# 最終話 千一組目の、その後
就任式から、二月後。
私たちは、再び、南の海を渡っていた。
行きの航路は、もう三度目である。フィオナは船酔いをしない。それどころか、甲板の手すりで、潮風に髪をなびかせる余裕まで、身につけた。二つの生涯を通じて、私はようやく、旅というものの味を覚えつつあった。
携えているのは、三つ。
国王陛下からの、詫び状。百四十年前、一人の王女の生を「なかったこと」にした、王家の詫び。金の印章。そして――系図の、写し。オールウィン公爵家の、新しい一行が書き加えられた、その頁の。
「……見せて差し上げるのよ、アデル様に」
甲板で、レティシアが言った。当主の激務の合間を縫っての、二人きりの南方行きである。就任後の女公爵は、想像通り多忙で、けれど、この旅程だけは、何があっても譲らなかった。
「あなたが書けなかった一行、うちの子孫が、書きましたよって。……百四十年、遅くなりましたけど、って」
――つばめ屋の、二人の墓は、港を見下ろす丘の上にあった。
海の見える、日当たりのいい場所。二つの墓標が、並んで立っている。百四十年、寄り添って。墓碑銘は、手記で読んだ、あの一文だった。
『加護は、確かに効きました』
私たちは、墓前に、三つの荷物を、供えた。
詫び状を読み上げた。金の印章を、墓標の前に置いた。そして――系図の写しを、広げた。
「アデル様。リラ様」
レティシアが、膝を折り、墓標に語りかけた。当主の顔でも、悪童の顔でもない。子孫の顔で。
「あなた方の縁は、百四十年前、この国に摘まれました。あなた方は、名前を捨てて、海を渡って、隠れて添い遂げるしか、なかった。……でも、もう、大丈夫です。この国は、変わりました。ゆっくりですけど、変わったんです」
海風が、二つの墓標の間を、吹き抜けた。
「オールウィンの娘が、また一人、女を伴侶に選びました。今度は――隠れませんでした。海も渡りませんでした。名前も、捨てませんでした。この国の、一番格式高い場所で、堂々と、系図に、書き込みました。……あなた方が、書けなかった一行を」
レティシアは、系図の写しを、墓前に置いた。新しい一行の書かれた、その頁を、二つの墓標に、見えるように。
――伴侶、フィオナ・フローレス。
「あなた方の、続きです。……ありがとうございました。挿し木は、根を張りました。あなた方が渡った海のこちら側でも、ちゃんと、花が咲くように、なりました」
私は、隣で、それを聞いていた。
視えるはずのない、墓標の色を、視ようとしている自分に気づいて、少し、笑った。眼は、死者の色までは、視られない。けれど――潮風の中に、確かに、何かが、ほどけていくような感覚が、あった。百四十年、この丘で海を見ていた二人が、ようやく、肩の荷を下ろしたような。
気のせいかもしれない。前世を含めても、私は死者と話したことはない。
でも、気のせいでないと、思うことは、できる。知らないということは、まだ、どちらでもあるということだ。初代エリアスの、あの言葉を借りるなら。
――帰りの船で、レティシアが、系図の写しを、もう一度、広げていた。
「ねえ、フィオナ。この一行ね、実はもう一箇所、書き足したいところがあるの」
「どこですか」
「ここ」
彼女が指したのは、系図の、ずっと上。百四十年前の欄。アデル・オールウィンの名の、隣の、空白。
「アデル様の隣にも、書きたいの。『伴侶、リラ』って。……本当の名前は、印章でわかった。病没なんて嘘は、消して。ちゃんと、書き直す。百四十年越しの、訂正よ」
「……素敵な、追記だと思います」
「でしょ。当主の、職権濫用だけど」
「いいえ。――役目の、修理です」
レティシアが、こちらを見て、笑った。
「その台詞、ほんと、好きね」
「ええ。あなたが、一番、格好よく見える台詞なので」
――王都に戻って、私たちの日常は、相変わらず、忙しい。
女公爵の激務。小箱堂の商い。返還事業と、術式回収。楽師の診療は、続いている。命令の回路は、あと数年で抜き切れる見込みだと、レティシアは診療簿に書いた。抜き切ったとき、五百年の器が、ただの楽師に戻るのか、あるいは静かに終わるのか――それは、まだ、わからない。わからないまま、月に二度、彼は温室に来て、帰りに少しだけ、街の雑音を聴いて帰る。
エマは、来春、学院を出る。宣言通り、小箱堂に弟子入りするそうだ。「調査主任の後継です」と、本人は張り切っている。私の眼は継げないが、私の調べ方なら、継がせられる。縁は、血だけで結ぶものではない。手で結ぶ家系も、あっていい。つばめ屋が、そうだったように。
ユリウス様の縁談は――まだ、結んでいない。だが先日、辺境の砦で知り合ったという女性剣士の話を、手紙に書いてきた。文面の熱量から察するに、そう遠くない。いい報せを、待っている。プロとして。
――そして、夜。
温室の、いつもの席。いつもの茶。作業台には、診療簿と、返還台帳と、次の依頼の書類。仕事の山は、今夜も、減らない。
「戦績、更新なさい、縁談係」
湯呑み越しに、公爵にして相棒にして伴侶が、にっと笑う。悪童の顔で。
「かしこまりました。――伝説の結婚相談員、生涯戦績、最終確認」
私は、頭の中の帳面を、開いた。もう、閉じることのない帳面を。
成立、千一組。
うち一組は、二つの生涯と、百四十年の遠回りをかけた、自分の縁。追記予定、百四十年前の一組の、訂正一件。継続中の縁、数えきれず。
成婚率――計算するのを、やめた。
数字で測る仕事は、前世で、終いにした。
この生では、私は、数字にならない縁を、結んでいる。系図に載る縁も、載らない縁も。血で結ぶ縁も、手で結ぶ縁も。……ぜんぶ、ひとしく、大切な、一組ずつとして。
「――何、にやけてるの」
「いいえ。……いい商売だと、思いまして」
「でしょ。うちの店」
温室の魔導灯が、じ、と鳴った。
整っていない、いい雑音の中で、私たちは、今夜も、次の縁の算段を立てている。
欠けた翼の飴細工は、小瓶の中で、少し、笑っている。
銀の小鳥は、耳元で、灯りを撥ねている。
――伝説の結婚相談員は、転生先で、最後の一組を結んだ。
千一組目。自分の、縁。
そして今も、丘の上の小さな店で、誰かの縁を、結び続けている。
道具は、人を助けるためにある。
縁は、結ぶためにある。
それが、この店の――私たちの、たった一つの、商売なのだった。
(完)
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(最終話 了)




