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 朔夜が華氷の邸を訪ねると、彼自ら出迎えてくれた。

「よく来てくれた。こうして話すのは久しぶりかな」

「はい、最近は通りすがりにご挨拶するばかりでしたので」

 今でこそ好々爺然としているが、もとは黒基の兵を率いた総大将も務めたことのある武将だ。隠居したがっていると柊は言っていたが、そんな様子は微塵もない。もっとも朔夜の前では見せないだけかもしれないが。

 彼の雰囲気はどこか羽令を思い出させる。だからというわけでもないが、朔夜も華氷を慕うひとりだ。彼の養子である柊の話し方もよく似ている。

 華氷に案内され通されたところは、普段客間に使われる部屋の縁側。そこに一尺ほどの高さに積まれた書物が数列並んでいた。ちなみにいつぞやの蘭の部屋で、形見の整理にと積まれた巻物や書物はこれの数倍はあった。

 途中見かけた池も広く反り橋が渡され、数匹の鯉が泳いでいる。蔵や馬小屋も柊の邸より広い。庭に植えられている木々もところどころ紅葉している。

「たまには風を通さないと、湿気ばかりでも書物は痛む。天気も悪くないし、私も今日一日時間があるからちょうどいいと今、蔵の掃除中でな。ここは蔵から離れているが」

 蔵に仕舞いこまれていたためか、わずかに湿気を含んだものや日に焼けて変色したものもある。

 確かに今日は雲も少なく、日当たりもいい。陰干しして、書物に風を通すにはいい日だろう。

「妖退治が終わったあとにでも返してくれれば、必要そうなものは持って帰ってくれていい」

「ありがとうございます。拝見させていただきます」

 朔夜は腰をおろし、端から伝説や言い伝えがまとめられたものを中心にぱらぱらとめくる。

 聞き覚えのあるものがいくつかあった。それも当然だ。蘭に拾われる前、今は無き灰老にいたのだから。

「……この巾着は朔夜殿のか?」

 華氷の問いに顔をあげれば、巾着を拾いあげていたところだった。

 浅葱色の布に藍色の紐で口を閉じるようになっている。白い小さな花が刺繍された片手に乗る程度の小さなもの。

 二、三歩後ろに気づかないうちに落としてしまったようだ。ひとつだけ残った形見、あとは全てあの日、焼けてしまった。

「あ、申しわけありません。はい」

「それと同じものを柊も持っているんだが……何か聞いているかね?」

 華氷が拾った巾着を受け取り、続いた言葉に朔夜は目を見開いた。

「柊殿が……?」

「その様子だと何も知らないか。ここに来る前を思い出したってわけでもないようなんだが……君と昔関係があったのかと口にしたことがあった。どうしてそう思ったかまでは訊かなかったが、そうすると……それを見たってわけでもなさそうだな」

 髭を撫でながら、華氷は心配そうな顔をした。

 朔夜は受け取った巾着をぎゅっと握った。なかに入っているのは折れた簪の飾り。この巾着は他にあるはずがない。これは両親が作ったものだ。そして自分以外に生きているはずがない。血の繋がった者は全員、亡くなったはずだ。

「余計なことを言ったかな、申しわけない。忘れてくれ」

 軽く頭をさげる華氷に首をふり、いいえ、とだけ答える。

 これ以上は邪魔になると思ったのか、華氷はそっとその場を離れた。当の朔夜はそれに気づかず、黙々と書物を読んでいる。

 頭の隅では、先日の柊との会話を思い出していた。

 蛞蝓のような妖に襲われた直後、彼の邸でのことだ。黒基に来る前を覚えていないと言った。いつから気にしていたのかは知らないが、あの問いはどういう意味だったのか。

 ただの考えすぎかもしれない。でも、もしかしたらと思う自分がいる。

 己の血縁者は皆、亡くなった。だれひとり残らず。


 ――そして十一年前、自分だけ残ってしまった。


 蘭はゆっくりと目を開けた。未の刻になったばかりだろうか。日も高く、風が心地いい時刻。

 昨日は熱があり、身体を動かすのも億劫で、呼吸もしづらかったため、中途半端に寝つけないままだった。心臓をつかまれたような激痛が時折走り、丸くなって呻いた。だがそれも、明け方ごろになって少しずつ楽になってきた。そのため先ほどまで蘭は眠っていたのだ。

