6 狐憑きに定跡なし
一日目の対局が終わった、その夜のことである。
「調子良さそうじゃないか」
切子は吉田の部屋を訪れていた。
「お嬢!」
こちらの姿を一目見るなり、吉田は驚いたような感激したような声を上げる。
その理由は、しばらく会話をしたあとで分かった。
「でも、珍しいですね」
「?」
「だって、わざわざ俺のことを心配して、様子を見に来てくれたんでしょう?」
「違う」
吉田の推測をそう否定すると、切子はこれをきっかけに本題に入った。
「お前の対局相手についてなんだが――」
切子は一拍間を置いてから言う。
「どうも明日の朝、急な用事が入ったらしくてな。開始時刻を二時間遅らせて欲しいそうだ」
◇◇◇
切子が吉田の部屋を訪ねる、ほんの数分前。劣勢の与人たちは話し合いの結果、カンニングをするという方向でまとまりつつあった。
「携帯をトイレットペーパーや消臭剤に変化させて、対局前にあらかじめトイレに置いておく。これならボディチェックをされても、トイレを調べられても、カンニングがバレることはまずないだろう」
「なるほど、なるほど」
与人の説明を聞いて、何度も頷くコン。その顔には、作戦に感心しているような、勝利を予感しているような明るい表情が浮かんでいた。
その一方で、与人は難しい顔をする。
「ただ、少し気になることがあるんだよな……」
「何かまずいですかね? 目立った穴はないように思いますけど」
そう尋ねたあとで、コンは気付いたように声を上げる。
「あっ、切子様が私の能力について喋っちゃうとかですか?」
「それはないよ」
あっさりと否定する与人に、コンは続けて尋ねる。
「お友達だからですか?」
「そうじゃなくて」
まさか、そんなに仲が良いように見えているのだろうか。与人は思わず眉根を寄せると、それから改めて説明した。
「今までのギャンブルで、誰も変化を疑う素振りを見せなかっただろ? 今日だって、もし変化のことを知っていたら、吉田さんはカンニングできないように、もっと監視を厳しくするよう訴えたはずだ。つまり、お嬢は俺たちの素性を明かす気は特にないわけだ」
コンにそう言いながら、与人は京極家の屋敷に初めて来た時のことを思い返していた。
〝裏賭博に言うのも変な話だけど、ちゃんとした勝負を紹介してくれるんだよな? 相手とグルになって俺をはめるとか勘弁してくれよ〟
〝勿論だとも。言われなくても、フェアにやるさ〟
あの時の切子の言葉は、やはり真実だったのだろう。もし逆に、吉田の棋力について切子が教えてくれていたら、与人は初日からカンニングに手を出していた。切子は、吉田にも与人にも肩入れする気はなく、あくまでフェアに勝負を取り仕切るつもりなのだ。
与人は「まぁ、お嬢の気が変わって……という可能性もないとは言わないけど」と付け加えつつ、それもまずないだろうと内心考える。一時の気まぐれで行動するタイプとは思えないからである。
これを聞いて、コンはますます不思議そうな顔をしていた。
「それじゃあ、与人様は一体何を気にしておられるんですか?」
「これが一日目なら問題ないと思う。でも、もう二日目だからな。ソフト使うと、棋力が明らかに別人になっちゃうんじゃないかと」
「ああ、そうなると、相手に怪しまれるかもですね」
「そういうことだな。そして、そうなったら、もっと厳しい監視の下でやろうってことになるかもしれない」
たとえば、電子機器を持っていないか徹底的に調べられた上、電子機器を受け取れないように、他人と一切接触できない環境で対局を行うことを要求される可能性がある。
また、仮に上手く電子機器を持ち込めたとしても、ドーピングテストのように立会人に見られながら用を足さなければならないなど、カンニングする機会を潰すようなルールを提案されることも考えられるだろう。
「それに、かなり劣勢だから、逆転するには多分何度もソフトに頼る必要がある。だから、その分トイレに行く回数が増えてますます怪しい」
実際チェスでは、離席の頻度から疑惑をかけられ、カンニングが発覚した例がある。先述のトイレットペーパーに携帯電話を隠していた、ガイオズ・ニガリジェの起こした事件もそうだった。
立て続けにカンニングが難しい理由を述べたせいだろう。逆転の希望を失って、コンが青ざめた顔をする。
そんなコンに、与人は言った。
「だから、カンニングは保険くらいに考えた方がいいだろう」
これを聞いた途端、コンは再び明るい表情になっていた。
「保険って、まだ何か作戦があるんですか?」
「ああ」
頷く与人。実を言えば、実力勝負で吉田に負ける可能性を全く想定していなかったわけではなかった。だから、種目が将棋だと発表された時からずっと、いくつかの作戦を考えていたのだ。
たとえば、変化を使って二歩を誘発させる作戦。具体的には、こちらの歩を他の駒に変化させた上で吉田に取らせ、彼がその駒を二歩になる位置に打った瞬間に変化を解除する、というものである。
