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第四話 無駄な足掻き

 天正元年(一五七三年)八月――。

 七月に「元亀」から「天正」へと改元されたが、それは平和の訪れではなく、凄惨な終わりの合図だった。

 越前の朝倉家が織田信長の手によって瞬く間に壊滅し、牙を剥いた織田の大軍がいま、小谷城を完全に包囲しようとしていた。


 万福丸は、城の裏手にそびえる断崖絶壁にいた。

 道とは呼べぬ、獣さえ躊躇ためらうような急斜面。九歳の子供が一人で歩くには、あまりに死が近すぎる場所だ。だが、今の万福丸にとって、滑落の恐怖よりも手元の恐怖の方がはるかに勝っていた。


「ひぃぃっ……! なぜ、なぜあんな禍々しい赤黒い虫を、生け捕りにせねばならんのだ!」

 万福丸は木の枝を箸のように使い、身をよじって暴れる巨大なトビズムカデと格闘していた。無数の脚が波打ち、猛毒を持つ顎が空を切る。全身の産毛が総毛立ち、涙が滲んだ。

『馬鹿、もっと優しく掴め! 潰すなと言っているだろうが!』

 脳内で、時任の容赦ない怒声が響く。

『いいか、その顎肢がくしから分泌される毒液にはヒスタミンやセロトニンが含まれている。これを生きたまま抽出し、ハシリドコロの根から採取したアルカロイド成分と特定の比率で調合する。熱を加えずに遠心分離の要領で不純物を飛ばせば、中枢神経を一時的に麻痺させる強力な局所麻酔薬と強心剤になるんだ。この時代の粗悪な気付け薬とは次元が違う。俺たちが負傷した時、あるいは死んだふりをして追手をやり過ごす時の命綱になるんだぞ! 抽出の際の酵素結合のプロセスは――』


 ――どきゅんっ!!

「……っ、がぁっ!?」

 万福丸の視界が白く飛び、胃袋が裏返るような猛烈な飢餓感が襲いかかった。戦国時代には存在しない、高度な生化学反応と医療技術のロジック。それを脳に強制的に叩き込まれた代償――『オーバーヒート』による急激な糖分の枯渇だった。

 万福丸は膝から崩れ落ち、泥の上に四つん這いになって荒い息を吐いた。

「はぁっ、はぁ……っ! 腹が……胃が溶ける……!」

『おっと、すまん。つい熱が入った。だが知識は定着したはずだ。……よし、毒腺は取れたな。残ったムカデの胴体は良質なタンパク質の塊だ。火で炙って食え。カロリーの足しになる』

「ふざけるな! 誰がこんなゲテモノを食うか! 餓死した方がマシだ!」

 万福丸は涙声で絶叫し、動かなくなったムカデの残骸を谷底へ蹴り落とした。

 未来を知ったあの日から三ヶ月、万福丸は毎日こうして城の裏山へ入り、時任のスパルタ指導の下で地獄のような「素材集め」と「地形調査」を強要されていた。


『……やれやれ、相変わらず燃費の悪い我儘なガキだ。ほら、立ち上がれ。まだ地形の把握が終わっていないぞ』

 時任はため息をつき、万福丸の視覚を通して断崖を観察し始めた。

『あの岩の隙間を見ろ。トタテグモの巣がある。そしてその上にはクロオオアリの行列だ。あいつらは湿気を嫌い、絶対に水没せず、地盤が崩れない強固な場所にしか巣を作らない。つまり、あの虫たちがいるラインを辿れば、大雨が降ろうが絶対に崩落しない安全な「見えない道」が浮かび上がる。……虫は、神が遣わした最高の測量士だ』


 万福丸は鳥肌を立てながらも、懐から取り出した布切れに、泥でそのルートを書き留めた。

 かつては無謀な崖登りを繰り返し、なんとか目印の杭を打てないかと考えていた。だが、時任の「虫の生態学」は、九歳の子供の非力さを完全に補い、絶対に安全な脱出ルートを確実にあぶり出していく。忌まわしい虫たちが、自分を生き残らせる道しるべになっている事実は、万福丸にとって屈辱的でありながらも、確かな希望だった。


『……しかし、三ヶ月だぞ』

 脳内で、時任の声がふいに冷ややかなトーンに変わった。

『お前は毎日こうして泥を這いずり回り、逃走経路を地図に書き込んでいる。だが、現実を見ろ。ふもとは既に、織田の軍勢で埋め尽くされている。……浅井長政が、逃げると思うか?』

 万福丸の泥にまみれた手が、ぴたりと止まった。

『あの男は、家臣を置いて退くことはしない。誇りを捨てて泥をすする道を選ばない。最期まで「浅井の当主」として死ぬ道を選ぶ。それがお前の知る、救いようがないほどに誇り高い父親の姿だろ。違うか?』

