第二十三話 無菌蛆治療(マゴットセラピー)の奇跡
天正元年(一五七三年)十月。
肥溜めの発酵と蛆の増殖が軌道に乗り始めた頃、万福丸たちのいる粗末な小屋に、冴衣が血相を変えて飛び込んできた。いつもの人を食ったような、打算的な態度は微塵もない。
「……頼む! あんたのその得体の知れない術で、六助を……助けてやってくれ!」
泥まみれの床に膝をつき、冴衣は万福丸に深く頭を下げた。六助とは彼女の幼馴染であり、先の小競り合いで脚を深く斬られ、破傷風と腐敗で今まさに命を落とそうとしているのだという。
無礼な振る舞いに高虎が刀へ手を掛けるが、万福丸はそれを静かに手で制した。
「……案内いたせ」
万福丸は一切の嘲笑を見せず、ただ王としての静かな威圧をもって立ち上がった。
湿った死臭が、狭い小屋の中に充満していた。
六助の脚はどす黒く膨れ上がり、周囲の肉は腐り落ち、膿が絶え間なく溢れ出している。母親は寝床の傍らで絶望の淵に沈み、泣き崩れていた。
万福丸は無言で六助の傷口を見下ろし、その凄惨な状況を瞳に焼き付ける。
(……時任。助かるか?)
――「ギリギリだ。今の甲賀にある薬草じゃ確実に死ぬ。……アレをやるぞ、万福丸」
万福丸は短く息を吐くと、母親に向けて静かに、だが力強く言い放った。
「……死の淵にしがみついてでも、刻を稼げ。わしが、破魔の矢を創って戻る」
呆然とする母親と冴衣を残し、万福丸は翻るように小屋を後にした。
自分たちの粗末な拠点に戻るなり、万福丸は高虎と喜三郎に向かって鋭く命じた。
「……食い物だ。なんでもいい、すぐに腹に入るものを山ほど集めてこい。急げ」
ただならぬ気配に、高虎が即座に山中を駆け回り、極太の自然薯を何本も掘り出し、さらには里の者から強引に巻き上げた粟や鶏の卵をごっそりと抱えて戻ってきた。喜三郎が急いで自然薯の泥を洗い落として叩き割り、粟と卵と共に鍋へ放り込み、強火で煮立てていく。
万福丸は火の前に座り込み、深く息を吸い込んだ。
(……時任。講義を始めよ)
――「いいか万福丸。ただの蛆じゃ駄目だ。目に見えぬ『雑菌』を殺す。火酒のアルコールと梅酢の酸で……」
脳内で時任の容赦ない帝国大学レベルの講義が始まると同時に、万福丸は煮え滾る雑炊を獣のように胃へ流し込み始めた。凄まじい速度で熱量を消費しながら、万福丸は時任の授ける『細菌学』という未知の理を必死に脳へ定着させていく。
やがて講義が終わると、万福丸は空になった椀を置き、口の周りを乱暴に拭ってから、待機していた二人に再び命じた。
「……火がつくほど強い酒(火酒)と、梅酢、そして念入りに煮沸した壺と、真新しい獣肉を……用意いたせ」
そこからの三、四日間は、万福丸にとって己の生理的嫌悪との凄惨な闘いであった。
獣肉にハエが卵を産み付けるのを待ち、産み落とされた極小の卵を、集めさせた火酒と梅酢で一つ残らず洗い清め、煮沸した壺の中へと移していく。
(――ひぃぃッ! 気持ち悪い、手が、虫の卵で……ッ!)
