その8・ターニングポイント
「待ってくれ! この金で、その娘を買う!!」
そう言って、俺は全財産をぶちまけた。
緒菜穂を身請けする――と、叫んだ。
すると。
アンジェリーチカは、ほっとしたように笑い、そしてすぐに冷淡な表情に戻した。
それから努めて無感情に、アンジェリーチカはこう言った。
「それでは、テンショウを緒菜穂の身請け人とする」
この言葉に城門はどよめいた。
交易商は歩を止めた。
幌馬車に乗っていた緒菜穂が、振りむいた。
俺を視た。
緒菜穂は、ぱっと花が咲いたような笑みをした。
俺はどういうわけか喜びがこみ上げてきた。
一度だけ、たった一度だけ、たった一度会っただけの緒菜穂なのに。
俺は彼女のことをまるで知らないと言うのに。それなのに。
俺は彼女を救えたことを、心から神に感謝した。――
俺はひざまずき、天をあおいだ。
このとき、ようやく城門にあふれる人々を見た。
アンジェリーチカ、フランポワン、フランツ、それに見知った顔の貴族や従者たち。
みな穏やかな顔をしていた。
おそらく俺たちの事情は分かっていないが、なんとなく雰囲気から察して、そして祝福をしてくれているようだった。
「緒菜穂」
「ちゅ! ちゅちゅう!!」
俺は安堵のため息をついた。
と、そのとき。
「ちょっと待ちたまえッ!」
と、ひどく根性の悪い声がした。
アダマヒア王国第八公子・アハトだった。
「やあやあ、久しぶりだな男魔法使いのテンショウ君」
残忍な口元、邪悪な笑み。
すらっとして、トカゲのような顔のアハトは目を細めた。
そしてまるで演劇のようなオーバーアクションで、ここにいる者すべてに語りかけるように言った。
「今さらだけれども――。その人型モンスターの競売に僕も参加するッ! ああん、分かってる分かってるよ、諸君。上から被せるのには、3倍の額を提示するんだったよね。もちろん払うよ。テンショウ君の身請け金の3倍を僕は払うよ」
この言葉に、城門は騒然となった。
俺がしばし言葉を失ってると、アハトはこう続けた。
「ああん、テンショウ君。なんだねその顔は? うーん、その様子だと、どうあってもその人型モンスターを身請けしたいようだねえ? どうぞどうぞ。この競売は王族への気遣いはいっさい不要、魔法使いだろうと気を遣うことはない。そうそう。僕の提示額にィ! 上から被せてもらってェ! んん~、かまわないよォ~?」
と、アハトは挑発するように言った。
俺は、つばを呑みこむように頷いた。
するとアハトは、鼻で笑ってこう言った。
「テンショウ君。キミは今、『3倍ならなんとかなる』と思ったろう? 『誰かに借金でもすれば、保証人になってもらえれば』とキミは今、考えたのだろう? なにしろ最初に払った身請け金は、高額とはいえ、キミがほぼ1ヶ月で稼いだ金額だからね。3倍の3倍、イコール9倍の金額なら9ヶ月働けば払えるものなあ?」
俺が頷くと、アハトは残忍な笑みをした。
そして値踏みするように無遠慮な目で俺を見てから、こう言った。
「では、テンショウ君! 僕はキミの3倍の金額に、さらにデモニオンヒルの別荘をプラスしようじゃないか。んん~、それだけじゃないぞォ。聖遺物のコレクションも加える。身請け金にプラスするゥ!! ああん、ちなみにだがねえ、僕の聖遺物のコレクションはレプリカだけど銘品でね、ひとつひとつが、そうだなキミの稼ぎの1年分くらいになるんじゃないかなあ?」
「そっ、それが」
「さあ、どれくらいあるか数えてないけれど、キミの稼ぎじゃ10年20年じゃ届かないんじゃないかあ?」
「そんな」
「そんな金額の3倍を、キミは払えるかい? もし、払えなかったらあの人型モンスターは僕が身請けするけれど」
そう言って、アハトは根性の悪い笑みをした。
「お義兄さま!?」
アンジェリーチカが詰め寄ると、アハトは、おどけて肩をすぼめた。
そして俺をじろりと睨んだ。
俺を指差した。困ったように眉を歪ませてから、アハトは言った。
「といっても、テンショウ君。僕はキミが思っているほど冷徹な男ではないし、それにね、少々オトナゲないことをしているのは、まあ、自覚しているよ。だから、テンショウ君。こうしようじゃないか」
