守るための魔法【挿絵あり】
管制室で最初の警告が表示された頃、牡牛座エリアの『大草原のモンスターサファリ』では――。
「うわあああっ!」
突然の悲鳴に、綾麿は振り返った。
少し離れた遊歩道で、男性ゲストが倒れていた。
右腕を押さえているが、指の間から血が流れている。そのすぐそばには、灰色の毛並みをした狼型のモンスターがいた。
「えっ……?」
綾麿は目を疑った。
狼型のモンスターは普通の狼と同じくらいの大きさで、鋭い牙を剥き出しにしている。
男性が立ち上がろうとすると、モンスターは低い唸り声を上げた。
「くそっ、来るな! 誰か助けてくれ!」
周囲にいたゲストたちはモンスターを見て、悲鳴を上げながら逃げていく。
(どうなってるんだよ……)
モンスターが人を襲うなんて、聞いていない。
入口のキャストは、安全制御があるから絶対に危険はないと説明していた。
それなのに、目の前では男性が怪我をしている。
綾麿は助けに行こうとしたが、足が動かなかった。
あんなモンスターに、自分が何をできるというのか。
そのとき、綾麿から少し離れた遊歩道に、一人の少女が現れた。
腰まで届く銀色の髪に、紫色の半袖チュニック。
(あっ、さっきの子だ!)
途中で地図を眺めていた少女だった。
少女は倒れている男性に気づいたのか、そちらへ駆け寄ろうとしていた。
しかし、狼型のモンスターも少女の存在に気づいた。
低く唸りながら、ゆっくりと向きを変える。
「危ない! 逃げて!」
綾麿が叫んだ。
少女がこちらを向いた、その瞬間。
狼が地面を蹴り、少女に向かって飛びかかった。
「っ!」
綾麿は夢中で駆け出した。
少女に飛びつくようにして身体を抱え、そのまま横へ倒れ込む。
「きゃっ!」
二人が草の上に転がると同時に、狼がすぐそばを飛び越えていった。
「いったた……」
綾麿は慌てて身体を起こした。
手のひらを擦りむいてしまったようで、じんじんと痛む。
「そなた、大丈夫か?」
隣にいた少女が尋ねてきた。
「う、うん。それより、君こそ怪我は?」
「余は無事だ。助かったぞ」
「よかった……」
だが、安心するには早かった。
先ほど飛び越えていった狼が、こちらを振り返っている。
鋭い牙を剥き出しにして、再び近づいてきた。
(う、嘘だろ……)
逃げようにも、すぐ隣には少女がいる。
綾麿は咄嗟に腰のホルダーからミストルティンを引き抜いた。
杖を両手で握り、狼に向ける。
「来るな……!」
声が震えていた。
狼はまったく怯む様子もなく、じりじりと距離を詰めてくる。
(どうしよう……。何か、何かないのか……)
必死に考えていると、サファリへ来る途中に覚えた魔法を思い出した。
風を圧縮して放つ初級魔法、風弾。
(あれなら……!)
しかし、綾麿はすぐに不安になった。
自分がこれまで成功させた魔法は、ビー玉ほどの水球だけだ。
目の前のモンスターに通用するのだろうか。
だが、ほかに方法は思いつかない。
綾麿は杖を握り直した。
「風よ、ここに集い、我が前へと放たれよ――風弾!」
詠唱を終えた瞬間、杖先から強い風が放たれた。
バンッ!
鈍い音とともに、狼の身体が横へ吹き飛ぶ。
「うわっ!」
綾麿自身も驚いて、思わず後ずさった。
狼は地面を何度も転がり、数メートル先で止まった。
そして、そのまま動かなくなる。
「……え?」
綾麿は杖を構えたまま、倒れた狼を見つめた。
(今の、本当に俺が……?)
