第0.2話「立ち上がれる」
「おい。あんま調子のんなよ、ゴミ」
次の瞬間、腹に鈍い衝撃が走った。
「――っ!」
息が詰まる。
零は腹を押さえ、その場に崩れ落ちた。
「やめて……もう、やめて……ごめんなさい」
「なんか謝ってんだけど~。ちょーウケる~」
笑い声が響く。
「謝って済むなら、警察はいらないんだよぉ!!」
顔面に拳がめり込んだ。
「ぐっ……!」
視界が大きく揺れる。
床に倒れた零は、霞む視界の中で、自分を囲む連中を見上げた。
――どうして。
何が間違っていたんだ。
何か、悪いことをしただろうか。
ただ普通に過ごしたかっただけなのに。
零の意識が遠のいていく。
――――三ヶ月前――――
『今日から高校生か……!』
新品の制服に袖を通した零は、胸を躍らせていた。
『高校生活、たくさん楽しむぞ!』
親の仕事の都合で、少し前に遠くへ引っ越してきた。
だから、この学校には知っている人が一人もいない。
『まあ、それはそれでいいか。今日から新しい友達を作ればいいんだ』
教室の前で一度深呼吸をする。
そして、扉に手をかけた。
ガラガラガラ。
「……おお」
教室の中は、すでに何人もの生徒で賑わっていた。
あちらこちらから笑い声が聞こえる。
零は自分の席を探し、そこへ腰を下ろした。
『少し騒がしいクラスだな』
それから数分後。
先生が教室へ入ってきた。
「はい、みなさん席についてくださーい」
ざわついていた教室が、少しずつ静かになっていく。
「改めまして、みなさんご入学おめでとうございます!」
「では、さっそくですが、一人ずつ自己紹介をしてもらいたいと思います」
「うわ……」
零は思わず小さく声を漏らした。
『自己紹介かぁ……。あんまり得意じゃないんだよな』
一人、また一人と教卓へ向かっていく。
そして、とうとう零の番が来た。
「次、新渡さん」
「はい……」
零は立ち上がり、教卓の前へ向かった。
「えっと……」
緊張で喉が渇く。
教室中の視線が、自分に集まっている。
「私の名前は、新渡零です」
一度息を吸う。
「中国語読みでは、シンリンと読みます。僕は中国とのハーフです」
――シン。
教室の空気が変わった。
さっきまで聞こえていた小さな話し声が、嘘のように消える。
零は戸惑いながら教室を見回した。
誰も喋っていない。
ただ、自分を見ている。
「……でも、日本生まれ日本育ちです」
何かまずいことを言っただろうか。
「えっと……政治を学ぶことが好きです。よろしくお願いします」
零は逃げるように教卓を離れた。
席へ戻る途中も、何人かの視線を感じる。
『……なんだったんだ?』
自分の席に座り、窓の外へ視線を向ける。
『変なこと言ったかな……』
そのまま自己紹介は続いていった。
最後の生徒が教卓へ立つ。
「私の名前は……き……つむぎ……」
零はぼんやりと窓の外を眺めていた。
キーンコーンカーンコーン。
チャイムが鳴った。
休み時間。
零が席で一人、外を眺めていると――
「ニーハオ」
突然、声をかけられた。
「……え?」
振り返る。
そこには、さっきから何度かこちらを見ていた男子生徒が立っていた。
「ねえ、お前、本当に中国人なの?笑」
「えっ?」
突然の質問に、零は戸惑った。
「聞こえてんの? もしかして日本語通じない?笑」
「いや……通じますけど」
「通じてんじゃん。じゃあ、はやく返事しろよ」
「ご、ごめんなさい」
「だから、本当に中国人なの?」
「あの……僕は自己紹介で話した通り、日本と中国のハーフで――」
「でも中国の血、入ってるよね?」
零の言葉を遮る。
「……それは、そうだけど」
「じゃあ中国人じゃん。笑」
男子生徒はニヤニヤしながら続けた。
「え? 犬とか食うの? やっぱ」
「いや、食わないよ」
零は苦笑いを浮かべた。
「だから、生まれも育ちも日本で――」
「ふーん。まあ、ええわ」
最後まで聞かない。
それだけ言うと、男子生徒は自分のグループへ戻っていった。
零はしばらく、その背中を見つめていた。
『……なんだったんだ、あいつ』
少し遅れて、周囲から視線を感じる。
顔を上げる。
