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第六話 遠藤喜三郎

 城の裏手、寂れた訓練場。万福丸は、一歩進むごとに意識を削られるような疲労の中にいた。鉛のように重い足を引きずりながら。

『……あのトビズムカデから作った「切り札」が, いつかお前の命を救うかもしれないんだ。……万福丸、しっかりしろ。竹筒の底がようやく埋まった程度だぞ。これではまだ全然足りない。もっと集めて量を増やすんだ』

(……わかっておる。だが、わし一人では、もう限界だ。虫を捕るのも、泥を這うのも……。わしの代わりに動く「手足」が、どうしても要る……)


 万福丸たちは、毒にも薬にもならぬ軽口を叩き合いながら、品定めするように城内を巡っていた。


『――いないな。もう、めぼしい名前は残ってない』

 脳内で、時任の退屈そうな声が響く。

『藤堂高虎は例外中の例外だ。あとの連中は、歴史の荒波に消えていく名もなき雑兵ばかり。お前、いつまでこんなところで油を売ってるんだ。……いいか、父も母も妹たちも、この城と運命を共にするのが歴史だ。お前一人が生き残るための道を、さっさと固めろよ』


(……おぬしの知る「歴史」とやらは、いささか血が通っておらぬな、時任)


 万福丸は足を止めた。時任が「価値がない」と断じる場所で、一人の若い兵の姿に目が釘付けになったからだ。

 そこには、統率も美しさもないが、ただ泥を跳ね上げ、自らの体を壊さんばかりに槍を振り回す一人の青年がいた。


『……なんだ、あれ。ただの無鉄砲な若手だぞ。あんなの戦場に出たら一分で死ぬ。時間の無駄だ, 万福丸』


(いや、時任。おぬしには聞こえぬか? あの男の槍が、泣いておるわ)


『はあ? 槍が泣く? ……やめろ、万福丸。俺は、ああいう奴が大嫌いなんだ』

 時任の声が、ふいに嫌悪と怒りに満ちた冷たいものに変わった。

『あいつの目は、昭和二十年に特攻機に乗っていった連中と同じだ。「立派に死ぬこと」しか頭にない、哀れな働き蜂だ。主君という女王蜂のために、自ら進んで針を刺し、腹を引きちぎって死ぬ。……命を捨てることを美化する「名誉の戦死」という病に冒された奴に、俺たちの声は届かない。関わるだけ無駄だ』


 万福丸は時任の静止を無視し、槍の旋風の中へと歩み寄った。


「おぬし」


 鋭い突きが、万福丸の喉元数寸で止まる。猛烈な風圧が幼い頬を撫でた。

 槍を構えていた青年――遠藤喜三郎は、相手が万福丸だと気づくや否や、慌てて槍を引き、その場に膝をついた。


「こ、これは……若様! このような殺風景な場所に、何用でございますか!」

 息を切らし、泥まみれになりながらも、その礼節は微塵も揺るがない。


「気にするな。……名は」

それがし、遠藤喜三郎にございます」

「遠藤……。姉川で信長の本陣へ単騎斬り込み、壮絶に散った猛将・遠藤直経の御子息か」


 喜三郎の肩が、びくりと跳ねた。

「……は。父は、信長の首まであと一歩のところで力尽きました。浅井の家臣として、これ以上の誇りはございませぬ。某もまた、父のように……この命を盾とし、浅井の滅亡を飾る一太刀となる所存にて!」


「父のように、あと一歩で討たれ、無惨なむくろになりたいか」


 万福丸の冷徹な言葉に、喜三郎が息を呑む。

「……っ、それが武士の筋目! 散り際こそが、誠の忠義にて!」


『ほら見ろ、言った通りだろ。頭で考えない死にたがりだ。さっさと高虎のところへ戻ろうぜ』

 時任が吐き捨てるように言う。


(案ずるな、時任。こやつは死に恋うておるのではない。偉大すぎる父の背中に届かぬ、己の弱さに怯えておるだけだ)

 万福丸は、喜三郎を見下ろしたまま、一歩前に出た。


「筋目など、わしが踏み潰してやる」

 九歳の童から発せられたとは思えぬ、地を這うような重い声だった。


「わしは逃げる。泥をすすり、生恥をさらしてでもな。父上が届かなかったあの一歩……ここで死んでしまえば、そこで終わりだ。喜三郎、わしと共に地獄を歩め。いつか奴の喉元を食い破るその日まで、死ぬことは絶対に許さぬ」