恐る恐る様子を窺うと、狼の腹がわずかに上下している。
どうやら生きているらしい。
それでも、起き上がる気配はなかった。
「た、倒した……?」
ようやく息を吐く。
ほっとした途端、膝の力が抜けそうになった。
「そなた、すごいではないか!」
少女が目を丸くしている。
「いや、俺もびっくりしてる……」
綾麿は自分の杖を見下ろした。
(それに、おかしいよな……)
ここでは攻撃魔法が使えないはずだった。
入口のキャストは、確かにそう説明していた。
それなのに、今の魔法は何の問題もなく発動した。
考えても理由は分からない。
「君たち! 大丈夫ですか!?」
遊歩道の方から男性キャストが駆け寄ってきた。
「俺たちは大丈夫です! でも、あそこで男の人が怪我をしてて……!」
綾麿が指さすと、キャストはすぐに男性のもとへ走った。
「大丈夫ですか!? しっかりしてください!」
「う、腕が……くそっ、痛え……!」
男性の右腕には深い傷があり、まだ血が流れていた。
キャストは持っていたタオルを傷口に押し当てる。
「出血がひどい……! 君、悪いけど、反対側から身体を支えてくれるかな?」
「は、はい!」
「近くにスタッフ用の詰め所があるので、とりあえずそこまで運びましょう」
綾麿は杖をホルダーに戻し、男性の無事な方の腕を支えた。
銀髪の少女も一緒についてくる。
遊歩道を少し進むと、木造の小さな建物が見えてきた。
白い壁に赤茶色の屋根。入口には木製の樽や農具が飾られ、異世界の農家を思わせる造りになっている。
「ここです。中へ入ってください」
キャストが扉を開けた。
室内には木製の机や椅子が並び、壁の棚には備品が収められていた。
男性を椅子に座らせると、キャストは棚から救急箱を取り出した。
「すぐに手当てしますからね」
キャストは傷口にガーゼを当て、しっかりと押さえた。
しかし、男性は苦しそうな表情を浮かべている。
「くそっ……痛くてたまんねえ……!」
「もう少し我慢してください。救護班を呼びますから」
キャストは無線機を手に取り、救護班を呼び出した。
だが、雑音が混じるばかりで、なかなか返事がない。
綾麿も何か手伝えないかと救急箱を覗き込んでいると、銀髪の少女が怪我をした男性に近づいた。
「少し、余にも手伝わせてくれぬか?」
「え? 君が?」
傷の手当てをしていたキャストが、驚いた顔をする。
「うむ。出血を抑える方法を知っておる」
「それは助かりますが、どうやって……?」
少女はその場に座り、腰の革袋から小さな折り畳み式のナイフを取り出した。
「ちょっと待って! 何するの!? てか、なんでナイフなんて持ってるんだよ!」
パーク内への刃物の持ち込みは禁止されているはずだ。
綾麿が驚いていると、少女は落ち着いた様子で答えた。
「案ずるな。色々と事情があるだけだ」
そう言って、少女は男性に向き直った。
「そなた、余を信じてくれるか?」
「はあ……?」
「少々変わった方法なのだが、痛みを和らげられるかもしれぬ」
男性は戸惑った様子で少女を見つめた。
「おいおい、冗談だろ……。こんなガキに何ができるってんだ?」
「余の血には、傷を癒やす力があるのだ。……誰にも言うでないぞ」
「はあ!? 血を飲めってのか? ふざけんな!」
男性は顔をしかめた。
「ほんの少しでよい。頼む、口を開けてくれぬか。傷、痛むのであろう?」
「くっ……本当に治るんだろうな?」
男性の額には、脂汗が浮かんでいた。
「嘘は申さぬ」
「ったく……分かったよ」
男性は渋々口を開けた。
少女はナイフの刃先を、自分の指に近づけた。
「ちょっと、やはりそれは――」
キャストが慌てて止めようとしたが、少女はすでに指先に小さな傷をつけていた。
少女はナイフを折り畳んで革袋にしまうと、指先を男性の口元にかざし、にじんだ血を一滴ずつ垂らしていく。
血が出にくくなると、少女は指先を軽く押し、次の滴が落ちるのを待った。
やがて十滴ほど飲ませたところで、少女は手を引いた。
「もうよいぞ」
「うえ……これで終わりかよ?」
