046 独り往く境界線
翌朝、集落を包む空気は鉛のように重かった。
囲炉裏を囲む面々にいつもの活気はなく、交わされる挨拶もどこか頼りない。
朝食の席。その澱んだ沈黙を破ったのは、ドンの低い声だった。
「……セイルのロングボウを最優先で仕上げようと思う」
ドンがスープを啜る手を止め、一同を見渡す。
「昨日のハルキの話を聞いて確信した。
あの『化け物』に抗う術は、これしかない」
その言葉に、ハルキは背筋が震えるのを感じた。自分の導き出した結論を、
ドンもまた村を背負う当事者として共有してくれていたのだ。
「……かたじけない。頼みます」
セイルの短い返答。だが、ドンが次に漏らした言葉が、ハルキの思考を凍りつかせた。
「……ま、こちらから出向かずとも、向こうから来る可能性もあるしの」
ドンは髭をいじりながら、さも当然の予測として口にした。
その一言は、ハルキの脳内に最悪の光景を投影させる。
(……奴が、この村に? 逃げ場のないこの広場に、アレが来るのか?)
考えもしなかった。確証などどこにもないが、否定する材料もまた皆無だった。
ハルキは弾かれたように隣のニケを見た。
猫族の青年は、スプーンを握ったまま石像のように硬直している。その虚ろな瞳は、ハルキ自身の内面にある「予測外の恐怖」を鏡のように映していた。
「おっと、そう怖がるな! 昨日だって見逃してくれたんじゃ。
縄張りさえ侵さねば、向こうだって無駄な殺生はせんだろうよ」
ドンの慌てたような声。彼は取り繕うように何度も髭をいじり、誤魔化しの笑みを浮かべる。だが、その言葉に根拠がないことは、誰の目にも明らかだった。
ハルキは何を口に運んでいるのかさえ分からなかった。
スプーンは重く、食事の味もしない。
結局、その場は「当面、沼地には近づかない」という結論で、逃げるように締めくくられた。全員の顔に、束の間の安堵が浮かぶ。
ハルキもまた、もうこれ以上「ヤツ」には関わりたくなかった。
話題は、療養中のガルドの容体と、越冬のための薪集めへと移る。
薪は冬を越すための命綱だ。これまではガルド夫妻が一任されていた。
「薪集めは、わしとハルキ、ミーラで穴を埋める。
難儀な時こそ、目の前の一歩じゃ」
ドンの口癖に、ハルキは救われる思いがした。こんな時だからこそ、地道な作業に没頭すべきだ……。
それは、得体の知れない恐怖から逃げ出したいという、生存本能に近い逃避行動でもあった。
それから数日。ハルキはセイルの行動に違和感を抱いていた。
一輪車で資材を運ぶ平原の果て。陽炎の向こう側、沼地へと消えていくセイルの細い影を何度も見かける。
その動きは、彼が獲物を狩る前に、対象をじっくりと観察する時のものと同じだった。
(セイルさん……まさか……)
嫌な予感が、ハルキの胸をざわつかせる。
夕食の席でも、セイルは一言も発さず、ただ黙々と食事を咀嚼していた。
もし情報共有が目的なら、頻繁に偵察へ行く理由を語るはずだ。それをしないのは、彼の中に「共有を拒む、孤独な決意」があるからに他ならない。
翌朝。ハルキは沼地へと続く獣道で、独り往くセイルの前に立ちはだかった。
「……また行くつもりですね」
セイルは露骨に不快感を示し、小さく舌打ちをした。
だがハルキは、彼が観念するほどの強さでその腕を掴み、引き止める。
「……俺は、奴を仕留めるつもりだ」
セイルはハルキの肩を掴み返し、射抜くような視線を向ける。
「ハルキ、お前も協力しろ。村を広げるなら、あいつは必ず邪魔になる。……これはお前にとっても『利益』のある話だろう? どうだ?」
ハルキはその表情を見て、息を呑んだ。
セイルは焦っている。あの沈着冷静な彼が、冷や汗を流し、視線を彷徨わせ、声を上ずらせている。
(利益がある、か……)
それはハルキがかつての世界で見てきた、過酷なノルマに追われた営業マンが、嘘を塗り固める時に見せる顔だった。
