2 狐の札②
京極家の屋敷の、離れの一室。その部屋で与人は正座をしていた。
澄香も同じように、火にかけられた釜のそばで正座する。その脇には、補助役なのか若い女が座っていた。
(何だ、この状況……)
与人は内心でそんなことを思う。
澄香に呼び出された与人を待っていたのは、茶の湯だった。
掛け軸や生け花が飾られた茶室。淀みのない佇まいの澄香。一目で本格的な茶の湯の席だと分かる。
澄香を写真で見た時に茶道が似合いそうだと思ったし、こうして実際にやるところを見たらその印象以上だった。しかし、それだけに与人は尚更混乱してしまう。とてもこれから裏賭博で争うような雰囲気ではない。
「与人様、与人様」
横からコンが小声で話しかけてくる。「お連れ様がいらっしゃるなら、ご一緒にどうぞ」との言伝だったので、コンも連れてきたのだ。
茶の湯での私語はマナー違反ではないか。与人はそう思ったのだが、しかしコンはそのマナーについて聞きたいようだった。
「私、お茶の作法とか知らないんですが」
「俺も詳しいわけじゃないんだけど……」
進学校の生徒には将来必要になると考えているのだろう。恒正学園では各種の礼儀作法について簡単に教える授業がある。だから、与人は言った。
「まぁ、俺の真似しとけばいいから」
「あ、それもそうですね」
感心したような安心したような顔でコンはそう答えた。
コンが与人の作法を真似る機会はすぐに来た。
「お菓子をどうぞ」
澄香はそう微笑んで、主菓子器を与人の前に置く。
「ちょうだいします」
与人はまず澄香にそう礼をすると、隣のコンにも声を掛ける。
「お先に」
それから、与人はようやく自分の分の練り切りを一つ取り分けるのだった。
これを見て、コンも同じことをする。
「ちょ、ちょうだいします」
緊張した声でコンは礼をした。
「お先に」
(違う。それは真似しなくていい)
隣に客がいないのに誰に断ったのか。幽霊でも見えているのか。与人は思わず、そう声に出してツッコミたくなる。
そんな風に他のことに気を取られたせいだろうか。練り切りが喉につかえてしまう。
「げほっ、げほっ」
むせる与人。それから、涙目になりながら謝った。
「失礼しました」
すると、やはりコンが同じことをする。
「げほっ、げほっ」
(だから、それは真似しなくていいんだよ)
「…………」
(やるなら、〝失礼しました〟までやれよ)
作法を完璧にこなしたつもりなのか、すまし顔をするコンを見て、与人は逆に渋い顔になっていた。
二人がそんな馬鹿なことをしていると、見かねたように澄香が口を開いた。
「そう緊張なさらずとも結構ですよ」
怒るでも呆れるでもなく、落ち着いた口調で彼女は続ける。
「作法も大切ですが、お茶を楽しんでいただくことの方がもっと大切ですから」
そう微笑むと、澄香は率先してそれを実践してみせた。本来の作法を無視して、自分も練り切りに手をつけたのである。そして、――
「げほっ、げほっ」
「気を遣い過ぎだよ」
むせたふりをする澄香に、与人はいっそう渋い顔をするのだった。
しかし、彼女の行動のおかげで、堅苦しい雰囲気がなくなったのも事実だった。
「茶道暦は長いのか?」
「子供の頃からですから、十年ほどになるでしょうか」
「へー」
どうりで慣れた手つきをしているわけである。与人は感心していた。
「他にも何かやってるのか?」
「嗜む程度ですが、華道に書道、香道、それから和歌や日本舞踊、和楽器をいくつか」
「さすがお嬢様だな」
いかにもなラインナップに、与人は苦笑交じりにそう答える。
「他には、剣道、弓道、薙刀、流鏑馬……」
「お嬢様……?」
困惑する与人。もっとも、それだけ習い事をしているのは、やはり名家の生まれのせいだと言えるかもしれないが。
今度は澄香が尋ねる番だった。
「沢村さんは?」