 蘭の視界に人影がぼんやり映る。そばには柊が置いていった勾玉の首飾りもある。

「お身体の加減はいかがですか?」

 黒髪が揺れ、黒水晶のような瞳がこちらを見ていた。

「大丈夫よ、まだ少し体は重いけど」

 大丈夫と口にしてみたものの、それでもたいして動けないことには変わりない。試しに上体を起こそうとしてみたが、体が重く眉根を寄せた。その様を見ていた朔夜に止められ、再び横になる。

「ご無理なさいませんように。……起きあがるのも辛いでしょう。顔色もよくありません」

「とかいって、朔夜もあまりいいようには見えないわね」

 少しばかり顔色が青いは気のせいではない。色白のため分かりづらいだろうが、長年一緒にいる蘭には一目で分かる。

「少し雑務が重なりまして」

「私のせい、よね。ごめんなさい」

 少なくとも自分が彼の仕事を増やしている自覚はある。それに多分、柊の仕事も。別に柊はどれだけ忙しかろうが、過労で倒れようが知ったことではない。彼にはどれだけ仕事を押しつけたって、涼しい顔でこなしていく様が脳裏に浮かぶ。

 柊はどうでもいいが、朔夜の仕事を増やしてしまったのは気がひける。

「蘭が気にすることではありません。様々な偶然が続いた、それだけです」

 朔夜はわずかに首を横にふって、少し笑みを浮かべた。

 でもやはり、蘭としては気になるし心配だ。どうしても無理や無茶をさせているような気がして。

「今はご養生なさってください。国主の座が空白の今、蘭までどうにかなったのではそれこそ一大事ですから。何か喉通りのいいものを持ってきましょう。少しでも召しあがってください」