――「文句を言うな! 潰さないようにもっと優しく扱え! 卵が孵るまで二、三日だ。その間、六助の母親には、膿を出し切っておけと伝えておけよ!」
(うるさい!伝えておけば良いんだろう!」
内心で時任に悪態をつき、涙目で鳥肌を立てながらも、万福丸の外面は「己の身を削って不浄の秘術を操る王」そのものであった。
少し離れた場所で、高虎はその姿を冷徹な目で見つめていた。
(……先日の凄まじい飢餓は、神仏か悪鬼を下ろすための代償か。若様は顔を青ざめさせながらも、冴衣の幼馴染ごときを救うための『理』を紡いでおられる……)
その光景を、小屋の隙間から息を殺して覗き込む影があった。狂気か、それとも――。影の落とす鋭い視線だけが、不浄を清める稚児の手元へ静かに注がれていた。
数日後。万福丸は再び六助の小屋を訪れた。
その手には、火酒と梅酢で徹底的に消毒・洗浄された環境で孵り、真っ白に肥え太った無菌の蛆が入った竹筒が握られている。蓋を開け、ツンとした強い酒と酸っぱい梅酢の匂いが小屋の死臭を切り裂く中、万福丸は無言で筒の中に手を突っ込んだ。
引き抜かれた指先には、蠢く真っ白な蛆が一掴み握り込まれている。そのまま六助の傷口へ腕を伸ばした、その瞬間だった。
「ああ……ッ! なんということを……! 傷口に、虫を……寄らないでおくれッ!」
母親が悲鳴を上げ、六助を庇うように覆い被さる。万福丸が立ち止まったその時だった。
「おばさん、退いて!」
母親の肩を掴み、無理やり引き剥がしたのは、他でもない冴衣だった。
「……こいつのやることは、間違いないから! 六助が死んでもいいのかい!」
冴衣の悲痛な叫びと、万福丸の凄絶な瞳に射すくめられ、母親は呆然と後ずさる。万福丸は迷わず、一掴みの白い蠢きを、六助の腐った傷口に直接置いた。
「……これで、死の色が消える。……耐えよ、六助」
さらに三日後。
小屋を開けた瞬間、漂っていたはずの死臭が完全に消えていた。六助の脚から腐肉は消失し、鮮やかな、生命を感じさせる赤みが戻っている。
「……ああ、有難うございます……!」
母親と六助が、泥の床に額を擦りつけるようにして万福丸に平伏し、号泣した。冴衣は部屋の隅で、万福丸という存在の「底知れなさ」と「救済の力」に深い畏怖を抱き、言葉を失っていた。
「……これ、……食べてください」
母親が、震える手で差し出したのは、精一杯の「粟の粥」だった。
万福丸はそれを受け取り――ふと、その動きを完全に停止させた。
器の中には、水分を吸って黄色く膨張した粟の粒が無数にひしめき合っている。この数日間、己の精神を削りながら見つめ続けた「真っ白に肥え太ったアレ」と、視覚的に完全に一致していた。
(――ひっ……!?)
――「ふっ。見事なまでに蛆にそっくりだな。良質なタンパク源だと思って食え、万福丸」
(……黙れ時任! わしに、その言葉を、二度と……ッ!)
万福丸は目を固く閉じ、蒼白な顔のまま、震える手で粥をかき込んだ。粟の粒が舌に触れるたび、言い知れぬおぞましさに大粒の涙がボロボロとこぼれ落ちる。
「……喜三郎。この粥は、旨いな」
「は、ははっ! 若様……! 民の真心を想い、涙を流して召し上がられるとは……!」
喜三郎は、若様が貧しい粥に感動しているのだと激しく勘違いし、鼻をすすって号泣した。高虎は、そんな主君の姿を静かに見つめ、(己の感情すらも制圧し、あらゆる糧を呑み込むか……)と一人で戦慄していた。
不浄の医術がもたらした奇跡は、浅井の嫡男が、この地で根を張るための小さくも確かな一歩となった。
【時任昆虫教室:其の十一 ― 死を食らい生を紡ぐ、白い分解者(蛆) ―】
万福丸、その肥溜めの臭気に鼻を覆うな。傷口の腐肉に目を背けるな。お前の手の中にあるその「蠢く白」こそが、停滞した世界を再び回し始める、自然界最強の「掃除屋」にして「執刀医」なのだ。
• 循環の理(分解者・デコンポーザー):
こいつらの本質は「死を生へ還す」圧倒的な分解力にある。人や獣が捨て去った糞尿や腐肉を、猛烈な速度で液状化し、自らの血肉へと組み替える。昭和の生態学においても、彼らがいなければ大地は不浄の山で窒息していただろう。汚物を「肥料」と「動物性タンパク」に変える、泥底の錬金術師だ。
• 医術の理:
その凄まじい分解能力は、時に奇跡を呼ぶ。火酒と梅酢で清められた「無菌」の個体は、生きた組織を傷つけず、壊死した腐肉だけを正確に啜り尽くす。抗生物質なきこの時代、敗血症という死の淵から四肢を繋ぎ止める、精密にして冷徹な「白い外科医」だ。
• 浄化の理:
奴らの排泄物には強力な殺菌成分が含まれている。肥溜めでは腐敗を「発酵」へ導き、傷口では目に見えぬ「悪鬼(雑菌)」を駆逐する。不浄の象徴が生命の守護者へと反転する……これぞ博物学の極致だ。
汚物を恐れる者は、その恩恵を授かれぬ。泥を捏ね、彼らを飼い慣らせ。死を食らい、生を紡ぐ。その「分解」の先にこそ、お前が築くべき「万福の世」が待っているのだからな。
(昭和初期の昆虫研究家・時任)