男性が不満そうに口元を拭った、そのときだった。
「全然なんにも……ん?」
男性は自分の右腕を見下ろした。
先ほどまで激しく痛んでいた腕に、まったく痛みがない。
慌ててガーゼを外すと、深く裂けていた傷口が跡形もなく塞がっていた。
「お、おい……。嘘だろ?」
男性は何度も腕を曲げ伸ばしした。
「治ってる……。マジで治ってやがる!」
「えっ!? 本当に!?」
キャストも驚いて男性の腕を確認した。
さっきまで大量に出血していたとは思えないほど、傷が綺麗になくなっている。
「いったい、どういうことなんだ……?」
綾麿も思わず少女を見た。
「すごい……。どうやったの?」
「色々と事情があると申したであろう」
少女はそれ以上、説明するつもりがないようだった。
指先には、まだ小さな傷が残っている。
それに気づいた綾麿は、救急箱から絆創膏を取り出した。
「あの、これ。指に貼った方がいいと思う」
「おお、すまぬな。だが不要だ」
「え?」
少女は傷のある指先を口元へ運び、ぺろりと舐めた。
すると、指先にあった小さな切り傷が、みるみる塞がっていく。
「……ええっ!?」
綾麿は思わず少女の手を見つめた。
そこにはもう、傷一つ残っていなかった。
「これでよい」
少女は何事もなかったように手を下ろした。
キャストはまだ不思議そうにしていたが、男性の腕をもう一度確認した。
「傷は治っているようですが、念のため医務室で診てもらった方がいいですね」
「お、おう……。それはいいけどよ……」
男性は自分の右腕を見つめたまま、何度も首を傾げていた。
そのときだった。
ウウウウウッ!
建物の外で、突然サイレンが鳴り響いた。
「な、何だ!?」
続いて、サファリ施設の屋外スピーカーから非常放送が流れ始める。
『緊急事態発生。ゲストの皆様は、キャストの指示に従い、速やかに避難してください。繰り返します――』
その直後、キャストの腰に付けられた無線機から激しい雑音が流れた。
『……こちら牡牛座エリア運営本部。各施設、応答願います!』
キャストは慌てて無線機を手に取り、送話ボタンを押した。
「こちら、大草原のモンスターサファリ! 聞こえています!」
『現在、モンスターの安全制御が停止しています! 牡牛座エリアの全キャストは、直ちにゲストをミルキーウェイ方面へ誘導してください。移動の際は単独行動を避け、周囲の安全を確認すること!』
「安全制御が……停止?」
キャストの顔から血の気が引いた。
「そんな……。だからモンスターが……」
綾麿も言葉を失った。
安全制御が停止した。
つまり、モンスターに襲われても、パークの安全装置はもう守ってくれないということだ。
(じゃあ、これからは……)
綾麿は窓の外を見た。
さっきまで、ゲストたちが楽しそうに写真を撮っていた草原。
そこには今も、風に揺れる草が広がっている。
「皆さん、お聞きの通り、ここから移動します!」
キャストが声を上げた。
「この辺りで避難先になるのは、ミルキーウェイです。ほかのキャストやゲストとも合流して、まとまって城門を目指しましょう」
「この人は歩けるんですか?」
綾麿が男性を見ながら尋ねた。
「怪我は治ったようですが、念のため無理はさせられません。私がそばにつきますので、君は周囲をよく見ていてください」
「分かりました」
男性も自分の腕を確かめながら、ゆっくりと立ち上がった。
銀髪の少女も、綾麿の隣に並んだ。
綾麿は腰のミストルティンに触れた。
先ほど狼を吹き飛ばした感覚が、まだ手に残っている。
(本当に、何が起きてるんだ……?)
キャストは詰め所の扉を少し開け、外の様子を確かめた。
遠くから、誰かの叫び声が聞こえてくる。
「……行きましょう。私の後についてきてください」
キャストの言葉に、全員が頷いた。
綾麿は銀髪の少女と並び、キャストのあとに続いて、ミルキーウェイへ向けて歩き出した。
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