第五話 高虎、主を選ぶ
石垣の影に、重苦しい夏の色が溜まっている。
万福丸は、石垣に背を預け、不快そうに自分の手を布で拭っていた。
「……ったく、あのムカデの粘液、洗っても臭いが落ちぬではないか。気色が悪い」
『贅沢を言うな。その竹筒一本が、いつかお前の命を救う、最後の切り札になるかもしれないんだぞ』
万福丸は汚れた布を懐に押し込み、顔を上げた。
視界の先。訓練場の端で、石垣の強度を測るように見つめている、あの「巨大な影」がいた。一九〇センチメートル近い巨躯は、雑兵の中に混じれば嫌でも目につく。だが、彼を際立たせているのは、その身の丈以上に「周囲を測る目」だった。
狂気じみた喧騒の中で、その男だけが、完全に冷え切った目で崩れゆく小谷城を観察している。
『――本気でいく気か? 正気か』
脳内で、時任の引き止める声が響く。
『そいつは藤堂高虎だぞ。将来、「主君を七回変えなきゃ武士とは言えん」なんて豪語する、戦国一の渡り鳥だ。忠義なんて言葉は、そいつの頭の中じゃ「高値で自分を売るための付加価値」に過ぎない。九歳の若君が手懐けられるような猛獣じゃない』
(だからこそ、だ。時任)
万福丸は内心で不敵に笑う。
(浅井の忠義に殉じて死ぬ「光の家臣」など、今のわしには不要。わしが欲しいのは、泥をすすってでも生き残り、わしを勝たせるために冷酷に刃を振るえる「闇の忠臣」だけよ)
『……昆虫学的に言えば、群れ(城)が全滅しても絶対に生き残る、孤独な狩り蜂(単独性のスズメバチ)のような生態だ。無駄がなく合理的で、味方にすれば最強だが……扱いを間違えれば即座に刺し殺されるぞ。しかも大きすぎだろ。あいつがくしゃみしただけで、お前は吹き飛ぶんじゃないか?』
時任が震える声で軽口を叩くのを合図に、万福丸は男へ歩み寄った。
「おぬし」
声をかける。男――藤堂高虎がゆっくりと振り返った。
見上げるほどの圧倒的な壁。だが、万福丸は首を逸らさず、その射抜くような視線を真っ向から受け止めた。
「名は」
「……藤堂。与吉。今は、藤堂高虎と名乗っております」
声は低く、無骨。若君を前にしても敬意の色は薄く、むしろこの「幼い主君」が自分の人生を預けるに足る「船」かどうかを、露骨に値踏みしている。
「高虎か。よい名だ」
万福丸はにやりと笑い、周囲に聞こえぬよう極限まで声を落とした。
「単刀直入に問う。おぬし、このままこの沈みゆく泥船と心中する気か?」
高虎の眉が、わずかに動いた。
「……滅多なことを。俺は浅井の足軽にございます。あんたの父上に拾われた恩もある」
「嘘をつけ。おぬしの目は、崩れゆく壁の隙間から『次の主君』を探しておる目だ。……あるいは、自分が大名になるための、最短の道筋をな」
空気が凍りついた。
高虎の視線が、鋭い殺意を孕んだ観察眼となって万福丸を刺す。
『おい! 殺される! 今ので確実に怒らせたぞ! 蜂の巣を突っつくな!』
(案ずるな、時任。こやつは「損」な殺生はせぬ。……おい、おぬしの知識を寄越せ。こやつの未来の「実績」だ)
『……チッ、もう知らんぞ! 伊賀の上野、伊予の今治、そして伊勢の津だ!』
脳内で時任が叫ぶ歴史の知識を、万福丸はあたかも自身の予測であるかのように、平然と口にした。
「おぬしに、賭けを持ちかけに来た」
万福丸は、高虎の巨大な手の甲に、自分の小さな手を重ねた。
「浅井は滅ぶ。父も、この城もな。ここにおれば、おぬしの才は瓦礫の下で朽ち果てるだけだ。だが――わしは逃げる。死なぬ。そして必ず、浅井を天下の枢要へ押し上げる」
万福丸は虚空(時任)を一瞥し、不敵な笑みを深めた。
「高虎、わしの懐に入れ。伊賀の山、伊予の海、そして伊勢の平野……。おぬしが望む『大名への道』、わしが一番近くで見せてやろう」
「…………」
高虎は、息を呑み、しばし沈黙した。
伊賀、伊予、伊勢。それは高虎自身すらまだ想像もしていない、遥か先の国々の名だ。だが、目の前の子供は、時折、虚空を見つめては奇妙な間を取り、何かを確認するように笑みを浮かべている。
常人なら「乱心」と断じるだろう。だが、高虎の論理的な脳は、その不可解な振る舞いを恐ろしいまでに深読みしてしまった。
(……なんだ、この若様は。ただの戯言ではない。伊賀や伊予の地理的な価値を、すでに理解しておられるのか? あの虚空を見つめる視線……まさか脳内で、天下の盤面を数万手先まで計算しているというのか? なんだこの、底知れぬ神算鬼謀は……!)