さっきのグループが、こちらを見ていた。
一人が何かを話す。
すると、別の一人がこちらを見て笑った。
『……俺のこと、話してる?』
胸の奥に、嫌な感覚が生まれた。
そして、その予感はすぐに現実になった。
――――二日後――――
キーンコーンカーンコーン。
授業終了のチャイムが鳴る。
零は教科書を閉じた。
『……おかしい』
入学してから二日。
周りの生徒に話しかけても、無視される。
こちらから話しかけなければ、誰も話しかけてこない。
たまたまだと思っていた。
でも――
零は教室を見回した。
何人かと目が合う。
しかし、すぐに逸らされた。
『……嫌われてる?』
理由が分からない。
『俺、何かしたか?』
その日の帰り道も、零はずっと考えていた。
――――翌朝――――
「……なんだよ、これ」
教室に入った零は、自分の机を見て立ち尽くした。
机いっぱいに、油性ペンで文字が書かれている。
『帰れ、中国人』
『死ね』
『汚い』
『犬を食べるな』
一つずつ、目で追っていく。
指先が震えた。
「……誰が」
零は周囲を見渡した。
すると――
クスクス
クスクス
教室のあちこちから笑い声が聞こえた。
何人かの生徒が、口元を押さえて笑っている。
『……いじめ?』
頭が追いつかない。
『でも、俺……いじめられるようなこと、何もしてない』
零は鞄から消しゴムを取り出した。
そして、黙って机の文字を消し始めた。
ゴシゴシ
ゴシゴシ
消しても、消しても、文字はなかなか消えない。
『……もしかして』
手が止まる。
『俺がハーフだから……?』
その考えが頭に浮かんだ瞬間
胸の奥が、ひどく冷たくなった。
それから、いじめは毎日のように続いた。
無視
悪口
机への落書き
持ち物を隠されることもあった。
最初は些細な嫌がらせだった。
けれど、少しずつ。
確実に。
それは酷くなっていった。
――――数ヶ月後――――
朝。
零は靴箱を開けた。
「……」
中には、大量のゴミが詰め込まれていた。
零はしばらく黙ってそれを見つめた。
そして、小さく息を吐く。
「はぁ……またか」
もう、驚きもしなかった。
「……慣れたな」
ゴミを取り出し、教室へ向かう。
教室に入った瞬間、いくつもの視線が突き刺さった。
誰も何も言わない。
ただ、冷たい目で見ている。
すると、あの男子生徒が近づいてきた。
「おい、クソ中国人」
零は黙って顔を上げる。
「今日の昼休みも、校舎裏来いよ」
「……」
「来なかったら、どうなるか分かってんな?」
零は小さく頷いた。
――――昼休みーーーー
零は一人で校舎裏へ向かった。
足取りは重かった。
そこには、いつもの三人がいた。
「おっせぇんだよ!」
ゴツッ。
拳が顔面に入る。
零は地面に倒れ込んだ。
「おい、お前ら。こいつ掴み上げろ」
「うぃーす」
両腕を掴まれ、無理やり立たされる。
「おら!」
ドスッ。
腹に蹴りが入る。
「――ぐっ!」
息ができない。
零はその場に崩れ落ちた。
三人は、倒れた零を何度も蹴った。
「今日“は”この辺にしといてやるよ」
それだけ言って、不良たちは去っていった。
――――数時間後――――
「……ただいま」
「おかえりー」
いつもと変わらない母親の声。
リビングから母が顔を出す。
そして、零の顔を見た瞬間――
表情が変わった。
「……どうしたの、その顔?」
「……え?」
「何かあった?」
零は一瞬、答えられなかった。
「……なんでもない」
目を逸らす。
「転んだだけだよ」
母親は心配そうに零を見つめている。
「本当に?」
「うん」
零は笑った。
「大丈夫だから」
そう言って、自分の部屋へ向かった。
ドアを閉める。
背中を預ける。
そして――
ズルズルと、その場に座り込んだ。
『……言えない』
母には言えない。
母は病気を抱えている。
仕事をするだけでも大変なのに、これ以上心配をかけたくなかった。
『俺のせいで、病気が悪化したら……』
膝を抱える。
『……でも』
唇を噛む。
『もう……耐えられそうにない』
――――翌日の昼休み――――
今日も、零は校舎裏へ向かった。
逃げるという選択肢は、もう頭になかった。
