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抜けるような青空と緑が太陽に輝く草原の間にジョウは立っていた。どこまでも平和そうな世界だったが、晴天に登る一筋の黒煙が不穏な雰囲気を醸していた。ジョウはこの場所を知っていた。そして煙の正体が何たるかを覚えていた。
ジョウがたどり着く頃には、黒煙は本数を増していた。小さな村落の家から火の手があがっている。外では男たちが敵と味方に別れて戦っている。その得物はどこか稚拙な作りで、今の人の世ではあまり見かけない。服装も一枚布に穴を開けただけの貫頭衣、民家は掘っ立て小屋で屋根は藁を葺いただけという様相。
建物の陰にうずくまった女が震えながら神々の名を唱えていた。まだ神が天上神以外にも人間の中に存在した時代だ。ジョウが彼女の肩に手を置こうとしたが、するりとすり抜けてしまった。女はまったくジョウの存在に気づく様子がない。ジョウは落胆しなかった。ジョウはここがどこであるかを知っているのはもちろん、何であるかも知っているからだ。
なすすべなく成り行きを見守っていると、村落の人々が次々と襲撃者により落命していった。そのたびにジョウの表情は暗くなった。
「巫女様逃げましょう」
ジョウはその声にびくりと肩を震わせた。村落の中でも立派な建物、彩色された精霊の像が飾られている、から二つの影が飛び出してきた。見なくても彼らが誰かはわかっていたが、その声に背を向けることがジョウにはできなかった。
(……アタシ、そして、ダルンカステ)
長い髪をかんざしで飾り、裾の長い服を着ている少女は紛れもなくジョウだった。護衛の男は剣を持ち、彼に彼女は巫女様と呼ばれている。
(そうだ。アタシはそんなふうに呼ばれていたわ)
これはジョウの記憶の中。ゆえにジョウにはこれから何が起こるか知っていた。
護衛の男、ダルンカステはというと、その容貌はカステがジョウに与えられたものと同じだった。茶色い柔らかい髪に目元の泣きぼくろ。ただそれぞれ微妙に色味が違った。唇の色が良い例で、男はカステがかつてそうだった鮮血色の唇ではないし、目も闇色ではなく褐色にすぎない。
「ダルンカステ。アタシは足が遅いし、戦力にもならない。アタシは置いていって、そうしたらあなたは逃げられる」
ダルンカステ、ジョウがカステに投影した男。
「嫌ですね」
ダルンカステは過去のジョウの手を取ると駆け出した。ジョウは二人の後を追う。
村の外れまで来たとき、二人は敵に囲まれていた。
「俺のことはいいから、とにかく逃げてください」
ダルンカステが過去のジョウの手を離し、敵に突っ込んでいった。
ダルンカステは一人を殺した代償に左腕を失い、もう一人を殺した代償に背に矢をうけた。三人目を殺した代償に右目が潰れ、四人目を殺した代償に右足に刀傷を負った。そのたびに過去のジョウの悲鳴があがった。ジョウは過去の自分の悲鳴に合わせて呻いた。
見るに耐えず視線を外すと、過去の二人を挟んだむかい側に、黒い影を見つけた。黒い衣に骨がむきだしの面。死神だ。
(ダルンカステの魂を取りにきたのね……)
最後の一人をしとめたとき、ダルンカステの胸に敵の剣が埋まった。
「ダルンカステッ!」
過去のジョウは彼が流すおびただしい血で汚れるのもかまわずに、倒れた彼を抱き起こした。ダルンカステは苦しそうな息の中で彼女の名を呼んだ。
「……ジョウィーナ……」
ダルンカステの瞳から生気が失われていく。
「ダルンカステ! やめて、死なないで! いやよ。ねえってば!」
過去のジョウ、ジョウィーナの叫びも虚しく、ダルンカステの首はがっくと垂れた。
悲しみにうちひしがれる彼女の前に現れたのは死神だった。死神は鎌を振り上げ、ダルンカステの最後の息を奪おうとする。見ていられないジョウが視線を外したときだった。
(えっ?)
