中で心地よさそうな寝息を立てている。厚い雲が割れ、青い空が顔を出す。
カステはジョウの記憶の一部を垣間見た。それは不死人ジョウの誕生したときのものだった。
カステにはわかっていた。過去のジョウは今とは違う。彼女は過去と死を否定する気持ちを捨てた。今のジョウなら寝台の上で安らかに死を迎える老人のような気持ちで魂を差し出すだろう。そう思う根拠は過去の自分を冷めた目で見ていたジョウにあった。それにそうでなければ、死神の手を取ろうなんて思わないに違いない。
(ダルンカステ)
ジョウにとってその魂を追って冥界まで足を踏み入れてしまうほどに大事な存在。その容貌はジョウがカステに与えたものとよく似ている。
かつて冥界神は肉のある身体についてカステに感想を求めた。カステは重いと答えた。今思うとそれは単純に肉の重さだけでなく、ジョウの想いの重さでもあったのかもしれない。
黒衣を通り抜けて風が骨と骨の間をすり抜けていくような心地がした。肉のある体ではそれがどのような感覚となるのかカステには想像できなかった。だがそれは心に影響を及ぼすものであることは知った。何が原因でこのような気持ちになっているのかはわかっていたし、どういう気分であるかも漠然と理解していた。だから自分がどうしたいか、どう思っているかもすぐに悟った。
薔薇たちは姿を消しカステは湖の水面に立っていた。どちらを向いても岸辺が確認できない。冥界神と天上神の姿はなく、空を飛ぶものも水中を泳ぐものもない。
ジョウの寝息がなければまったくの静寂がこの場を支配していたに違いない。カステはこの静けさに戸惑うことはなかった。
彼は一歩踏み出して、がくんと体の均衡を崩した。なぜか水面を歩くことがかなわず、片足が水中に没し、続いてもう片方も水の中へ消える。そして胴から頭まで水に呑まれた。
驚いた拍子に水中でジョウを手放してしまった。慌ててジョウへ手をのばすが、どうにも届かない。
(おい! ジョウ、起きろ!)
ジョウの目は閉ざされ、開く気配はない。烏の濡れ羽のような黒髪を広がらせ、水の抱擁に身をまかせてたゆたっている。白骨の手で水をかいても進まず、その間にジョウはみるみる濃い青の中に沈んでいく。
ジョウは沈みに沈んで、姿が見えなくなった。ジョウを追って底に向かおうとするのだが、どうにも潜れない。
いつのまにか黒衣は消え、カステは骨の間を水が通り抜ける感触を感じた。次に水と己を隔てるものが何もないことに気付く。骨と骨の間にくまなく水は存在していた。水に包み込まれているような感覚。どこまでも広がる青。不快感はなかった。
――死。冥界で生まれた死よ――
どこからか声がしたかと思うと、眼前の水が渦巻きその中から人影が現れる。一糸纏わぬ裸体は女性のものだ。波打つ豊かな黒髪がゆらゆらと水中を踊っている。目は透明感のある水色で背景の青に溶けて消えそうな儚い光が宿る。
(ああ、あなたは……?)
問いかけつつも、カステには彼女が何者であるかわかっていた。
――スワンダミリア。それが私の名。死よ、それがそなたの名。そなたは人間への恵み、それをゆめゆめ忘れるな――
不死神はカステの頭をふわりと撫でて、泡となって消えた。
無数の泡が水に溶けきったときには、カステは不死神がなんたるかを悟った。
不死という枠にはおさまらない不変さ。彼女は天上、冥界、人間の世界の存続だ。人間の生き死には世界があり続けることに比べればなんとも小さい。生と死の繰り返しも不死神の存続、不変といった性質の内だ。
(あの水は不死神の水ではありえない)
不死の湖の水はカステが害さずに、こうも優しく包み込んでいるのがその証だ。不死神の力が死神を害することなどあるはずがない。
彼はしばらく水中を漂っていた。しばらくといっても、それがどれほどの時間か彼にはわからなかった。長いようにも短いようにも思えた。その曖昧な時間観念は神の世界のものであり、人間には感じることが到底できないものである。
(俺はこういった時間の中にいるのだった)
それは当たり前の事だったが、今の彼には少しばかり残酷な事実だ。
やがてどこからか水流が押し寄せ、カステはなされるがまま流されていった。どんどん流され岸に打ち上げられた。消えた黒衣はいつの間かもとに戻っていた。
カステがこの岸に現れるのを知っていたかのように、冥界神と天上神が現れた。
「見つかったようだな」
「よかったね」
カステの手の中にはいつの間にか淡く光る塊があった。ジョウの魂だ。
「では帰るか。早く魂を体に戻してやらねばな」
冥界神の一言に天上神が反応する。
「ええっ!? 来たばっかりだよ。やだよ。いっちゃやだー」
天上神は冥界神の袖をぎゅっとつかむ。その反応に冥界神はあからさまにしまったという顔をした。
「そうは言ってもな、兄者。なかなか立て込んでいるので、ゆっくりしてはいられぬ。また日を改めて訪問する。だから今回のところは……」
「やーだー。そう言って、ずーっとずーっと経ってからしか来ないんだもん」
冥界神は頭でも痛いというふうに額に手を当て、小さく首を横に振る。
「兄者……悪戯は止めてくれ」
「ふーんだ」
すっかりつむじを曲げてしまった天上神が冥界へ降る階段を隠したことに、冥界神は気付いたのだ。
その後、延々と冥界神が説得を続けると、ようやく天上神はしぶしぶ階段を現した。
「そなたを冥界に送り届けたら、すぐに天上に戻ることで兄者は納得してくれた」
階段に続く入り口をくぐったところで冥界神が言った。
(階段があるならば俺がひとりで帰ってもかまわないのでは……?)
カステの思考を読んだかのように、冥界神が言った。
「そなたをひとりで行かせられたなら問題はないのだがな。そなた、ためしにひとりで階段を降りてみよ」
カステは言われるままに、自分の骨よりも白い階段を一段降りた。
(なっ……!)
行きは一歩踏み出せば、すぐに昇りつめたが、今回は中程にいた。白い階段を包むのは白い空間で、壁にも階段にも影がなかった。慌てて足もとを見ると、カステの影もない。上を見ても下を見ても階段がどこまで続いているのか検討がつかなかった。
「この階段は我でなければ降りきることも昇りきることもできぬ。余人が通るには我と同行せぬ限り、この白い空間で迷い続けることになる」
いずこからとも知れず現れた冥界神とともに降ると、そこはもう冥界だった。