「ほんとに来たんだけど~。マジウケる~」
零が顔を上げる。
「……え?」
今日は、人数が違った。
いつもの三人だけではない。
男が四人。
女が二人。
合わせて六人ほどが、零を取り囲んでいた。
「おい」
「はいはい、分かってるって」
二人が零の腕を掴む。
「おら!」
蹴りが飛んでくる。
「ぐっ……!」
何度も。
何度も。
身体に衝撃が走る。
「おい、あんま調子のんなよ、ゴミ」
腹を蹴られた。
「――っ!」
零はその場にうずくまった。
「やめて……もう、やめて……ごめんなさい」
「なんか謝ってんだけど~。ちょーウケる~」
笑い声。
「謝って済むなら、警察はいらないんだよぉ!!」
拳が顔面に入った。
「ぐぁっ!」
視界が揺れる。
「ほんと中国人とか汚くて無理~」
「しかも犬食べるんでしょ? マジありえないんですけどぉ」
「ち、違う……僕は――」
ドカッ。
顔面を蹴られる。
「うるせーよ。喋んな。菌が移る」
「……っ」
零は地面に手をつき、立ち上がろうとした。
「……なんで」
膝が震える。
それでも、立つ。
「俺は……何もしてない……!」
声が震えた。
「俺はやってない!」
「だから、うるせえって!!」
拳が飛んでくる。
「中国人は嘘しかつかねえんだろぉぉ!!」
殴られる。
倒れる。
それでも、零は顔を上げた。
「……俺は……」
「おい」
不良の一人が、周囲を見渡す。
「そこにあるやつ取れ」
「はーい」
一人の女子が、近くに置かれていた鉄パイプを拾い上げた。
それを男へ渡す。
「お、俺は……」
零が何かを言おうとした。
「だから、うるせえって」
――ゴツッ。
鈍い音が響いた。
「正義執行完了っとw」
頭に衝撃が走る。
一瞬、何が起きたのか分からなかった。
次の瞬間。
温かいものが額を伝っていく。
「……あ」
血だ。
零の身体から力が抜けた。
地面が近づいてくる。
『痛い……』
倒れる。
『痛い……』
視界が滲む。
『もう……嫌だ……』
音が遠ざかっていく。
「おい……これ、やばくない?」
「はぁ? どうせまた時間が経てば起き上がってくんだろ」
声が遠い。
身体の感覚がなくなっていく。
『みんな……俺のことが嫌いだったのかな』
瞼が重い。
『……そうだったんだ』
意識が沈んでいく。
『俺が……中国とのハーフだから……?』
もう何も考えられない。
……いや。
一つだけ。
何かが頭に引っかかった。
『……そういえば』
誰かがいた。
この数ヶ月。
自分が笑われて。
無視されて。
殴られて。
それでも――
一度も笑わなかった人。
心配そうに見つめてくるあの人。
『……一人だけ』
誰だった。
『名前……』
思い出せない。
『……なんだっけ』
もう、どうでもいい。
そう思った瞬間――
零の意識は、完全に途切れた。
ダ……ダ……ダ……ディン
ダ……ダ……ダ……ディン
『んんん……真っ白だ』
零は、ぼんやりと目を開けた。
どこを見ても白い。
床も、壁も、天井もない。
ただ、果てのない白だけが広がっている。
『ここは……?』
身体を動かそうとする。
けれど――動かない。
いや。
動かないというより、身体そのものの感覚がなかった。
手も、足も、指先も。
何も感じない。
『……何もない』
零は少しだけ考えた。
『俺……死んだのか?』
その瞬間だった。
頭の中に、かすかな声が響いた。
「……なさい」
『……え?』
零は辺りを見回す。
「……上がりなさい」
『何て言ってるんだ?』
声の主は見えない。
男なのか、女なのか。
どこから聞こえているのかさえ分からない。
「立ち上がりなさい」
『ねぇ! ほんとに誰なの!?』
返事はない。
「立ち上がりなさい」
『立ち上がれって言ったって……俺、身体の感覚がないんだけど!』
「意識するのです」
声が、静かに響く。
「さすれば、立ち上がれるでしょう」
『……意識?』
意味が分からない。
けれど、他にできることもない。
『なんなんだよ、意識って……』
少し考えてから、零は諦めたように息を吐いた。
『まあいいや。とりあえず、やってみるか』
目を閉じる。
自分の身体があるはずの場所へ、意識を集中させる。
