私は、私。
思い出したくもない、知りたくない未来を思い出してから、私は三歳になった。
父親似の通った鼻筋に、切れ長で吊り上がった深紅の瞳。真っ黒な髪は腰まで伸びて、邪魔なので結い上げたかったが、父と似てしまうのが嫌で下したまんまにしておいた。本当は切ってしまいたかったが、前にハサミで勝手に切ろうとしてから、イリザに硬く止められている。
貴族の女性の髪は、軽々しく切ってはならないそうだ。
イリザは相変わらず優しく、そして厳しい快活な人だった。
あれから色々と考えたものの、赤子の身では何も出来ることはなく、ただおしゃべり好きな侍女たちの話に耳をそばだて、情報を得るのみだった。
その情報も別段大したものではなく、このルガリオン家があまり評判が良くなく、貴族家の中でも孤立しているということだけ。
動けるようになり、片言が出るようになると、直ぐに家庭教師たちが次々と付けられ、忙しくなった。
代々王妃を輩出してきたルガリオン家は、娘が産まれると幼少より厳しい王妃教育を施す。勉強は嫌いではないが、三歳にやらせるような量ではないだろうこれ。本当にただの三歳だったら、毎日泣いていたでしょうに。
まぁ、中身が大人なので体力的なことを除けば問題なかったけど。仕事と思えばこのくらいは。
ダンスレッスンに礼儀作法、色々な授業がみっちりと毎日。お陰でゆっくりと考える暇もなければ、一日が終われば泥のように眠るだけ。なかでも嫌だったのは食事の時間だ。
朝、夕の食事を取るときは作法の先生と一緒に卓につき、少しでも間違うと長い木板で手を叩かれる。父は勿論食事を一緒になどすることはなかった。
誰もこの折檻については止めてくれず、手が腫れ上がることもしばしばだった。
最初のころ、ブチ切れてひっぱたき返したこともあったが、躾と称した折檻に遭い、大人しくしておいたほうがいいと知った。三歳の幼女は思った以上に無力だった。
唯一心が落ち着けたのは、乳母のイリザとの昼食だけ。今日は天気がいいので中庭で、テーブルに腰かけている。
イリザが持ってきてくれたサンドイッチを頬張る。この昼食だけは、作法の先生もお休みなのだ。
「いけませんよエル様、そのように口いっぱいに詰め込んでは」
紅茶を入れながら困ったようにイリザが眉を寄せた。
イリザの注意は心地いい。私のためを考えて言ってくれているのがわかる。三歳になるころには、すっかりイリザに対して本当の親のような感情が芽生えていた。
イリザに気持ちを傾ければ傾けるほど、焦燥感も増えていく。あと三年も経たず、この人は殺されてしまう。
今世では恋をしてみせると誓った私だったが、目の前の母親代わりの女性を失い、父親に裏切られ、賊に連れ去られて、果たして今の私を保っていられるだろうか。
…考えるまでもない、無理だ。それにおそらく、誘拐されている半月の間に、私を変える何かが起こるのではないか。
どんな悍ましいことが起こるか分からない。両手に持った陶器のカップの中で、ミルクと混ざり合う赤茶色を眺めながら、己が得体のしれない不可避の力によって、悪役令嬢に染められるのを想像して青くなった。
「エリザベスお嬢様」
不意に静かなイリザの声音に目線を上げると、優しい茶色の瞳が間近にあり、抱きすくめられた。
イリザは洗濯物のいい香りがする。暖かくて、柔らかくて、優しい。
「お嬢様は、とても強くて美しい、イリザの自慢の娘ですわ。でも…」
茶色の双眸が、差し込むように私を覗き込んだ。
「弱さの無い人間なんていません。ひとつも苦しくない人も。それを感じるのは罪ではないのです。罪は、負けてしまうこと。たくさんの苦しみや悲しみ、弱さに、負けてしまうことですわ」
「エリザベスお嬢様は…お父様はお嫌いですか?」
自然と眉が八の字に歪んだ。なぜそこで父が出てくるのだろう、と。私が怪訝に思っての反応を、イリザは肯定と受け取ったのだろう。苦笑して、諭すように私の黒い髪を撫でる。
「旦那様は、貴方を愛していらっしゃいます」
「でも、今は、あの方を弱い心が変えてしまっているだけ」
「お母さまは、貴方のことも、旦那様のことも、それはそれは愛しておいででしたよ」
『うそよ』
本来のエリザベスはきっとそう言った。
そして泣いた。イリザの言葉を信じたくて。唯一愛する人の、幸せな希望を信じたくて、でも怖くて泣いただろう。私の身体が、イリザの腕の中で震えている。
だが、28歳の「私」は違った。私には分かった。否定しながらもこの僅かな希望を抱き、エリザベスは今後も勉学に励み王妃教育に邁進する。そして六歳の誕生日に、地獄に突き落とされるのだ。
いつか父が己を赦すことを心のどこかで信じながら、細い糸を張り詰め続ける。孤独とストレスに苛まれ続けながらも、頑張って頑張って頑張って頑張って…ッ
――――――――糸は、切れるのだ。
「なら、おとうさまはつみびとね」
イリザが、双眸を見開いて狼狽えた。
「…ッ、それはちが」
「イリザ」
イリザの頬に手を伸ばす。優しいイリザ。でも、貴女の言葉は子供にとって、とても残酷。唇をそんなに噛まないで。自分の言ってしまったことに、後悔しているのね。本当は貴女の言葉は、私を救うためのものだったのに、ごめんね、イリザ。私は貴女を追い詰めたいわけじゃないの。
「わたしに、おとうさまをすくえるかしら」
貴女を、救えるかしら。
今世の私を――――――救えるかしら。
まん丸に開いた茶色の目の中の、三歳にしては大人びた顔の少女が、ゆるゆると歪んだ。
そして、大きな雫が溢れるように零れだす。
強く抱きしめられて、耳元で嗚咽を噛み殺す音がする。紅茶はすっかり冷めてしまって、食べかけのサンドイッチは乾いてしまった。今日はとても天気が良いから、中庭は柔らかな光に包まれている。
私の中には、ふつふつと煮え滾るものが湧いている。
これは私自身への怒りでもある。私は愚かだ。何を他人事のように三年間も何もせず過ごしてきたのだろう。その間にもやれることはあった筈なのに。
ここは私の第二の人生。シナリオの好きにはさせない。破綻しているのよ、私がエリザベスになった時点で。
破綻させてやる。私が――――私の愛する者が不幸になるシナリオなんて。
私の思い描く結末はこうだ。エリザベスは、普通に恋をして、皆に祝福され、結婚式をあげて、子供を育み、イリザに孫よろしく抱っこしてもらう。その為には、イリザには生きていてもらわなくては。
その為には、私は、三年後の誕生日のシナリオを、破綻させてやる。どんな手を使っても。
私は、大切な今世での母を抱きしめながら決意した。