 朔夜は立ちあがろうと片膝をたてたが、ふいに袖をひかれた。

「……どこにも、行かないわよね?」

 蘭が朔夜の衣の裾をひいたのだ。それに振り返り、朔夜も座りなおす。

 この前の夜じゃあるまいし、何を訊いているのかと自分でも思う。

 けど何故か朔夜がどこか遠くへ行ってしまいそうな、そんな予感めいたものが心の奥でざわつくのだ。

「どうしたんですか? 突然。先日のことなら……」

「そうじゃなくて、私の前から本当にいなくなったりしないわよね?」

 蘭は裾をぎゅっと握りなおす。

 目を丸くして幾度か瞬きした朔夜だが、その手をそっと取り夜着のうえへ置いた。

「しませんよ。あなたが望む限り、おそばにいます」

「本当に……?」

「ええ、本当です」

 再度の問いに朔夜は深く頷いた。彼の答えを聞いて、ほっとしたのか瞼が重くなる。

「朔夜……絶対、だから……ね……」

 そう言いながら、蘭は再び眠りについた。


 水樹の部屋へつく少し手前。柊を呼び止めたのは薄紅の小袖を着た雪葉だった。

「お待ちください! 柊殿」

「これは雪葉姫、お久しぶりにございます。何か御用ですか?」

 にこりと微笑み、普段どおりに柊は会釈した。

「異母妹はどうなっているかと。柊殿ならご存知でしょう? 私たちが不用意に近づいてはいけないと言われておりますので……」

「今すぐどうこうというわけではありませんので、ご安心ください。そろそろお帰りにならないと、皆が心配なさるでしょう」

 たいして近づきもしなかったくせに。

 羽令が亡くなり、葬儀のため帰ってきたといっても蘭にも水樹にも近づかなかった。もちろん柊がそれを知っていると、雪葉は気づいていない。

 羽令の葬儀も終わった。おおかたの雑務も済んだ。最初は父を失った悲しみから残っているのかと思っていたが、どうもそうでもないらしい。

「この状況で帰っては、異母妹を見捨てたと世間の笑い者になってしまいますわ。今しばらく様子を見てからにいたします」

「御用がお済みなら、私はこれで」

 再び足を進めようと頭をさげ、向きを変えようとする。だが雪葉は柊を引きとめようと、さらに続けた。

「待って……! もうひとつ……」

 だがあとが続かないようで、しばし沈黙が続いた。少し待って様子を見ていると、視線が泳いでいる。どう言葉を繋いだらいいか迷っているようだ。

 柊が適当な理由をつけて、この場を去ろうと思い始めたとのほぼ同時。

 意を決したように雪葉は口を開く。

「……――朔夜はどうしています?」

「いろいろと忙しいようですが、彼が何か?」

 多分こっちが本当の目的。そう気づいてはいるけど、柊は知らないふりをして問い返す。

「いえ、なんでもありませんわ。そうだ、少しお付き合いいただけませんこと? お話したいこともありますから」

「あまりお時間とれませんが、それで構わないなら」

 柊は少し迷った。水樹にも呼ばれていたし、雪葉と関わるのもどうかと思った。

 九尾とは関係ないかもしれない。

 柊は空を見あげた。時刻は未の刻を四半刻ほどすぎたばかりだろうか。決して遅い時間ではない。水樹も雪葉に呼び止められたとなれば、怒りはしないはずだ。

 少しだけ解ることがある。だから、少しだけ話を聞いてみたいとも思うのも本当だ。

 あなたと私は似ている。この心はきっと届かないから。

「ええ、お手間はとらせませんわ。せっかくのお天気ですもの、お庭でお話いたしましょう」

 雪葉はうやうやしく礼をして、柊を招いた。

 二人は橋を渡り、池の対岸へと来ていた。さすがにここまで白砂は敷かれていない。木々に隠れて見えないが、ここからは本丸へ続く道が通っている。もっとも本丸へ続くのはその道だけではなく、いくつか用意されたうちのひとつだ。

 葉が揺れ、時折地へ落ちる。庭へ降りるまでは晴れていたのに、ここまで来るうちに雲に覆われ日の光が遮られる。雨が降らなければいいのだが。

「蘭とは……異母妹とはどうなっておりますの?」

「どう、とは?」

 ぴちゃんっと池の鯉がはねる。

 雪葉がニ、三歩先を行き、その後方につく形で柊も歩く。

「柊殿は許婚でしょう? 今もまだまとまっていないというのに、何故そうも落ち着いておられるのですか?」

「落ち着いてなどいませんよ。ただ今は他にすべきことがある。それだけです」

「先を望もうとは思わないのですか? もう六年になるというのに」

 雪葉は振り返り立ち止まると、柊を見据えた。

 対して柊は眉根を寄せた。

「この時期にお話しすべきことではないと思いますが」

「こんな時だからこそ、はっきりすべきなのです。あなたならあの子を振り向かせることくらい容易いでしょう」

「それはどういう意味でしょうか?」

「言葉どおりですわ。それとも経験がないと仰るのなら、私がお相手してさしあげますわ」

 腕をつかまれ、引き寄せられたと思うと柔らかなそれが重なった。

 雪葉が柊の背に腕を回そうとしたが、すんでのところで柊は引き離す。突き飛ばす形にこそならなかったが、雪葉は少しよろけた。

 沈黙がおりた。ぽつりと柊の頬に何か当たったと思うと、次第に数が多くなり灰緑色の衣に染みこむ。水音が聞こえ、顔に当たる水の感触と重くなっていく衣。雨が降り始めたのだ。