手。
足。
胴体。
一つずつ、自分の存在を探していく。
『……何もない』
さらに集中する。
『……いや』
ほんのわずかに。
何かが触れた。
『……足?』
そこへ意識を集中させる。
すると――
地面に触れている感覚が、少しずつ戻ってきた。
『……ある』
足がある。
地面がある。
自分の身体がある。
『こういうことか……?』
零は恐る恐る、身体を起こした。
そして――
「……立った」
自分の足で、確かに立っていた。
「そうです」
声が響く。
「再び、立ち上がるのです」
『……再び?』
その言葉を聞いた瞬間。
目の前に広がっていた白い光が、ゆっくりと薄れていった。
『……なんだ?』
白が消えていく。
その向こうから、何かが見えてくる。
壁。
床。
天井。
そして――
「……」
零は目を見開いた。
『……ここ、どこだ?』
そこは見知らぬ部屋だった。
木でできた家具。
見たことのない模様が刻まれた壁。
窓から差し込む光も、どこか見慣れない。
『家の中……なのか?』
零は周囲を見回した。
『一体、誰の家なんだ?』
その時。
「∫-√-⊕-∠-∑-⨁……!」
突然、聞き慣れない声が響いた。
『……ん?』
零は声のした方を向く。
「∠⊕∫-⨁-√-∑-∠∫-⊕-∫……!」
『なんだ? 誰かいるのか?』
そこには――
二人の人影が立っていた。
いや。
正確には、人間なのかどうかすら分からない。
零は二人を見上げた。
『……でかい』
あまりにも大きい。
顔が高すぎて、よく見えない。
『なんなんだ、この二人……』
二人はこちらを見下ろしている。
そのうちの一人が、ゆっくりと零へ近づいてきた。
そして、顔を覗き込むように身をかがめる。
「∫-√-⊕-∠-∑-⨁-∫-∠-⊕?」
聞いたことのない言葉。
意味がまったく分からない。
「⊕-√-∫-∠-⨁-∫-∑-⊕-∠?」
『な、なんて言ってるんだ……?』
さらに顔が近づいてくる。
零の視界いっぱいに、その人物の身体が入った。
『……うわ』
思わず後ずさる。
しかし――
「うわぁっ!」
足がもつれた。
ドサッ。
零は尻もちをついた。
『痛てて……』
目を閉じる。
すると、すぐ近くから慌てたような声が聞こえた。
「∫-√-⊕-√-⨁-∫-∑-∠?」
『……ん?』
零はゆっくりと目を開けた。
そこには、先ほどの女性らしき人物の顔があった。
近い。
あまりにも近い。
そして零は、あるものに気づいた。
『……ん?』
額。
そこに――
二本の突起が生えている。
『……ツノ?』
目を凝らす。
『いや……』
どう見ても、ツノだった。
『なんで……?』
零は恐る恐る手を伸ばした。
そして、そのツノに触れようとした瞬間――
『……ん?』
違和感。
『俺の手……?』
自分の手を見つめる。
小さい。
あまりにも小さい。
指も短い。
手のひらも、以前の自分のものとは比べ物にならないほど小さい。
『……なんだ、これ』
零は両手を見つめた。
何度もひっくり返す。
握って、開く。
間違いない。
これは自分の手だ。
『……いや』
背筋に、嫌な予感が走った。
零はゆっくりと自分の身体を見る。
服。
身体。
足。
何もかもがおかしい。
『……俺、こんなに小さかったか?』
女性が、不思議そうに零を見つめている。
そして、零の額を指差した。
「∠-⊕-∫-∑-√-⨁-⊕-∫?」
『……額?』
その仕草につられて、零も自分の額へ手を伸ばす。
指先に、何かが触れた。
小さな突起。
一つ。
そして――もう一つ。
『…………』
零は固まった。
恐る恐る、もう一度触れる。
硬い。
明らかに人間の肌ではない。
『……まさか』
心臓が大きく跳ねた。
『いや……そんなわけ……』
零は自分の額にある二つの突起を、何度も触った。
『や、やっぱり……!』
間違いない。
自分にも――
ツノがある。
『……俺は』
零は目の前の女性と、自分の小さな手を交互に見た。
『一体……何になったんだ!?』
第一話を読んでくださりありがとうございます。これから絶対に面白い展開を書いていくのでどうぞよろしくお願いします。