「俺はそういうのは全然」
何しろ借金苦の家で育ったのだ。お茶のお稽古どころか、普通の学習塾にも通ったことがなかった。
「でも、作法の方はしっかりしていらっしゃいましたけど」
「いや、学校の授業でちょっとやったくらいだから」
「それでは、きっと筋がいいのでしょうね」
お世辞だろうが、生粋のお嬢様にそう言われると悪い気はしない。澄香の柔和な雰囲気もあって、つい笑みを漏らしそうになる。
しかし、与人は心の底から彼女に気を許すつもりはなかった。
「そういえば、正客がしつらえについて尋ねるんだったか」
「ええ」
二人のやりとりを聞いて、コンがちんぷんかんぷんという顔をする。
「正客? しつらえ?」
「正客は客の代表者、しつらえは茶席がどういうテーマで用意されてるかってこと」
念の為、「だよな?」と与人が確認すると、「そうですね」と澄香は頷く。
だから、与人は掛け軸を持ち出して尋ねる。一体、どういうつもりで対戦相手を茶の湯に招待したのか、と。
「掛け物には何て書いてあるんだ?」
「これは『一六勝負』と読みます」
澄香は微笑みを絶やさずにそう答えた。
「意味は、サイコロを振って1が出るか、6が出るかというような勝負事――要するに賭け事のことですね。お茶の席に合うかはともかく、これから賭け事で争う私たちにはふさわしいでしょう」
「そうだな」
やはり、単に茶事で交流を深めようというつもりだったわけではないようだ。相槌を打つ与人はわずかにだが顔をこわばらせる。
一方、澄香は気にする素振りもなく話を続けていた。
「一六勝負といえば、菊池寛は『勝負事と心境』の中でこう述べたそうです。
〝英国人が、嘘のつきつこをしたとき、「私は生涯賭をしたことがない」と云つた男が、一番巧妙なウソとしてほめられたが、それほど英国人は賭が好きである。そんな意味で、人は一六勝負が、すきである。まだるこい事をするよりも、一時に勝負を決し、それに依つて精神的緊張を味はうとする。特に、ダルな人生で、心を緊張させる少数のものの中では、勝負事は最大なものであると云つてもいゝだらう。〟と」
与人は切子から渡された資料を思い出す。彼女は大小で勝負した時にも、『深夜特急』を引用して同じようなことを言っていたはずである。
「菊池寛の言う通りだと思うのか?」
「ええ。これまでにギャンブルほど夢中になれたものはありませんでしたから」
与人は再び思い出す。澄香が賭けをする理由を、切子は「御令嬢の火遊び」だと評していた。
「やっぱり、金が欲しくて裏賭博をやってるわけじゃないんだな」
「そうですね。お金がいらないとは――負けたいとは決して思いませんけれど、確実に勝つのが分かっている勝負なんて、そんなものはお茶を飲んで寛ぐのと変わりません。ギャンブルはやはり、負けるかもしれないという緊張感があってこそのものでしょう」
そう答えたあとで、澄香はこちらにも同じように尋ねてきた。
「あなたはどう思いますか?」
「俺は小市民だからな。確実に勝てるならそれが一番だよ。ギャンブルはあくまで金を稼ぐ為の手段の一つだ」
対戦相手だから澄香の意見に反対したわけではない。これは与人の本音だった。
重要なのはあくまでも山を手に入れることである。山を手に入れる為に金を稼ぐ必要があり、金を稼ぐ為に裏賭博で勝つ必要があるだけなのだ。
だから、勝負に付随する緊張感や達成感など与人には必要なかった。むしろ、他の感情など、確実に勝つという意識を鈍らせるノイズでしかない。
「そうですか。趣味が合わなくて残念ですね」
口先だけ気落ちしたようなことを言って、彼女は続ける。
「せめて本番の勝負は楽しめるといいのですが」
相変わらず微笑を浮かべたままの澄香。しかし、その言葉には言外に「楽しませてみろ」と、「負かしてみろ」と、そういう挑発の意味が込められていた。