「……父上は、そうだろうな。武士もののふとしては、それが正解なのだろう」

『なら、お前の足掻きは何なんだ。結局、山に逃げても追手からは逃げ切れない。まだ織田に降伏した方が、女たちの命は繋がるぞ』


「それは、“守る”とは言わぬ」

 万福丸は顔を上げ、時任の気配を睨みつけた。

「信長の情けにすがり、檻の中で生かされるのが浅井の再興か? 違う。わしがやりたいのは、運命そのものを、おぬしの知識ごと奪い取ることだ」

『……これだから「身内への情」ってやつは厄介だ。生き残るための判断を鈍らせるだけだろ』

「判断が鈍って結構。何もせず殺されるのを待つよりは、よほど美味い飯が食える」


 ふもとから、地響きのようなときの声が聞こえてくる。

 城内へ戻った万福丸は、異様な光景を目にした。

 もはや「訓練」などという悠長なものではない。迫りくる落城を前に、死を覚悟した兵たちが、狂気じみた形相で槍を振るい、防壁の土嚢を積み上げている。

 その、熱病のような喧騒の中で。

 時任の意識が、一人の男に強く「吸い寄せられた」。


(……待て。なんだ、あいつ)

 万福丸の視界が、一人の長身の足軽に固定される。

 一九〇センチメートル近い巨躯きょく。だが目を引いたのは体格ではない。周囲の兵たちが絶望や狂気に顔を歪める中、その男だけが、ひどく冷めた目で周囲を観察していた。土を運ぶ動きに一切の無駄がなく、常に自分を囲む兵の位置、逃げ道、そして壁の強度を計算している。彼は「死に場所」を探しているのではない。「生き残るための抜け道」を探しているのだ。


『……藤堂、高虎?』

 時任の記憶の底から、ぽつりと名が浮上した。

「何だ、おぬし。知り合いか?」

『いや……俺の受験知識によれば、あいつは確か浅井家の家臣だったはず。この浅井家が滅んだ後、主君を七回も変えながら生き延び、やがて「築城の名手」として天下に名を馳せる男だ。』

 時任のファン心理が、かすかな興奮となって脳内を駆け巡る。

『あの目は、ただの足軽の目じゃない。あいつも、この城の「終わり」を完全に確信している。だが絶望していない。どうやって生き延びるか、その一点だけを見ている目だ』


「藤堂、高虎……」

 万福丸は、その名を舌の上で転がした。

 浅井の忠義に殉じて死ぬ者たちの中で、一人だけ「生き残る」ことを冷徹に計算している男。

「面白い。わしと同じ種類の人間が、あんなところにいたとはな」

『……関わる気か? お前は一応「若君」だぞ。こんな混乱の中で雑兵一人に構ってたら、不自然すぎて目立つだけだ』

「今はよい。顔と目を覚えただけで十分だ」

 万福丸はふいと視線を外し、再び歩き出した。空腹で足元はふらついていたが、その表情には微かな笑みが浮かんでいた。

「時任、おぬしは『無駄だ』と言ったが……案外、歴史というやつも捨てたものではないな。あのような男が生き残れるなら、わしが生き延びる道も、どこかに落ちているはずだ」

『……ハッ。勝手にしろ。お前のその「無駄な足掻き」が、どこまで俺の知識を裏切るか……少しだけ見ておいてやる』


 夕日に染まる小谷城。

 滅びの足音は、すぐそこまで迫っている。だが、泥にまみれた万福丸の瞳には、三ヶ月前にはなかった「獲物を狙う獣」のような光が宿っていた。


【時任昆虫教室:其の三 ― 猛毒の這う凶器、トビズムカデ ―】


万福丸、よく見ておくんだ。この赤い頭に黄色い脚、漆黒の体……。

日本最大のムカデ、トビズムカデだ。美しいだろう?


こいつの恐ろしさは、その「攻撃性」にある。

視力はほとんどないが、触覚で獲物を察知した瞬間に爆発的なスピードで襲いかかる。顎(大顎)のように見えるのは実は「脚」が変化したもので、強力な神経毒を流し込む「毒爪」なんだ。

噛まれれば激痛とともに腫れ上がり、昭和の私の時代でも恐れられている。

だが面白いことに、戦国時代の武士たちはこの「決して後ろに退かない(不退転)」性質を愛し、兜の立物や旗印に好んで使ったというね。


敵を麻痺させ、恐怖で縛り付ける……。

万福丸、君がこの毒を手にするなら、使い道を誤ってはいけないよ。


(昭和初期の昆虫研究家・時任)


作者よりお願いです。

登場人物の情報や万福丸の身体的代償などの補足説明をしたいと思っているのですが、時任が万福丸の為、昆虫教室が優先だと言い張ります。ゆくゆくは、説明の場は設けます。

『時任の昆虫知識が面白い!』と少しでも思っていただける少数派の方、是非下の【☆☆☆☆☆】や【ブックマーク】で応援をいただけると、執筆の大きな励みになります。

明日、明後日は12時10分と20時10分の二回更新(合計四話)で一気に物語が加速します!

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