と、アハトは言って目を細めた。
それから、こうつけ加えた。
「そこに土下座してお願いしなよ。そしてそうだな、昨晩食べ残した肉がまだ厨房に残っているんじゃないかな? それを持ってこさせるからさ、目の前で食べてもうおうか。そうしたら僕は、身請けから手を引くよ」
この言葉に貴族たちは悲鳴にも似た声をあげた。
俺の心中では、怒りと屈辱が複雑にからみあった。
激しい感情がこみあげてきた。
瞳が、憎しみの炎で熱くなった。
アハトを見ると、彼はおどけて大げさに怯えた。
その横ではアンジェリーチカが絶句して、胸のネックレスをいじっていた。
フランポワンが泣き出しそうな顔をしていた。
貴族たちは気の毒そうな顔をしていたけれど、しかし瞳を好奇で輝かせていた。
そして。
テンショウ君! ――と、フランツが瞳に力を込めて、ゆっくり頷いた。
俺は、その瞳から彼の言いたいことを読み取った。
フランツの目はこう告げていた……――。
テンショウ君。
これは、すべて茶番だ。
アハトのメンツを立てるための茶番なのだ。
アハトは、そもそもその娘に興味はない。
キミからその娘を奪う気はない。
むしろ、キミにその娘を与えたいと思っている。
キミとそのモンスターの娘はお似合いだと、アハトは笑いたいんだよ。
だからここはオトナになって負けてやれ。
食べ残しの肉を食べてやれ。
ひとくち、かじるだけで良いんだ。
そうすればアハトは満足する。
喜んで身請けから手を引くだろう――……と。
「それはっ、それは」
俺だって分かっている。
分かっているけれど、俺はこぶしを握りしめ、くやしさを呑みこんでうつむいた。
その姿勢のまま、残飯が運ばれてくるのを待った。
緒菜穂は、そんな俺たちのやり取りを、きょとんとしたまま見ていた。
よく分かっていないようだった。
でも、俺には彼女が状況を理解していないことがありがたかった。
城門は静まり返り。
数分とも数時間とも感じられる時がすぎた。
そして残飯が俺の眼前に置かれた。
「テンショウくぅ~ん?」
このアハトの嘲笑に応えるように、俺は残飯に手を伸ばした。
そして憎しみをこめた瞳でアハトを睨みながら、それを口にした。
噛みしめ、引きちぎり、なんども噛んで、呑みこんだ。
貴族たちから悲鳴があがった。
くやしい。くやしい。くやしい。
くやしさで味なんかまったくしない。なにもしない。
ただくやしいという感情だけが俺のすべてを埋めつくした。
ひたすら俺は残飯を食べた。
そのうち貴族から拍手が起こった。
その男は、アハトとよく似た服を着ていた。
となりでフランツが力強く頷いていた。
そんななか、俺は再びアハトを睨みつけた。
するとアハトは、あごをひき、冷や汗をふきながら無理やり笑った。
そして身請けを取り下げた。
それと同時に、アンジェリーチカが凛とした声で高らかに宣言した。
「テンショウを緒菜穂の身請け人とする!」
この宣言に貴族たちは、ほっと胸をなで下ろした。
フランツとフランポワンが微笑んでいた。
拍手をくれた貴族も満面の笑みで何度も頷いていた。
ほかの貴族も穏やかな笑みを浮かべていた。
俺も喜びがこみ上げてきて。
それと同時に安堵からくる疲れがどっと押し寄せてきて。
それでも俺は、ふらふらとなりながらも立ち上がった。
顔を上げて、大きく息を吸い込んだ。笑顔であたりを見まわした。
と、気を緩めたところに。
「入札の取り下げはルール違反ですから、私が上乗せした額を払っておきますね」
と、アンジェリーチカがアハトに言うのが、たまたま目に映った。
「あ、ああ」
と、アハトが汗をふきながら頷いていた。
アハトは、ちらりと俺を見た。
目と目が逢った。
アハトは困った顔をした。
その横で、アンジェリーチカが信用状にサインを書き込んでいた。
そして書き終えて顔を上げた彼女と、俺の、目と目が逢った。
アンジェリーチカは、母性に満ちた瞳を俺に向けていた。
「ああ、そういうことか」
このとき俺はすべてを理解した。
このとてつもなく大きな世界は、神の手のひらにあって。
その世界のなかの片隅に、ちっぽけなアダマヒアの領土があって。
