第二話 時任(ときとう)
元亀四年(一五七三年)五月――。
二月の小谷城に春の気配が訪れてから三ヶ月。季節は初夏へと移ろい、城内にはむせ返るような青葉の匂いが満ちていた。
そしてこの三ヶ月は、万福丸にとって「地獄のような同居生活」の始まりでもあった。
「兄上、また甘味を買い食いしたのですか。口の端に粉がついておりますよ」
初の鋭い指摘に、万福丸は当然のような顔で茶を啜った。
「失礼な。これは『毒見』だ。領内の菓子に不純なものが混じっておらぬか、わしが身を挺して確かめておるのだ」
「全部食べてしまったら、毒があってもなくても私たちの分がないではありませんか!」
「案ずるな。初には後で別の物を用意してやる」
万福丸はケラケラと笑うが、その額にはうっすらと脂汗が浮かんでいた。
この三ヶ月、万福丸の食欲は異常なほど増していた。その原因は、己の脳内に棲みついた「やかましい同居人」にある。
『――おい万福丸、あそこの石垣を見ろ。見事なトビズムカデだ。この時期から活動を始める。あの赤と黒の警戒色、無駄のない多足の連動……まさに神が設計した究極の精密機械だ! 捕まえろ! すり潰して油に漬ければ立派な生薬にもなるぞ!』
頭の奥底で、狂喜乱舞する男の声が響く。
(だ、黙れ! 誰があんな禍々しい毒虫を触るか! 視界に入れるな、気味が悪い!)
万福丸は内心で絶叫し、全身に鳥肌を立てながら視線を逸らした。
陽気が暖かくなるにつれ、城内に虫の姿が増えた。それに比例して、脳内の声――自らを「帝国大学出身の昆虫研究家」と名乗る男のウザ絡みは激しさを増していた。
彼が高度な生物学のウンチクを垂れ流すたび、万福丸の脳は強制的にその未知の概念を処理させられる。具体的な戦術や技術の伝授ほどではないにせよ、結果として万福丸は、慢性的な空腹感に悩まされる羽目になっていたのだ。
『なんだその態度は。虫は皇国の資源だぞ! この未開な時代で生き抜くには、昆虫の有効利用こそが至上命題だというのに!』
(未開な時代で悪かったな! わしは浅井の若君だ、虫など食わずとも生きていける!)
そんな不毛な脳内論争を繰り広げている最中だった。
廊下の奥から、幼い江を抱いたお市が現れた。
初夏の陽光を背負ったその姿は、ただそこにいるだけで周囲の空気が整い、息を呑むような圧倒的な美しさを放っていた。
『……え……っ……』
万福丸の脳内で、やかましかった虫のウンチクが唐突に途切れた。
そして、一瞬の空白の後――。
『――うわ、……本物かよ。嘘だろ。綺麗、なんてレベルじゃない……っ!』
万福丸は、掴んでいた菓子を危うく落としそうになった。
「兄上? どうされました?」
初の問いかけが聞こえない。万福丸の視界の端で、脳内の同居人が絶句し、魂を抜かれたように呆けている気配が、生々しい感情として伝わってくる。
『……実在したんだ。戦国一の美女、お市の方……。帝大の入試問題で丸暗記しただけの歴史上の人物が、目の前で息をしてる。なんだこれ、教科書の記述なんざまるで当てにならないじゃないか。後光が差して見える……!』
先ほどの理屈っぽい学者の態度はどこへやら、ただのミーハーな男の興奮が脳内を駆け巡る。万福丸は、誰もいない空間を数秒間呆然と凝視し、それからわざとらしく鼻を鳴らした。
「……いや、なんでもない。あまりの美しさに、少し目が眩んだだけよ」
家臣たちは「若様がまた神仏と交信されている……」と畏怖の眼差しを向けるが、万福丸の内心はそれどころではなかった。
⸻
その夜。万福丸は一人、庭に出て夜風に当たっていた。
「……さて。今日は随分と浮かれておったではないか。ただの虫好きの変人かと思えば、美しい女には目がないと見える」