 喜三郎の呼吸が、止まった。

 万福丸の瞳には、死を受け入れた者だけが持つ、業火のような執念が渦巻いている。


「喜三郎。このまま忠義の骸として美しく腐るか。それとも、わしと共に汚名を被り、その先に待つ本物の勝利を掴み取るか。……どちらが父上への、誠の報いになると思う?」


 沈黙。喜三郎の泥まみれの拳が、わななき、震える。

 やがて、彼は決壊したように、その場に額を激しく擦りつけた。


「……っ! 若様……! おお、なんという御覚悟……!」

 喜三郎の声は、嗚咽に近い感嘆に満ちていた。

「この喜三郎の命、その日まで若様へお預け申す! いかなる卑怯な手、地を這うような汚れ仕事であろうとも、若様の高潔なる御手を汚さぬよう、この喜三郎がすべて引き受けましょうぞ!」


 喜三郎が、涙と鼻水を垂らしながら平伏する。

 その言葉を聞いた瞬間、万福丸の内心で、歓喜の爆発が起きた。


(……言ったな、喜三郎! 「いかなる汚れ仕事でも引き受ける」と、確かに言ったな!)

 万福丸は、表向きは慈愛に満ちた威厳ある顔を作りながら、心の中で狂喜乱舞していた。

(これで勝った! 藤堂高虎のような理屈っぽい男に「素手でムカデを集めろ」などと命じれば、呆れて逃げられるかもしれぬ。だが、この盲目的な喜三郎ならば文句一つ言わずやるはずだ! 明日から忌まわしいオオスズメバチの巣の解体も、便所の裏に潜む毒虫の捕獲も、すべてこやつに丸投げできるぞ! もうわしが鳥肌を立てて虫を触る必要はないのだ!)


「よい。頼むぞ、喜三郎」

 万福丸は、あふれんばかりの安堵と喜悦を押し隠し、鷹揚に頷いてその場を後にした。


『――一人は利で動かし、一人は情で動かす、か。お前、歴史に残ってない男を拾ったと思ったら、とんでもない盲信者を手に入れたな』

 時任が、呆れ混じりの溜息をつく。

『でもな、万福丸。あんな熱血漢を拾ってどうする。俺が言いたいのは、お前一人が生き残るための……』


(わかっておる。だが、わしは一人で逃げるなどと言っておらぬ)


『……おい。まさか、本気で全員連れていくつもりか? 確率はゼロだぞ』


(ゼロを塗り替えるために、わしは動いておるのだ。……時任、見ておれ。歴史とやらを、ひっくり返してやるわ)


 冷徹な実務家・高虎と、猛進する忠臣・喜三郎。

 水と油の二つの刃、そして何より「最強の物理的虫取り網」を手に、万福丸は落城の足音が迫る小谷城で、密かに生存の網を広げ始めた。



【時任昆虫教室:其の五 ― 黒鉄の結束、クロオオアリ ―】


万福丸、一匹では非力な彼らが、なぜこれほど強固な帝国を築けると思う?

日本最大のアリ、クロオオアリだ。彼らの真の武器は、個の力ではなく「組織」そのものなんだよ。


彼らはフェロモンという目に見えない「伝令」を使い、瞬時に情報を共有する。

外敵が来れば死を恐れず群がって食い止め、獲物を見つければ一糸乱れぬ連携で巣へと運び去る。個体よりも「巣(全体)」の存続を最優先する、究極の軍隊だね。


戦国の大名たちが夢見た「理想の家臣団」の姿が、この足元の黒い列にある。

どんなに高貴な血を引く将でも、孤独では戦えない。


万福丸、君もいつか、このアリたちのような揺るぎない結束を持つ「巣」を作らなければならない日が来るだろう。その時は、彼らの献身と規律を思い出すといい。


(昭和初期の昆虫研究家・時任)


明日は、父上の長政殿が登場します。


ブックマーク、評価を既にして頂いた方、本当に本当に、ありがとうござました!!

おかげで、執筆の熱が上がり、無事に第二章も書き上がりました。目に見える応援が、この週末の四話投稿に至った次第です。

そして、本日ブックマークしていただいた方、お陰様で日間ランキング95位に踏みとどまることが出来ました!

重ねて御礼申し上げるとともに、今後のご支援、宜しくお願いします。


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