「……面白いことを。滅ぶと知って、逃げると公言されますか」
高虎の口角が、わずかに上がった。それは、同類――あるいは、自分をさらなる高みへ運ぶ「得体の知れない巨大な帆船」を見つけた時の歓喜だった。
「死んでしまえば、主君も子息もない。ただの骸だ。……高虎。わしは、歴史という名の決まった記録を破り捨てに来た。おぬしも、その共犯にならぬか?」
「……条件がある、若様」
高虎は膝を折ることもなく、万福丸を見下ろしたまま言い放った。
「無駄は切ります。あんたが足を引くなら、俺は捨てる。情に絆されて判断を鈍らせるなら、俺はその場で降りる。……いいのか」
『……ほら見たことか! とんでもないこと言ってるぞ、こいつ! 狩り蜂の忠告だ、刺される前に逃げろ!』
脳内で時任が半狂乱で喚く。
――だが、万福丸は、声に出して腹の底から笑った。
「くっ……はははは!」
高虎が怪訝な顔をする。だが、万福丸からすれば純粋な爆笑だった。
使えなければ捨てる、だと?
(何を甘いことを。時任の宣告によれば、わしはこのままなら「串刺し」にされるのだ。しかも、生き残るためには、あの世にも恐ろしい巨大な蜂やムカデを素手で握り潰さねばならんのだぞ。それに比べれば、おぬしの脅しなど、春風のように心地よいわ!)
「よい、気に入った! その時は好きにせよ」
万福丸は笑い涙を拭い、高虎を真っ直ぐに見据えた。
「……だが、高虎。おぬしがわしを捨てる前に、わしがおぬしを使い倒して、天下の巨城を一つや二つ、築かせてやるわ」
その、死の淵を覗き込んだ者だけが持つ「異常な胆力」に当てられ、高虎は、その場ではじめて、ゆっくりと片膝をついた。
九歳の子供の背後に見える、計り知れない理と執念。高虎の嗅覚が、この異質な主君こそが、自分を最高値で売り込める「運命の主」だと告げていた。
「……藤堂高虎。この命、一時お預けしましょう。……あんたが、俺に捨てられぬ男であるうちは」
夏の終わりの風が、二人の間を吹き抜ける。
小谷城の崩壊を前に、最も忠義から遠い男が、最も異質な主を認めた瞬間だった。
『……はぁ。もう勝手にしろ。……でもまぁ、あれだ。あんな巨漢が味方なら、逃亡中の荷物持ちには困らなそうだな。高いところの虫を捕る時に、肩車もしてくれそうだし』
(……時任、おぬし。案外、現金な奴だな)
万福丸の唇が、満足げに吊り上がった。
生存戦略。その第一歩は、最強の「裏切り者」を手に入れることで、確かに動き出した。
【時任昆虫教室:其の四 ― 地底の伏兵、トタテグモ ―】
万福丸、足元をよく見てごらん。この一見ただの地面に見える場所に、精巧な「扉」が隠されている。
トタテグモだ。彼らは土の中に深い穴を掘り、糸と土を練り固めて、蝶番付きの完璧な蓋を作る「土木の天才」なんだよ。
彼らは決して自分から獲物を追い回さない。
扉の裏側で息を潜め、獲物が通りかかる振動を待つんだ。そして、ここだという瞬間に扉を跳ね上げ、獲物を引きずり込む。その間、わずかコンマ数秒。
戦国時代の城にも「隠し門」や「武者隠し」があるだろう?
彼らは何万年も前から、その生存戦略を完成させていたのさ。
万福丸、今は隠れ潜む時だ。だが、ただ隠れるのではない。
トタテグモのように、反撃の瞬間を見極めるための「静かなる牙」を研いでおくんだよ。
(昭和初期の昆虫研究家・時任)




