百三十七.
楼を辞して再び庭先から仰いだ月は、高みへ昇ったせいか赤みも抜けて、広い空から悠々と嘉を見下ろしていた。
禍々しさの落ちたそれがどこか空事のようで、嘉はしばらく足を休めて夜を眺めた。
風が、微かに琴の音を運んで来た。
君の細い歌声が、月の光に融ける。
蒹葭蒼蒼 蒹葭蒼蒼たり
白露爲霜 白露霜と為る
所謂伊人 謂う所伊の人
在水一方 水の一方に在り
遡洄從之 遡洄して之に従わんとすれば
道阻且長 道阻しく且つ長し
遡游從之 遡游して之に従わんとすれば
宛在水中央 宛ら水の中央に在り
いや、これは幻なのかもしれない。
楼から爪弾くような小さな琴の音が届くだろうか。
ましてや、主公の呟くような唄声など……。
蒹葭淒淒 蒹葭淒淒たり
白露未晞 白露未だ晞かず
所謂伊人 謂う所伊の人
在水之湄 水之湄に在り
遡洄從之 遡洄して之に従わんとすれば
道阻且躋 道阻しく且つ躋る
遡游從之 遡游して之に従わんとすれば
宛在水中抵 宛ら水の中抵に在り
一説には、水の女神への届かぬ想いを綴ったとも言われる、このせつない恋の詩を詠んだ人はもういない。
遥か古に産まれ、生き、そして死んだ。
今となっては名前も伝わらないけれど、その想いはこうして空へと響き続ける。
蒹葭采采 蒹葭采采たり
白露未已 白露未だ已まず
所謂伊人 謂う所伊の人
在水之涘 水之涘に在り
遡洄從之 遡洄して之に従わんとすれば
道阻且右 道阻しく且つ右す
遡游從之 遡游して之に従わんとすれば
宛在水中沚 宛ら水の中沚に在り
リ…ン。
応えるように幽かな鈴の音が響いた。
嘉は懐からそれを取り出すと、掌へと転がした。
やはり、こそりとも鳴らぬ、清んだ珠である。
空に翳すようにそれを眺める。
託された想いが月光を受け、きらきらと煌いていた。
了