「……姫、慰めがほしいのならそれこそ、早々にお帰りください。あなたの居場所はここではない」

 同時に頬をたたく音が響いた。

 柊の茶髪と、素襖の裾が揺れる。再び雪葉を見やると、こちらを睨み返す目はうっすらと滲んでいるように見えた。もっとも雨のせいで、見間違えただけかもしれないが。

「おまえに……何が分かるというのです……っっ。民のため、戦のない世のため、家のためと望みもしない相手と結婚した。それが幸せなものとは限らないでしょう! 表面だけ取り繕ってみたところで、夫にとって私は何の価値もない。お飾りの正室であるくらいなら、せめてあの人が近くにいてほしいと願うのはそんなにいけないことですか!」

 捲くし立てるように言い終えると、ずるずると膝をつき崩れ落ちる。泣いているようにも思えるが、雨のせいでよくは分からなかった。

 夫婦間のことは知りようもない。もともと柊はそれらを訊けるような立場にないし、自分が関わるべきことでもないと思っている。

 だがこうも彼女を追いつめてしまったのだろうか。望まない婚姻と、そばにいてほしいと願う人に心が届かないことが。

 もしかしたら私もいつか、こうなってしまうのかな。

 雪葉に返す言葉見つからなかった。立場も状況も違う。けれど、少しだけ解る。愛しい人にそばにいてほしいと思う心は。

 手を差し伸べ、柊は支えようとしたが雪葉はその手を振り払った。

「――私に触れるなっ! そうよ、あの子さえ……あの子さえ……っっ」

 がたがたと震え、眦が吊りあがったまま、雪葉はおぼつかない足取りで元来た道を戻っていく。

 その言葉の裏にあるものは、あまりにも大きく悲しい。反面、切なく愛しいほどの感情がある。

 このままではいけない。あまりにも大きすぎる闇は、妖や異形につけこまれやすい。心の奥がそう警鐘を鳴らす。けれど柊は動けなかった。

 降りだした雨のため少し癖のある、柊の髪はもとの形を失い、真っ直ぐになっている。この時期、雨自体は冷たくないが、長く当たっていては体が冷えてしまう。この場にいては風邪をひくだろうと思うのに、立ち去ることも彼女を追いかけることもできなかった。

 雪葉の気持ちも、蘭の気持ちも解るし、知っている。そして自分の気持ちに本当は、ちゃんと決着をつけていないから。


 柊が水樹の部屋を訪れた時には、すでに日が落ちようとしているころだった。

 あれから雨に濡れたまま、水樹を訪ねた。それに驚愕した水樹は、慌てて侍女に命じて風呂と着替えを用意してくれた。その言葉に甘え体を温めると、ごちゃごちゃした心も少しだけ楽になったように思う。

 そうこうしているうちに外は暗く、雨もあがった。雲はまだあるものの、月が顔を出している。

 夜着を半分だけ掛け、上体を起こしている水樹は悲しそうな顔をして下を向く。その仕草に合わせ、癖のない黒髪が揺れた。だがすぐに顔をあげ、心配そうに柊を見やる。

「そっか、雪姉上が……。でも最初びしょ濡れで来るから、びっくりしたよ」

「私としたことが少し動揺したかな……ですが、大丈夫ですよ。このくらいでどうにかなるような神経じゃありませんから」

 雪姉上。もちろん、雪葉のことだ。水樹は雪葉をそう呼んでいる。

 水樹の容態は落ち着いていた。彼にも蘭と同様の首飾りを渡してある。霊力のある者、見鬼のある者は呪詛の影響を受けやすい。だが普段から病床にある彼には、陰陽術の心得がある。自身に降りかかってきた邪気を祓う術も頭にあるはずだ。そういった意味では、彼の心配は少ない。

 それでもこの一件を長引かせるのはよくないだろう。

 柊の言にこくりと頷いて、水樹はさらに続けた。

「ちょっと前まではね、雪姉上も優しかったんだ。それが僕だけなのか、蘭姉上以外になのは分かんないけど。たまに帰ってくる時はお土産くれたんだよ。時々、みんなには秘密って僕だけにくれたものもあるし」