ジョウは慌てて過去の二人を挟んだむこう側を見た。そこにはもう一人、死神が鎌も持たずにたたずんでいた。
「カス、テ?」
黒衣に白骨の姿であっても、それがカステだとジョウにはわかった。語尾が疑問系になったのは、カステであるか否かの疑念からではない。なぜ彼がここにいるのか、それがジョウには理解できない。カステの虚ろな眼窩は過去の二人の人間と死神にむけられているのか、自分にむけられているのか、ジョウには判断できなかった。
「やめてちょうだい。ダルンカステの魂を持っていかないで」
ジョウィーナには大鎌を持つ死神が見えている。彼女は昔から人でないものが見える性質だった。
「もう誰もいないの。父様はもう地下へ行ってしまったし、兄様は戦に出たきり帰ってこない、母様はあいつらに連れていかれた。だから連れていかないで!」
生ける者の声は死神には届かない。死神は黙々と己の仕事を進めるのみだ。ダルンカステの首に刃を当てて一気に引いた。だが魂が肉体から出てこない。ジョウィーナがダルンカステをひっしと抱きしめ、肉体から魂が出てしまうのを阻止しているのだ。
「アンタなんかに渡すもんですか」
ジョウィーナが憎々しげに死神を見上げていた。彼女は人間であるにもかかわらず、疲れを知らぬかのようにダルンカステを抱いたまま、その魂を守り続けた。死神が躍起になって彼の魂を取ろうとする。ジョウもカステもその様子を見守る。
死神が何度も大鎌をダルンカステの首を手繰り寄せるようにして引くと、ようやく魂の一片が刃にかかった。
「駄目!」
ジョウィーナが叫んで、ダルンカステの肉体から離された淡い光に抱きつく。少女の力は恐ろしく強く、死神は彼女を魂から引き離すことができないようだった。
死神は大鎌を持っていないほうの手で斜めに空を切った。するとそこに亀裂が走り、冥界の入り口が現れた。死神はジョウが離れずにいる魂を持って、そのまま冥界へと足を踏み入れる。
冥界に生きた人が入ることはできないはずだった。入ろうとしても、弾かれてしまうのだ。だがジョウィーナは何の抵抗もなく冥界の入り口に迎え入れられた。
カステがジョウィーナたちの後に続いた。
ジョウは追わなかったが、瞬きする間に場所が変わった。
「ここは冥界なのですね」
「……」
「そして貴方様は慈悲深き大地の御方」
「……」
ジョウィーナの言葉は確信に満ちていた。
「ダルンカステを返してくださいまし」
(ここは……)
冥界神の居室の一つだ。足もとを浅瀬の川がながれ、冥界神は半月型の岩に腰かけていた。
部屋の隅の闇に死神の黒衣が同化し、ただ白い面が浮いている。カステは今からある場面を目にするはずだ。ジョウは見られたくなかったが、仕方ないという諦めの気持ちが勝っていた。
「ならん。あやつは死んだ。それに魂はとうに地獄へと送られた。ここかどこで我が何者であるかをわかっておるならば、これ以上言葉を重ねるのが無意味なことはわかろう」
今も昔も変わらぬ姿の冥界神がきっぱりと言い切った。ジョウィーナは輝ける冥界の支配者を前にしても、動じる様子はない。普段なら彼女はこのような状況に置かれたなら、畏れひれ伏していただろうが、今の彼女の関心事は死者の国の王にはなかった。
「ではアタクシは探しに行きますわ」
「死者でないものが地獄への入り口は見つけられん。おまえは生きながらに地下世界へとやってきた。もしおまえがここに留まろうとするなら、おまえはこの世界に囚われる。冥界の住人としてしか生きられなくなる。地上の人間とは異なり、年をとらなくなる」
ジョウィーナは挑戦的な光を目に宿した。
「アラ、素敵なこと。時間はたっぷりとあるということですのね」
「おまえは今この場で死を望むこともできる。そうすれば地獄へと降り、再び人間世界へ誕生する道がおまえを待っている」
ジョウはころころと笑った。
「死ぬなんてごめんですわ。アタクシはダルンカステを探して、そして人の世に戻ります」
自信に満ちたもの言いだった。彼女は冥界神の言葉を欠片ほども理解していなかった。
「川を渡るか人間よ」
冥界神は彼女の好きなようにさせてやることにした。すぐに死を望むと思ったからだ。望めば彼は彼女に慈悲を与えただろう。
(アタシは今になってもダルンカステを見つけだせない。そして彼を探すことが無意味だともうわかってる)
ダルンカステを見た今、ジョウが恋しい男の容貌を自分に与えたことをカステは知っただろう。カステの容貌は白骨であり、その名は死である。勝手にダルンカステの容姿を与え、勝手に似た名をつけたジョウに、カステはうんざりしただろう。一人の人間の死を受け止めることができなかった彼女を、死神は軽蔑するに違いない。
そう考えるとジョウは悲しくなった。
記憶は再生し続けられていた。ジョウィーナは冥界の隅から隅まで探そうとしていた。冥界神の薄暗いすみかも荒涼とした大地も今と異なるところはない。そのためジョウは目の前の光景が、過去なのか現在なのかわからなくなってくる。かろうじてこれが過去だと認識させてくれるのは、冥界をさまようジョウィーナの姿だけだ。
(アア、愚かなジョウィーナ。もうダルンカステは見つからないのよ)
ジョウは人間だったころの名で過去の自分を呼んだ。
どこまでも広がる荒野を、魂が行くという地獄の入り口を探してさまようジョウィーナ。時間を忘れてさまよい続けた結果、神の時間軸の中に溶け込んでしまい彼女は死ぬことを忘れてしまった。
神の世界は人間のそれとは異なる。その世界に属してしまったなら、その世界の規則にのっとって生きることになる。そうすると人間の世界とは物理的にも時間的にも隔てられてしまう。冥界に残ってダルンカステの魂を探し出すと決めたときから、ジョウィーナは人であることを捨てたのだ。
人でなくなった彼女はどんどんそれ以外の何かになっていった。死体を動かす、骸骨を笑わせる、そんな人間にできない芸当までできるようになった。そのことを疑問に思えなくなるほど、彼女は冥界とその時間軸の中に取り込まれた。
(……そろそろ死と向き合ったほうがいいわ)
彼女が自身を人間だと言い張るならば、それは避けられない事実。
彼女の決意を見計らったかのように、細く白い肉のない手が差し出された。カステだ。ジョウは泣きそうになった。カステへの後ろめたさと、大きな安堵感がジョウを包んだ。
嵐の日、増水した川の水に足を取られたジョウィーナを助けたのは、ごつごつした剣ダコのある手だった。今、ジョウを助けるのは別の手だ。温かな肉体を持たない冷たい手。だがそれは死を受け入れる者にはきっと優しい。
ジョウは死神の手を取った。