しかし、駒の枚数が合わなくなる為、この作戦は吉田の見落としがなければ成立しない。また、そう都合のいい盤面になるかどうか分からないので確実性に欠ける。
たとえば、変化を使って封じ手をすり替える作戦。具体的には、吉田が悪手を打つように仕向けた封じ手を作り、それを立会人に化けて本物の封じ手と入れ替えておく、というものである。
しかし、封じ手は金庫まで使ってプロ同様に厳重に保管されているので、この作戦を実行するのは困難だと思われる。また、たった一手だけ吉田に悪手を指させたところで、現在の劣勢がひっくり返るようなことにはならないだろう。
そんな風に複数の案を検討した末に、与人は最も成功率の高そうなものを提案する。
「コン、遅刻に関するルールは覚えてるか?」
繰り返しになるが、今回の勝負はプロの棋戦を基にルールが定められている。当然、それは遅刻の扱いについても変わらない。つまり、――
「遅刻した時間の三倍が持ち時間を越えるか、遅刻した時間が一時間を越えたら、その時点で不戦敗になるんだ」
「はぁ……」
まだ言葉の意味を分かりかねているのか、コンは曖昧にそう相槌を打った。
それに対して、与人は作戦実行の為にさっさと立ち上がる。
「さぁ、憑依して変化して、吉田さんの部屋に行くぞ」
「誰に化けるんですか?」
コンの質問に、与人はこう答えた。
「お嬢だ」
◇◇◇
与人たちの話し合いが終わった数分後。切子は吉田の部屋を訪れていた。
「でも、珍しいですね」
「?」
「だって、わざわざ俺のことを心配して、様子を見に来てくれたんでしょう?」
「違う」
吉田の推測をそう否定すると、切子はこれをきっかけに本題に入った。
「お前の対局相手についてなんだが――」
切子は――いや、切子に変化した与人は、緊張に一拍間を置いてから言う。
「どうも明日の朝、急な用事が入ったらしくてな。開始時刻を二時間遅らせて欲しいそうだ」
一時間の遅刻をした時点で不戦敗。倍も時間をずらすという嘘を教えれば、そうなるのは確実だろう。
「構わないよな?」
与人は高圧的にそう命令した。これは吉田に有無を言わせない為でもあるし、切子らしく振舞おうとした為でもある。
これが功を奏したのか、吉田は特に反対しようとはしなかった。
「ええ、そんなことなら俺は別に」
「悪いな。じゃあ、明日の十一時に」
与人は具体的な時刻まで伝えて念を押しておく。
演技にボロが出て不自然に思われれば、吉田は本物の切子や他の立会人に、時間の変更について確認しようとするかもしれない。長居は危険だろう。そう考えて、与人は早々に部屋から立ち去ろうとする。
そうして、吉田に背を向けた時だった。
「やっぱり、今日のお嬢は変ですね」
吉田はそう言って、与人を呼び止める。
バレないように口数自体を減らしたつもりだが、何か失言があっただろうか。その失言は今からでもフォローできるだろうか。そんな焦りを覚えつつ、与人は可能な限り自然体を装って吉田を振り返った。
「……そうか?」
「だって、そこらへんの奴捕まえて伝言頼めばいいのに、わざわざこうして直接出向いて、その上謝りまでするなんて」
そう説明したあとで、吉田は疑いの眼差しを向けてくる。
「まさか、沢村君――」
表情が緊張にこわばる。背中に嫌な汗が滲む。そんな些細なことで、正体がバレてしまったのだろうか。
そう息を呑む与人に、吉田は言った。
「のことが好きなんですか?」
思わず、ずっこけるところだった。
「……何でそうなる?」
安心したような、拍子抜けしたような気持ちで与人はそう尋ねる。会話の流れということもあるが、純粋な好奇心も多少あった。
「いや、だって、クラスメイトをいきなり代打ちに抜擢しようとしたり、さっきみたいに予定の変更で便宜を図ったりするのは、実は惚れた男の為だったって考えたらすっきりするじゃないですか」
恋愛の話が面白いのか、それとも切子の恋愛の話が面白いのか。吉田ははしゃぐような声で説明を続ける。
「普段のつんけんした態度は、小学生が好きな子をいじめちゃうみたいなもので、本当は――」
「殺すぞ」
「はい、すみませんでした」
今度の受け答えは不自然ではなかったようだ。与人が凄むと、吉田はすぐにそう謝っていた。
しかし、これはある意味で幸運だったとも言える。的外れな勘ぐりに不機嫌になったふりをして、与人は足早に吉田の部屋を出た。
にもかかわらず、一息つく暇はなかった。
『よっ、与人様は切子様のことをどう思っておられるんですか?』
『お前なぁ……』
やはり耳年増らしく、興奮した様子で尋ねてくるコンに、与人は呆れて物も言えなくなった。
◇◇◇
そうして、それぞれの思惑が渦巻く夜が明け――
二日目の対局再開から、ちょうど一時間が経った時のことだった。
「……驚いたな」
再開時からずっと唖然としっ放しだった切子だが、この時になって更にその感情を露わにしていた。
「まさか、こんな決着とは」
これに続くように、与人も宣言する。
「俺の勝ちだな」
対局相手の遅刻による不戦勝。それでも勝ちは勝ちだと、与人はそう言った。




