第七話 長政の絶望と願い
天正元年(一五七三年)八月末――。
小谷の山を叩く夜風は、夏の終わりを告げ、すでに秋の冷ややかな気配を孕んでいた。
昼間、眼下に広がっていたはずの北近江の豊かな景色は深い闇に呑まれ、小谷城は、静かな死を待つ巨獣のようにただ佇んでいる。
万福丸は、父の呼び出しを受け、重い足取りで奥御殿の一室へと向かった。
襖の前で、その足が止まる。この先で待つ「宣告」が何であるか、九歳の感性はすでに悟っていた。
『……完全に、詰んだな』
脳内で、時任の声が落ちる。いつもの軽薄さは微塵もなく、氷のように冷徹な声だった。
『朝倉は消えた。北の退路は断たれ、ふもとは織田の軍勢で埋め尽くされている。援軍はない。食糧も尽きる。城そのものが巨大な棺桶だ。いいか万福丸、ここからは感情を捨てろ。浅井長政も、この城と運命を共にする。それが歴史だ』
(……わかっておる。言われずともな)
『全員を救おうとすれば、全員が死ぬ。それがこの時代の、そして戦の「理」だ。お前はさっさと逃げろ。遅れれば、お前も歴史の塵になるぞ』
万福丸の指が、ぎり、と畳を掴んだ。
時任の言うことは常に正しい。だが、その正しさが、万福丸の胸を焼けつくように苛んだ。
万福丸は震える息を整え、静かに、襖を開けた。
そこにいたのは、父――浅井長政だった。
鎧を脱ぎ捨て、白装束に近い単衣を纏ったその姿を見た瞬間、万福丸はすべてを悟った。長政の目にあったのは焦りではなく、戦い抜いた男が最後に辿り着く、静謐な覚悟だった。
「……来たか、万福丸」
低く、落ち着いた声。万福丸は膝をつき、深く頭を下げた。
「父上」
しばしの沈黙。その静けさが、何千もの兵の鬨の声よりも重く、部屋に満ちる。
やがて、長政がゆっくりと口を開いた。
「朝倉は滅び、小谷は織田に完全に囲まれた。……援けは来ぬ。小谷は、もう持たぬ。数日のうちに、すべてが決まる。わしは、この城に残る。信長との盟約を破り、朝倉との義を選んだ。その始末は、わし自身の命でつけねばならぬ。それが、浅井の当主としての筋目だ」
揺るがぬ、武士の決断。
だが、長政はそこで一度言葉を切り、万福丸をまっすぐに見据えた。
「お前は、生きよ」
万福丸の時が、止まった。
「……父上……っ!」
「万福丸。お前は、この城と共に死ぬべきではない。浅井はここで終わる。だが、血は残さねばならぬ。……信頼おける数名の忠臣を付ける。城の裏道から北へ抜け、越前の敦賀を目指せ。そこから海路か山伝いに身を隠し――」
『――聞くな、万福丸。それがお前のデッドエンドだ』
父の言葉を遮るように、時任の冷え切った声が万福丸の脳を刺した。
『親父の言う通りに動けば、お前はその忠臣たちに守られて、確かに越前の敦賀までは逃げ延びる。だが、そこまでだ。史実では、敦賀に潜伏しているところを羽柴秀吉の追手に見つかり、捕縛される。そして関ヶ原で串刺しだ。……長政の用意したこの「完璧な逃亡ルート」こそが、お前を確実に殺す死の道標なんだよ』
万福丸の呼吸が浅くなる。
父が自らの命と引き換えに用意してくれた、忠臣たちとの正統な逃げ道。それが、自分を地獄へ直行させる「史実」そのものだという残酷な事実。
『……胸糞が悪い』
時任の声が、ギリッと歯ぎしりをするような激しい怒りに染まった。
『立派に腹を切って、あとの呪いは子供に押し付ける。大儀のために自分は美しく死にますだと? 冗談じゃない。あの戦争の時から、大人たちはいつもそうだ。死ぬ覚悟があるなら、無様に泥水をすすってでも、子供の手を引いて一緒に逃げろってんだ!』
時任の、戦中派としての悲痛な叫びが脳内で木魂する。
「……すまぬな」
長政の声が、わずかに揺れた。父としての、剥き出しの本音が漏れる。
「本当は……お前をこの腕に抱き、共に死なせてやりたい。それが親としての情というものかもしれぬ。……だが、それは許されぬ。わしの我儘で、浅井の未来を潰すわけにはいかぬのだ。お前は、生きよ。泥をすすり、生恥をさらしてでも、浅井がこの世にあった証を残せ。……これが、わしの最後の願いだ」
長政は、万福丸の肩に大きな手を置いた。
父と共に死ぬのは、楽だ。迷わず済む。忠義のままに、美しく散ればよい。だが、父はそれを許さなかった。「生きよ」という、死ぬよりも辛い道を、父はあえて息子に命じたのだ。
万福丸は、深く平伏した。
視界が涙で滲む。父の手の温もりを、その重みを、一滴残らず魂に刻み込む。だが、畳に額を擦りつける万福丸の内心は、悲壮感とは異なる、氷のように研ぎ澄まされた冷たい炎で燃え上がっていた。
(逃げる。生きる。父上の願い通り、すべてを背負って。……だが、申し訳ありませぬ、父上)
万福丸は、心の中で静かに、最も愛する父へ「決別」を告げた。
(わしは、あなたの用意した忠義の家臣を一人も連れては行きませぬ。あなたの用意した北への道も選びませぬ。綺麗な道など歩めば、死が待つだけのこと)
脳裏に浮かぶのは、自分の中に棲みついた偏執的な昆虫学者。計算高い裏切りの巨漢。そして、虫取りを喜んで引き受ける盲目的な狂信者。
(わしは、時任の知識と、高虎、喜三郎という泥にまみれた手札で、この運命を喰い破ります。忌まわしい毒虫すら手足として使い、絶対に生き延びてみせます)
「……は」
万福丸は顔を上げた。震える声には、すでに九歳の子供ではない、一人の戦国武将としての凄絶な意志が宿っていた。
「必ず、生き延びます。父上が選ばれた『義』も、浅井の誇りも、わしがすべて抱えて生き抜いてみせます」
長政は、満足げに、そして悲しげに一度だけ頷いた。
それが、美しく散ることを選んだ「光の当主」と、泥の中を這いずり回ることを決意した「闇の跡継ぎ」の、最後となる言葉の交わりだった。




