第1話
牛乳のパックには、いつも二つの日付がある。
ひとつは紙の側面に印刷された、誰の目にも見える賞味期限。もうひとつは、そのパックの上に、うっすらと浮かんでいる、わたしにしか見えない日付だ。印刷のほうはたいてい嘘で、わたしのほうは、ぜったいに嘘をつかない。だからわたしは、スーパーの乳製品売り場で値引きシールを見るたびに、少しだけ笑ってしまう。半額になった牛乳の上に、印刷より三日も先の日付が光っていることがある。逆に、ぴかぴかの新品が、棚に並んだその日のうちに「終わる」と告げていることもある。店員さんは、それを知らない。わたしだけが、知っている。
わたしには、物が終わる日が見える。
牛乳が腐る日。卵がだめになる日。靴の底が剥がれる日。電球が切れる日。傘の骨が折れる日。ボールペンのインクが、最後の一滴まで尽きる日。スマートフォンが、もう二度と起動しなくなる日。すべての物の上に、その日付が、夕方の窓ガラスに映る蛍光灯みたいに、半分透けて、浮かんでいる。数字は、いつも同じ書体だ。誰が書いたわけでもないのに、几帳面な、少し古めかしい字で、月と、日と、年が、並んでいる。
その日付は、動くこともある。
牛乳を、冷蔵庫のいちばん奥の、温度の低い場所に入れると、終わりの日付が、一日か二日、先に延びることがある。靴を、丁寧に磨いて、雨の日に履かずにいると、底の剥がれる日が、ゆっくりと、後ろへずれていく。逆に、乱暴に扱えば、日付は、ぞんざいに、手前へ来る。物の終わりは、扱い方しだいで、少しは、動く。少しは、だ。どんなに大事にしても、いつかは終わる。それだけは、何をしても、変わらない。
子どもの頃は、それが特別なことだと、知らなかった。
みんなにも見えていると、思っていた。賞味期限って、そういうものでしょう、と。スーパーで、母の買い物かごをのぞきこんで、「このヨーグルト、あさってで終わるよ」と言ったことがある。母は、パックの側面を見て、「まだ先じゃない」と言った。わたしは、首をかしげた。だって、上に、あさってって書いてあるのに。母は、変な顔をして、わたしの頭を撫でた。そのとき初めて、わたしは、自分が見ているものと、母が見ているものが、違うらしい、と気づいた。
長いあいだ、それは、便利な癖くらいのものだった。
食べ物を、無駄にしない。家電が壊れる前に、買い替えられる。傘は、折れる前に、新しいのを用意しておける。乾電池が切れる日も、自転車のタイヤがパンクする日も、前もって、わかる。ちょっとした、生活の知恵。占いよりは当たる、おまじない。クラスの友達には、言わなかった。一度だけ、仲のいい子に、軽い気持ちで打ち明けたことがある。その子は、最初は面白がって、自分の筆箱の終わる日を聞いてきた。わたしが、来年の春、と答えると、その子は笑った。けれど、その筆箱が、本当に、次の春に、ファスナーが壊れて使えなくなったとき――その子は、わたしを、少し、こわがるようになった。だから、わたしは、もう、誰にも言わないことにした。
家には、犬がいた。
白い、小さな犬で、シロ、という名前だった。わたしが、生まれる前から、家にいた、年寄りの犬だった。シロの頭の上にも、日付は、浮かんでいた。物の日付ほど、はっきりとは、しなかったけれど、それでも、見えた。わたしが、小学校の、低学年の頃。その日付が、近づいてくるのが、わかった。わたしは、まだ、それが何を意味するのか、はっきりとは、わかっていなかった。ただ、なんとなく、いやな予感だけが、あった。だから、わたしは、その日付が、近づくにつれて、シロを、よけいに、かわいがった。ぎゅっと、抱きしめて、いっしょに、寝た。
その日付の朝、シロは、庭の、犬小屋で、冷たくなっていた。
わたしは、泣いた。けれど、母は、「シロも、年だったからね」と言って、わたしの頭を、撫でた。寿命だ、と。仕方のないことだ、と。わたしは、シロのお墓を、庭の、柿の木の下に、作った。
いま、思えば。
わたしが、人の上の日付を、「死」と、結びつけて、考えるようになったのは、祖母だけの、せいじゃ、なかった。シロも、そうだった。わたしが、生き物の上で、確かめてきた、終わりは、いつも、死だった。犬の、死。祖母の、死。わかりやすくて、取り返しのつかない、終わり。だから、わたしは、人の頭の上の日付を見るたびに、その、白い犬小屋と、藍色の手ぬぐいを、思い出して、震えていたのだ。
そのことに、気づくのは、ずっと、あとになってからだった。
その日付を、わたしが、本気で、こわいと思うようになったのは。
物だけじゃ、なかったからだ。
人にも、それは、浮かんでいた。