そのアダマヒアの領土は、国王の手のひらにあって。
そのアダマヒアのなかの片隅に、ちっぽけなデモニオンヒルがあって。
デモニオンヒルは、アンジェリーチカの手のひらにあって。
そのデモニオンヒルのなかの片隅に、ちっぽけな俺は這いつくばっている。
ふふっ。
なにかが崩れた。
俺のなかで崩れた。作り換えられた。置き換わった。
俺が俺でなくなった。
黒いなにかが体中に染みわたっていくのを感じて、そして世界が、なぜか澄んで見えた。
世界がとても大きく見えて。
自分がとてもくだらなく感じられて。
そして、このとき俺は解き放たれた。
俺は大きく息を吸った。
そして、ゆっくりと吐いた。
アンジェリーチカを見た。
フランポワンを見た。
フランツを見た。
貴族たちを見た。
アハトを視た。
なにもかもが今までと違って見えるなか、しかし、緒菜穂だけはそのままだった。
俺は背をまるめ、ゆっくりと歩いた。
アハトの足もとに、ひざまづいた。
そして言った。
「アハト様。今まで、わたくしめの度重なるご無礼をお見逃しいただき、また、ご教育いただきありがとうございました。わたくしめはお恥ずかしながら、たった今、アハト様の寛大なるお心を理解したところでございます。今までは誠に申し訳ございませんでした」
アハトは絶句した。
俺は続けて言った。
「それで、アハト様。この魔法使いめはご無礼を重ねるのを承知で、ひとつ、お願いがございます」
「なっ、なんだっ」
アハトは声を裏返して応えた。
俺の態度の変化に、みなが気味悪がっていた。
しかし、俺は続けて言った。
「わたくしめがこの娘を身請けすることに、アハト様からの『お墨付き』を頂けないでしょうか。この娘は、アハト様からしてみれば取るに足らないゴミのようなもの……ですが、わたくしのような魔法使いにとっては、かけがえのない宝でございます。ですから、この娘がわたくしめの所有物であると、今ここでアハト様から宣言してはもらえないでしょうか」
アハトは、悲鳴のような声で承知した。
俺は、深々と頭をさげて。
誰にも見えないように、笑ってから、顔を上げた。
そして、アンジェリーチカを上目遣いに見て言った。
「アンジェリーチカ様。この度は、わたくしめに代わって、この娘の身請け金をお支払いいただきありがとうございました。実はこのテンショウ、失礼を重々承知のうえで、アンジェリーチカ様には、もうひとつ、おすがりしたいことがございます」
「……なによっ」
「立て替えていただいた身請け金を、わたくしめに、少しずつではございますが、返済させてはいただけないでしょうか。いえっ、失礼なことを言っているのは重々承知でございます。ですが、アンジェリーチカ様からしてみれば、ちっぽけな魔法使い……このテンショウにも、心というものがございます。このまま立て替えていただいたままというのは、このテンショウのちっぽけな胸が痛むのです。ですからアンジェリーチカ様、どうか笑って、このテンショウめに返済させていただけますよう――」
俺はそう言ったまま、深々と頭をさげたままでいた。
返事を待った。
アンジェリーチカは言葉を詰まらせた。
貴族たちは騒然とした。
そのまま俺は待った。
しばらくすると、アンジェリーチカが何か言おうと咳払いをした。
一歩前に出た。
と、それをくじくように俺は鋭くこう言った。
「返してやるから待っていろ――と、このゲスな魔法使いは申しております」
そう言ってから、俺は上目遣いでアンジェリーチカを視て。
そして、にたあっと笑った。
――・――・――・――・――・――・――
■チートな魔法使いである俺の復讐の記録■
アハトに残飯を食べさせられた。
とてつもない額の身請け金を、アンジェリーチカに肩代わりしてもらった。
……必ず返済すると、俺は彼女に告げた。そしてこのときから俺は、『ゲスな魔法使い』であることを自覚したのだった。
■まだ仕返しをしていない屈辱的な出来事■
城塞都市からの使者・アンジェリーチカ第一王女に、まるで汚物でも見るような目で見られた。
屈辱的な姿勢で、後ろから指をつっこまれた。




