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# 第26話 調律師は月に一度



 潜伏調査は、三つの持ち場に分かれた。


 お嬢様の持ち場は、音だった。


「――採れた。聴きなさいフィオナ、これが正午の鐘の『唸り』」


 客間の作業台の上、旅装に紛れ込ませてきた小型の記録水晶が、鐘の余韻を再生する。ゴォン、という主音の下に、耳を澄まさないと拾えない、細い細い振動が二重、三重に絡んでいた。


「主音が『運び役』、唸りが『中身』。楽譜と同じよ。音の高さと間隔で、術式を書いてる。……ふふ、なるほどね。作った奴、音楽の素養があるわ。この唸りの重ね方、和声の理屈そのもの」


 鐘を直接いじれない以上、音から術式を逆算するしかない。お嬢様は三日で領内の鐘の音を刻限ごとに採譜し、四日目には「上書きの文面」の輪郭を掴みつつあった。曰く、命令は驚くほど単純――『波風を、立てるな』。


 感情の音量を絞る紗の正体は、その一行の、際限のない反復だった。


 私の持ち場は、紙だった。


 巡回鑑定の挨拶回りは、領の帳簿に触れる口実の宝庫である。三年前の鐘の鋳造記録は、すぐに出た。発注はノルデン子爵名義、施工は「王都の鋳物師工房」。だが王都にその屋号は実在しない。滞在記録によれば、鋳物師は職人風の男が一人きり。二月も領都に滞在して鐘を鋳たのに――


「顔を、誰も覚えていないのです」


 宿の主人も、教会の司祭も、当時の助手役の若者も、揃って同じことを言った。「腕のいい、もの静かな職人だった」。それだけ。背丈も、年齢も、声も、訊けば訊くほど輪郭が溶ける。人の記憶にまで、紗がかかっている。


 視えない色の男は、覚えられない男でもあるらしかった。


 紙の調査では、もう一つ、見過ごせないものを掘り当てた。金の流れである。


 『波風を立てるな』の領は、恐ろしく効率がよかった。祭りをやめ、庭を潰し、休みなく正確に働く領民。三年で領の収穫は二割増え、納税は完璧――なのに、領庫の余剰が、増えていない。差額はどこへ行ったか。帳簿を三冊突き合わせて、答えが出た。「王都の慈善団体への寄進」。団体名は毎年変わり、どれも実在の確認が取れない。


 つまりこの領は、実験場であると同時に、財布なのだ。人の心から波風を抜き取って、金に換えて、蔦の根に注いでいる。夜会の百燈が「収穫の儀式」なら、この鐘は「収穫の畑」だった。第一章で潰した末端など、この畑の実り一年分にも届くまい。


 盤は一つではない――紙片の文句の意味が、帳簿の数字の形で、ようやく腑に落ちた。


 そして、三つ目の持ち場は――子どもだった。


「エマ様! きょうのぶん、集めてきたよ!」


 夕方の裏庭に、領都の子どもらが三人、駆け込んでくる。


 これはエマの発案だった。大人の記憶と感情には紗がかかっている。だが子どもは、刻まれていない。つまりこの領で三年間を正しく覚えているのは、子どもたちだけなのだ。そしてエマは子爵家の娘でありながら、広場の子らに慕われていた。三年間、遊ぶ子どもを見ている大人が一人もいない領で、年上の彼女だけが、転んだ子を抱き起こしてきたからである。


 子どもの証言は、大人の帳簿より雄弁だった。


「あのね、鐘楼の灯り、また点いてたって。月の頭の、風のない夜」


「音がするんだよ。鐘は鳴らないのに、キイイインって、細いの。犬が嫌がるやつ」


「おじさんが入ってくの、見た子がいる。灰色の服の。……でもその子、おじさんの顔、思い出せないって」


 報告を終えた子どもらに、エマは懐から飴を配った。小箱堂の開店祝いの余りである。それから、真剣な顔で言い添えるのだ。「このこと、大人には内緒よ。あと、鐘楼には絶対に近づかないこと。約束できる子だけ、次もお願いするから」――子どもらは胸を張って頷き、駆けていく。


「……見事な諜報網ですね」


「三年、これで生きてきましたから」


 エマは事もなげに言った。大人が全員「知らない人」になった領で、十二歳が正気を保つ方法は、それしかなかったのだろう。この子の三年を思うたび、鐘を鋳た男への腹の底が、一度ずつ冷えていく。


 お嬢様と私は、証言を突き合わせた。月の頭、風のない夜、鳴らない鐘の細い音、覚えられない男。


「――調律ね」


 お嬢様が、断じた。


「音で書いた術式は、音で緩む。鐘は雨風で微妙に狂うし、季節で金属も伸び縮みする。放っておけば『文面』が崩れて、紗が破れ始める。だから月に一度、調律に来てるのよ。……この仕組みの、いちばんの弱点でもあるわね。手離れが、悪い」


「次の月の頭は」


「六日後」


 六日後、覚えられない男が、鐘楼に来る。


 罠を張るか、泳がせて追うか。議論は割れたが、結論は保留になった。決める前に、確かめるべきことが、私にはあったからだ。


 ――その夜、私は寝付けずに、水を求めて廊下に出た。


 そして、見た。


 大広間の暖炉の前に、ノルデン子爵が立っていた。夜着のまま、灯りもつけず、一枚の絵の前に。


 家族の肖像画だった。若い子爵夫妻と、幼いエマ。三年より、ずっと前の。母親の腕には薔薇がひと抱え、父親は不器用に笑っている。いまの正確な微笑とは、別人の笑い方だった。


 子爵は、微動だにせず、それを見ていた。


 どれほどの時間そうしていたのか。私は柱の陰から、視た。


 灰色。分厚い、二段濃い灰色。……その紗の裏側で、何かが、引っ掻いていた。気泡よりも幽かな、色の疼き。『波風を立てるな』の命令の下で、それでも波風の側へ、爪を立てようとしている何かが。


 肖像画の前でだけ、それは動くのだ。


「……エマ、様は」


 子爵の唇が、動いた気がした。声にならない声で。


「エマは、ちゃんと、食べて、いるか」


 紗の下から漏れたのは、命令に反しない範囲で絞り出された、精一杯の波風だった。


 私は音を立てずに、廊下を戻った。


 部屋に入ると、お嬢様が起きていた。私の顔を見て、何も訊かずに、寝台の端を空けた。


「……視たのね。何か」


「はい。……解除は、間に合います。あの方たちの中身は、まだ、消えていません。三年、紗の下で、戦っています」


「そう」


 お嬢様は短く答えて、天井を見た。


「なら、決まりね。泳がせて追うのは、なし。六日後、調律には来させない。――来る前に、鐘を、こっちが直す」


 調律師が来て見るのは、術式の緩んだ鐘ではない。


 役目を修理された、ただの、よく鳴る鐘である。


---


(第26話 了)


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