(この言葉は、俺を説得するためじゃない。セイルさん自身が恐怖を捻じ伏せるために、自分に言い聞かせている嘘だ)
「確かに、村の発展は魅力的です」
「だ……だろ?」
セイルの声が震える。
「でも、村の利益のためにセイルさんを危険な目に遭わせるわけにはいかない。
反対です」
ハルキはセイルの目を真っ向から見て告げた。
「くそっ……!」
セイルは顔を真っ赤に染め、激情をぶつけるように歩き出した。
「セイルさん!」
「安心しろ! 遠くから観察するだけだ。俺だって死ぬのは御免だ!」
遠ざかる背中を見送りながら、ハルキは言いようのない喪失感と不安に苛まれた。
このままでは、彼はいつか一人で境界線を越えてしまう。
ハルキは祈るような心地で、共同釜の前に座るフィアを訪ねた。
事情を打ち明けると、その瞬間、フィアの顔からサーッと血の気が引いていった。
驚きに目を見開いたまま、その瞳からは、みるみるうちに光が失われていく。
「……そうね。あの人なら、そうするでしょうね」
その声は、もう何もかもを諦めてしまったかのように、ひどく冷え切っていた。
「どうして……どうしてそこまで命を粗末にするんですか」
思わず一歩詰め寄るハルキ。
フィアは膝の上で固く結んだ自分の指先を、じっと見つめた。
「……私たちね。セイルと、私は……」
そこで一度言葉を切り、喉の奥に詰まった何かを飲み込むようにしてから、彼女は続けた。
「……戦争難民、なの。……そうなのよ」
その顔には、悲しみを押し殺した、痛々しいほど清廉な微笑みが浮かんでいた。
「故郷は焼かれたわ。他国の戦争に巻き込まれてね…
今はもう、別の名前の国…
私たちの居場所なんて、灰の中にさえ残っていないの…」
伏し目がちに、けれど優しい声でフィアは語る。
「村の皆で避難したけれど、逃げ延びた先でも私たちは『厄介者』だった…
動ける者は冒険者になってその日暮らし…
でもそうでない人は、町外れにテントを張って……」
フィアの瞳から、大粒の涙が零れ落ちる。
「ごめんなさい……見苦しいわね」
顔を覆って泣く彼女を前に、ハルキは事実の重みに押し潰され、呼吸を忘れた。
「だから、私たちはこの開拓を成功させて、エルフの村を再建したいの。
エルフは森の民。
でも、今のこの大陸に、新しく住める森なんて残っていないわ」
フィアは涙を拭い、無理に口角を上げた。
「ほら……私たち、村の期待を背負っちゃってるから」
ハルキは言葉を失ったまま立ち尽くした。
「ごめんなさい、こんな重い話……。でも、セイルを心配してくれて本当に
ありがとう。あいつには、こんなに思ってくれる仲間がいる。
……それだけで、私たちはラッキーなのよ」
感謝の言葉が、鋭い楔となってハルキの胸を打つ。
家に戻り、ミーラの穏やかな顔を見た瞬間、ハルキはすべてを吐き出したい衝動に駆られた。
だが、言えなかった。
セイルが隠し通してきた痛切な背景を、部外者が軽々しく口にすることは、
ハルキのプライドが許さなかった。
その夜。
ハルキは暗い部屋で、一人、己の内面と向き合っていた。
脳裏をよぎるのは、転生前の自分の姿だ。
テレビもニュースも見ず、寝る前にスマホで適当なまとめサイトを流し読みするだけの、無機質な日々。液晶の青白い光だけが顔を照らす、あの狭い孤独。
その小さな窓から見える悲劇も、行き場を失った人々も、指一本でスワイプすれば消し去れる、流れていく記号に過ぎなかった。
(……でも、今はこんなに胸が痛い。息ができないほどに)
不思議な感覚だった。
画面の向こう側にも、同じ痛みはあったはずなのだ。
当時は何も感じなかった。想像もしなかった。遠い世界の話だった。
それが今は、自分のことのように――いや、自分のこととして「辛い」。
ハルキは闇の中で、ボロボロになった自分の拳を強く握りしめた。
今その手には、あの明るい窓<スマホ>はもう無かった。




