言葉
事件は無事に解決したでしょうか?
亘の進言により、元北星銀行の社員であり、下条エンジニアリングの専務であった冨永猛と岸田エンジニアリングの経理部長澤本による収賄が発覚した。3社を巻き込んだ犯行である。
主犯は冨永で、澤本の受けた金銭は冨永のそれと比べると、実に微々たるものであったという。
「ダージリン・セカンドフラッシュお願いします。キャピタル農園がいいです」
茉莉香は力なく言った。
思いもよらぬ形で、茉莉香に対するいじめの原因もわかった。
澤本は、いじめの主犯格のクラスメイト澤本知佳の父親だった。知佳は、茉莉香の父親が収賄の片棒を担がせたと思っていたのだ。
それも無理はない、一時は、上層部は茉莉香の父親を疑っていた。彼は濡れ衣により、まさに、生きるか死ぬかの瀬戸際にいたのだ。
澤本は妻が病気で、保険のきかない治療費のため金が必要だった。恐らく捕まるのは覚悟していただろう。ずさんで稚拙な手段からそれがうかがえる。
知佳の母親は回復するのだろうか?
それがなければ救いがない。
そして、もうひとつ問題が起こった。
由里が店を閉めると言い出したのだ。
きっかけは、長男のクラスで学級崩壊が起こったことだ。
それは、カラボスの息子の教師に対する質問攻撃から始まった。
中学受験の最先端のテクニックによって鍛えられた頭脳には一介の教師では太刀打ちできなかった。その行動は、なぜか他の生徒にも伝搬し、教師は休職に追い込まれた。
なぜそんなことになったのか。偶然が重なっただけかもしれないが、何か理由があるのかもしれない。
このまま地元の公立中学に進学すると、問題のある生徒たちと同じクラスになってしまう。
「このあたりの学校は、大丈夫だと思っていたのだけど……」
由里は嘆く。
長男をそれなりの私学の中学に入れるために、すぐにでも受験のための準備を親子でしなくてはいけない。それが閉店の理由だ。2年後には長女も同様である。もう店の経営は無理だという。
ところがだ……
「実は僕、調理師の免許を持っていまして……親父になんでもいいから役に立つ資格を取れって何年か前にいわれてとりました」
調理師になるためには、実務経験も必要だが、
「学生時代にカフェでバイトをしたことがありますので大丈夫です」
ということで、由里をオーナーのままとし、亘が店長という形で店を引き継ぐことになった。
「ただ、いろいろ準備もありますし、茉莉香ちゃんももうすぐ学校に戻るし、しばらくは休業したいと思います」
出来れば、夫の仕事を手伝って欲しかった由里には不満もあったが、これは亘にとって、良い事のような気がした。少なくとも今までよりはずっといいと思った。
由里への慰労、店の休業、亘の新店長就任……それらを含めて
お茶会を開くことが決まった。立食形式でサンドイッチやオードブル、デザートを提供することとなり、亘と茉莉香は食材の買出しに出た。
帰りに近道だから公園を横切ろうという話になった。
銀杏の木が黄色く色づき、足元に落ち葉が広がっていた。中央にはボートの乗れる池があった。
「もう、こんな季節なんですね」
「あ、あの……私、いろいろ考えたんです」
落ち葉をかさかさと踏みながら茉莉香は言った。
「私、何も知らなくて・・・・知佳の気持ちも、パパとママが私に一人暮らしをさせたのも、パパのことで心配させたくなかったんじゃないかって……それなに、私自分のことばかりで手いっぱいで……」
「久美子さんは体調を崩しながらも、自分の役割を果たしてたわ。それに比べて、私はなにもできなかったの。学校や両親の言うとおりに流されてしまって、クラスメイト話し合おうともしないで、ただ逃げてたの。まるで人形みたい!」
亘は黙っている。
「これからもっと、自分の人生についてちゃんと考えなきゃって……それで、別の大学に行こうかなって」
「今からじゃ難しくない?」
「ええ、でも、誰か私と同じように学校に行けない人を助けるとか、そんなお仕事に就こうかって……心理学とか勉強して」
空がどんよりと曇り、今にも雨が降りそうだった。
「ボートに乗らない?」
池にはふたりの乗ったボートだけだった。
これから天候が崩れそうだからだろうか?
池の中央まで漕ぎ出す。
亘は茉莉香の親切さ、優しさ、明るい笑顔を思い浮かべた。
人を助けたいという気持ちは心からのものだろう。
だが、彼女がそれを仕事にすることができるだろうか?
複雑な問題を抱えた人間たちに係わり続けることができるだろうか?
また、浪人をするということが、彼女の人生にどんな影響を与えるだろうか?
「茉莉香ちゃんは本当にそうしたいの?」
「でも、私このままじゃいけないと思うんです」
「もし、何か責任を感じているなら、その必要はないよ。つらい経験をしたかもしれないけど、過去の話だ」
霧雨が降ってきた。目に見えないくらい細かいのに、ベールのように視界をふさぐ。岸からはボートに乗った二人は見えないだろう。
「でも、でも、私……」
自分にこのようなことを言う資格があるのか?これからどうしたらいいのか、わからない自分が。研究を極めて世の中を変えたいと思ったこともある。そして、それが不可能であることがわかり、それでも諦めることができないまま、とりあえず由里の店を手伝うことにした自分に。
だが、今できることがあり、それはこの目の前の少女の手助けをすることではないか?
「今は、何かを決断するのに相応しいときじゃないと思う。いろいろなことがいっぺんに起こって混乱しているんだ。まずは学校に行って、勉強したり、いろんな人に会って経験して、落ち着いてから考え直したほうがいい」
「茉莉香ちゃんは茉莉香ちゃんのままでいいんだよ。」
茉莉香は雨と涙にぬれた顔をあげた。
「アナタハアナタノママデイインデスヨ」
カウンセリングルームで繰り返し言われたことだった。
そのときは、金属が擦れ合うことで偶然できる単なる音声のように、茉莉香の横を通り過ぎ、受入れることはできなかった。
「“茉莉香ちゃん”」
これは亘自身が茉莉香に向けた言葉だった。言葉は温かさを持って茉莉香に寄り添った。
茉莉香は膝を抱いてうつむいた。
「このままでいいの?」
霧雨の中、顔を膝につけたまま肩を震わせていた。
まずはここまで読んでいただいてありがとうございました。