万福丸が静かにからかうと、脳の裏側から、少し気恥ずかしそうな、それでいて生真面目な咳払いが響いた。
『――……聞こえてたんだな。悪い、昼間は……その、ちょっと取り乱した。時任、だ。改めて名乗っておく。どうやら俺は、お前の脳内に縛り付けられた居候らしい』
「ほう、居候が堂々と名乗るか。で、その時任とやらが、わしの目を使って母上を覗き見て、勝手に興奮して騒ぎおって。……ただの不埒者ではないか」
『バカ言うな。俺だってこんな不自由な同居生活は望んでない。……ただ、圧倒されたんだ。俺は、お市の方様を知っている。「歴史」という知識としてな。俺は受験のために、この時代の日本の歴史を頭に叩き込んだ。浅井長政、お市の方、そして織田信長……。文字の羅列として知っていただけの存在が、圧倒的な現実として目の前に現れた。正直に言う。ただのファン心理で見惚れてた。歴史の重みに殴られたんだ』
『今度はちゃんと見るんだ。……いいか、俺は自分が死んだことを自覚している。だから初めは、ここが俺の死に際に見ている幻覚か、あるいは別の並行世界だと思っていた。だが、今日あの人を見た瞬間、俺の知る史実の記述と寸分違わぬ「圧倒的な現実」だと感じた』
「幻覚……? よく分からぬが、母上の美しさに魂を抜かれたということだな。やはり不埒者よ」
『違う! あの人は歴史に名を残す「特異点」だ。明日もう一度落ち着いて彼女を観察し、この世界が俺の知る「史実通りの一五七三年」だと、科学者として実証したい。俺の知識がこの世界で通用するかどうかの、最終確認だ。……これは、俺たちにとって死活問題だぞ』
万福丸は、空を見上げたまま、ゆっくりと目を細めた。
この「時任」という男は、単なる虫好きの変人というだけではないらしい。その脳内には、万福丸の知らない途方もない「ちしき」とやらが詰まっている。
「……よかろう。母上に会うくらい、造作もないこと。だが時任、約束しろ。次から虫の話をする時は、事前に断りを入れよ。不意打ちであのような気味の悪い想像をさせられると、わしは本当に倒れてしまう」
『……善処する。だが、お前もその「虫嫌い」という致命的な弱点をなんとかしろ。生存確率を下げるだけだぞ』
「うるさい。わしの勝手だ。……それに、明日の朝飯はいつもの倍、用意させねばならんな。おぬしが頭を動かすせいだからな」
『……悪いな、カロリー泥棒で。お前のその燃費の悪さ、なんとか克服してほしいんだがな』
「責任を取って、せいぜいその『ちしき』とやらで、わしの役に立てよ」
万福丸は不敵に笑い、空っぽになった腹を叩いた。
「泣いて死ぬより、笑って生きる。……よし時任、飯だ。明日のために、わしの血肉を蓄えておかねばならんからな」
この約束が、翌夜の残酷な「未来宣告」へと繋がることを、万福丸はまだ知らない。
初夏の夜風が、小谷の山を静かに撫でていった。
【時任昆虫教室:其の一 ― 家の守護神、アシダカグモ ―】
やあ、万福丸。戦国時代にもこいつはいたはずだ。
手のひらほどもある巨大な蜘蛛、アシダカグモだ。見た目は恐ろしいが、こいつは網を張らずに歩き回って獲物を狩る「徘徊性」の勇者なんだよ。
特筆すべきはその「狩り」の能力だ。
彼らの一番の好物はゴキブリでね。一晩で十数匹を仕留めることもある。家の中のゴキブリがいなくなると、彼らは自らその家を去っていく……まさに「去り際の美学」を持つ益虫なんだ。
戦国時代なら、兵糧を荒らす害虫を駆逐してくれる最高の同居人だっただろうな。
万福丸、見た目で判断してはいけないよ。異形の者が実は最大の味方になる……昆虫の世界ではよくあることなんだ。
(昭和初期の昆虫研究家・時任)
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