 正月や盆に帰ってきては、よく話をしてくれたと水樹は言った。羽令や蘭と衝突していたのは知っていたが、水樹が熱を出すとそばにいて看病さえしてくれたこともあるそうだ。

 なのに、羽令の葬儀で帰ってきてからは一度も異母弟を訪ねてきていない。

 水樹は悲しそうに目を伏せる。

「とても綺麗で優しくて、頭がよくてさ。読み書きや陰陽術の勉強を教えてくれたことだってある。……そうえいば、いつも蘭姉上がいない時だったな。そうだ、見せてあげるよ。姉上が僕だけにってくれたもの」

 水樹はそういって床の間の棚にある、一尺ほど幅がある黒い漆の箱をとる。元の場所で正座して、柊の前でその箱を開けた。どこかの神社やお寺のお守りで健康成就のものばかりだ。また彼女が手縫いしたのか巾着や小さめの手拭いもある。なかには文も一緒に仕舞われていた。

「昔から雪葉姫とはあまりお話しする機会もありませんでしたが…お優しい方だったんですね」

 そんな雪葉を変えてしまったのは、やはり朔夜へ抱いた恋心なのだろうか。

 いくら主筋であろうと相手が十歳の男の子では、柊も小さな子に接するような気になってしまう。つい手が伸びて、彼の頭を数度撫でた。以前も何度か同じような状況があったが、当の水樹は嫌がる様子もない。他に人もおらず、二人だけだ。特に気にすることはない。

 箱のなかにもう一度視線を戻せば、柊はある手ぬぐいが目についた。紫の花が刺繍された手ぬぐい。

「……どうかしたの?」

「若君、これも雪葉姫がくださったものですよね?」

「うん、箱の中身は全部そうだよ」

「この花は灰老にしか咲かないものです。……雪葉姫の嫁ぎ先は黒基国内のはずでは?」

 島の北側にある黒基では寒さが厳しく、南側の国の植物は育ちにくい。

 灰老はその点、温暖な気候が続き、南北両方の動植物が混在する。けれどその特殊な気候のためか、灰老にしか咲かない植物もある。

「そうなんだ。僕もまだ勉強不足だね。雪姉上は、灰老近くの町だよ。そこの城主の人と結婚したんだ」

「疑いたくはありませんが……若君、万一の可能性もあるかもしれません」

 黒基国内で社や祠が壊されたというなら、柊や朔夜の耳に入ってもおかしくない。それがいまだ何も聞こえてこず、雪葉の様子に神隠しが始まった時期。もしかするとすべて一本の線で繋がるかもしれない。

 けれど、まだ思いきれないのだ。雪葉だとは思いたくない。柊にすれば、縁がなかったとはいえ主筋の姫君。水樹からすれば、母が違うといえど優しかった異母姉。曲がりなりにも彼女は、陰陽術を心得ている。妖の怖さも知っているはずだ。妖絡みの事件、事故に巻き込まれていたとしても、それを振り払うだけの知識もある。

 疑いたくはない。あっていいはずがない。

「……玉藻前の伝説だよね。確かに状況はそろいすぎてるけど、でもこれだけじゃ確定するには早いよ。この国にだって、狐の伝説やおとぎ話がないわけじゃない」

 水樹の言うことももっともだ。狐の伝説は玉藻前だけではない。大小はあれど、島全土にいくつも存在するのは確かだ

 それでも拭えない不安に、柊は数度頭を振った。


 朔夜は蘭の部屋の隣で、華氷から借りた灰老関連の書物を読んでいた。机に向かい、そばには十数冊ほど積んである。曇ってきたため、障子越しに射しこむ光も減り薄暗くなってきている。もう少ししたら、灯りも用意しなければならないだろう。

