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戦国昆虫戦記【泥中羽化】~名は「まんぷく」知識の代償は「はらぺこ」~  作者: つんしー
第一章 小谷の春と落日

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第一話 春の気配

元亀四年(一五七三年)二月――春の気配。


小谷城の一室に、やわらかな陽が差し込んでいた。障子越しの光は淡く、風は冷たさを残しながらも、かすかに季節の移ろいを感じさせる。


「茶々姉上、待ってくださいませ!」

鈴を転がすような声を上げて、初が廊下を小走りに駆ける。その先では、茶々が振り返り、得意げに顎を上げた。

「遅いぞ、初! それでは敵に追いつけぬぞ!」

「敵ではございません……! それに、姉上が速すぎるのです!」

頬をふくらませて抗議する妹たちの様子に、万福丸は柱にもたれ、思わず口元を緩めた。


(平和だな)

心の底から、そう思う。長男として、浅井の世継ぎとして、この他愛のない日常と家族の笑顔こそが、自分の守るべき世界のすべてだった。


だがその時、万福丸の視界の端で、何かがカサリと動いた。

畳の縁、日陰になった柱の根元。そこに、季節外れの暖かさに目を覚ましたのか、手のひらほどもある巨大な蜘蛛が這っていた。黒々とした長い脚が、不気味に蠢いている。


(で、出た……っ!)

万福丸は、全身の毛穴という毛穴が粟立つのを感じた。悲鳴を上げそうになる喉を、すんでのところで引き結ぶ。

虫だ。この世で最も忌まわしく、恐ろしい生き物。悪鬼羅刹の類よりもよほど恐ろしい。だが、妹たちの前で、九歳とはいえ若君たる自分が、たかが虫けら一匹に取り乱すわけにはいかない。

万福丸は必死に表情を取り繕い、蜘蛛から目を逸らそうとした。


――その瞬間だった。


(――ほう。アシダカグモだな。見事な個体だ)

 頭の奥底から、突如として見知らぬ男の声が響いた。


(な、なんだ!?)

万福丸は弾かれたように周囲を見渡すが、部屋には無邪気な妹たちしかいない。


(おい、目を逸らすな。よく観察しろ。あの脚の筋肉の付き方、実に合理的だ。厳密には昆虫ではないが、この時代の自然環境が育む生物相の豊かさには驚かされる。帝大の標本室にもここまでの代物はないぞ。……万福丸とやら、いざという時はあれも貴重なタンパク源になる。捕まえて脚の節を――)


(黙れ! 蜘蛛の怨霊か、気味が悪い!)

万福丸は虚空を睨みつけ、脳内で吠えた。


ここ数日、疲労のせいか変な幻聴が聞こえるとは思っていたが、ついに虫の怨霊まで取り憑いたのか。それに「たんぱくげん」とはなんだ。あんな恐ろしい生き物を食えとでも言うのか。正気の沙汰ではない。

万福丸は必死に耳を塞ぎ、その酷く理屈っぽく、やかましい「雑音」を脳内から締め出そうとやせ我慢を続けた。


すると突然、万福丸の腹の底から「ぐきゅるるるるぅ!」と、雷鳴のような凄まじい音が鳴り響いた。

「……え?」

初が目を丸くして立ち止まる。


万福丸は顔から火が出るかと思った。先ほど朝餉あさげを平らげたばかりだというのに、数日飲まず食わずだったかのような、猛烈な飢餓感と立ち眩みが襲ってきたのだ。


自分では気づきようもないが、未知の知識(タンパク源といった概念)を強制的に処理させられた代償として、万福丸の脳が異常な量の糖分を消費した結果だった。


「まあ兄上! まだお昼前ですのに、もう腹の虫を鳴らしておいでですか!」

茶々が吹き出し、初もつられてくすくすと笑い出す。


「ち、違う! これは……その、育ち盛りゆえだ! わしは浅井の跡取りだからな、腹も人一倍減るのだ!」

冷や汗を流しながら強がる万福丸。


「万福丸」

不意に名を呼ばれ、顔を上げる。襖の先に、母・お市が立っていた。

ただそこにいるだけで、場の空気が整うような圧倒的な美しさ。その姿を見た瞬間、先ほどまで頭の中でやかましくさえずっていた「虫の怨霊」の声が、息を呑むような気配と共に、ぴたりと止んだ。


(……消えたか。やはり、ただの幻聴よ)

万福丸はわざとらしく肩をすくめてみせた。


「いやあ、相変わらずお美しいことで。織田の伯父上も、母上の顔を見れば攻め入るのを忘れるやもしれませぬな」


「まあ、口の減らぬこと」

くすり、とお市が笑う。


腕の中では、幼い江が静かに眠っていた。万福丸がそっと指を差し出すと、その小さな手がきゅっと掴んだ。

「……離しませぬな。これはもう、将来はわしの家臣にするしかありますまい」


「その頃には万福丸が家臣になっているのでは?」


「それはそれで楽そうですな。わしは戦より、日向ぼっこの方が性に合っておる」

ふ、と笑いがこぼれる。万福丸は江の顔を覗き込み、深く頷いた。


「……この子は大物になりますな。この騒ぎで起きぬ。わしなら三度は飛び起きております」


「それは万福丸が慎重すぎるだけでは?」


「臆病と申さぬあたり、母上の慈悲を感じますな」


お市は声を立てずに笑い、江の頭を優しく撫でた。その仕草を見て、万福丸は目を細める。

お市が浅井に嫁いで九年。世間では自分の出自についてあれこれ言う者もいるようだが、万福丸にとってはどうでもいいことだった。熱を出した夜に自分を抱き上げた腕の温もり。名を呼ぶ声音。

――母だ。それで十分だと、万福丸は思っている。


茶々が駆け寄り、その後ろから初も追いつく。

「見ておりましたか! わらわの勝ちでございます!」

「まだ勝っておりません!」


万福丸は努めて明るく、腕を組んで頷いた。

「ほう、ではこうしよう。ここは一つ、軍を分けて戦うとするか。母上を奪い合うもよし、江を味方につけるもよし。……ただし、江は起きてからにせよ」


一瞬の静けさ。

そして――「ふふっ」とお市が笑い、茶々も、初も、つられて笑い出した。


小谷の春は、確かにここにあった。


だが、遠く、城の外。春の気配の向こうに、まだ冷たい冬の風が吹いている気がした。

頭の奥底で、まだ見ぬ滅びの足音が、静かに、しかし確実に近づいていた。


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