 書物に載っていたのは、先日話した殺生石の伝説、それから細々した九尾の出てくる昔話。狐が祭られているという社も載っていた。

 ――九尾狐。そのかたちは狐のようで九つの尾、その声は嬰児のよう、よく人を食う。

 神隠しの一件も、九尾の仕業で間違いはない。

 巾着についてはまだ訊けていない。顔を合わす機会もなかった。それを幸いと思うのは、返ってくる答えを怖がっているからだ。

 だから蘭の声が聞きたかった。あの手に触れたかった。

『私の前からいなくなったりしないわよね?』

 脳内に蘭の声が再生された。

 そして嘘をついた。いや、今日が初めてでもない。術士のことはあまり関わらせたくないから、どうしても嘘をついてきた。当たり障りのない、後々支障のない範囲で。

 霊力や見鬼こそないものの、彼女の勘は鋭い。直感と呼ばれるものだろうが、時折こちらがどきりとすることがある。蘭自身にその自覚がないだけに、言葉にする時は容赦ないのだからこれもある意味性質たちが悪い。

 蘭のこの問いだけは嘘か、本当かのどちらかしかないと思っている。だからといって、「分からない」とも「いつかは離れる」とも言えなかった。どちらを言っても、きっと泣かせてしまうから。

 顔色が悪い自覚はある。調子が悪いのも分かっている。蘭には聞こえたり見えたりしていないだろうが、夜になると妖が結界に手を出してくるのだ。九尾の妖気のせいだろう、今まで隠れていた妖まで、人に害をなそうと動き始めている。それらを結界や城の周囲から追い返しているため、睡眠不足であることはいなめない。

 彼女のそばを離れたくないのも本当だ。あの小さな手をずっと守りたい、あの瞳を曇らせたくないと思ってきた。ずっと向けられる信頼を、自分だけのものにしていたくて。

 障子の向こうで雨が降り始める。

 どうしてか朔夜には雨音が切なく、人の泣き声に聞こえた気がした。


 耐えられない、あの人がいない生活も。妻を省みない夫のそばにいることも。

 深く暗い闇のなか、はたりと白銀の尻尾が揺れた。犬や猫が眠るように前足を組み、そこに顎を乗せ九尾は目を閉じている。

 九尾が作りだした空間、結界のなかは暗くいくつもの気配がうごめいていた。

 九尾にとっては餌にならずとも、下位の妖には雪葉の髪一筋、血の一滴でもご馳走だ。足元をうろつき、闇のなかへ引きずりこもうとするが、雪葉を囲む不可視の壁が妖をはね返す。

 殺して。あの子を、殺して。

「焦っては仕損じる。いま少し機をうかがったところで、なんの差異もあるまい」

 その声にぴくりと反応し、雪葉は眦をつりあげた。

 夫は私を省みなかった。

 名前ばかりの正室ほど、苦しく悲しいものはない。城主とその妻の間に形ばかりでも愛がないと知れば、城内はいらない噂で湧きたつ。人の不幸ほど、世間は笑うのだ。母は身分が低く、武家の出でもない。実際に雪葉がどう暮らしていたか、城内の者には関係ない。ただ身分が低い、武家の出ではないその事実に、想像で尾ひれをつければ簡単に人が群がる。

 その尾ひれがあながち外れてもいないから、なおのこと腹が立つ。

 夫は側室に入れこみ、正室である雪葉には寄りつきもしなかった。

 顔も知らない政略結婚だった。あの人の、彼の言葉があったから、決断できた。だったらせめて、夫の心がこちらを向いてくれれば、もっと楽になるかもしれない。

 そう思って努力はしたのに。夫の好みの色、料理、楽の音、化粧。どれも届かなかった。

 離縁を言いだすことも、その状況を羽令に相談することも、雪葉自身の矜持が許さなかった。長姉として、一国の姫としての責任が、頭から離れなかったのだ。

「もう耐えられないのです! この状況にも、あの子の顔を見るのも!」

 泣いて暮らすのはもう嫌だ。省みられない生活もしたくない。

 すべてを手に入れようとは思わない。ただそばにいてほしいだけ。それなのに、それなのに。

「ならば、協力してもらうぞ」

 九尾は薄く目を開け、雪葉を見やる。

「ええ、なんでもするわ」

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