第十一幕 ライブハウス「ブルームーン」
十二月に入り、街はすっかり華やかなクリスマスの装いに包まれていた。街角に飾られたツリーやイルミネーションが、冬の冷たいアスファルトを暖かな光で照らし出している。
そんな週末の金曜日の夜。
昼間の須弥山総合病院での激務から解放された眞琴は、伽羅とともに、馴染みのライブハウス「ブルームーン」のステージに立っていた。店内には大きなクリスマスツリーが飾られ、ほのかにモルドワイン(シナモン風味のホットワイン)の香りが漂っている。
眞琴は愛用のGibson L-5をHenriksenのアンプに繋いでいる。伽羅は自前のSennheiserのマイクを立てて歌っている。今夜の二人の演奏は、暖かな雰囲気に包まれつつも、いつも以上に研ぎ澄まされていた。
眞琴の奏でるギターは、決して音数が多くはない。空間の余白を愛し、一音一音の陰影を丁寧に置いていくような、聴く者の胸の奥にじわりと染み込んでいくタイプだ。そしてその繊細な弦の響きに、伽羅の、静かに、丁寧に、思うままにメロディを紡ぎ上げる天性の歌声が重なる。どこまでも純度の高い、その隅々まで丁寧な響きが、クリスマスを待つ観客たちの疲れた心を優しく溶かし、その場の空気を心地よい一つの波へと変えていく。
音楽とは、他者と優しく繋がり、イメージを共有するための美しい対話である――眞琴は自身のプレイを通して、静かにそう確信していた。
セカンドステージが終わり、温かい拍手に包まれながら二人が短い休憩を取ろうとした、その時だった。
客席の最前列から、小ぶりなギグバッグを肩にかけた若手のギタリスト、一ノ瀬匠が、迷いのない足取りでステージへと近づいてきた。
「シットインさせてもらってもいいですか?」
その鋭い双眸に、眞琴への強烈なライバル心と挑戦的な光をぎらつかせ、彼はステージを見上げた。
眞琴と伽羅は一瞬、驚いて顔を見合わせたが、すぐに無言で頷き合った。
「ああ、構わないよ。一曲やろう」
匠はアンプに自分のシールドを差し込み、愛用のGibson Byrdlandを構えた。曲は彼のリクエストで『Beautiful Love』。カウントが入り、眞琴がイントロを出すと、まずは伽羅の静かで丁寧なボーカルから曲が始まった。
だが、その次の瞬間から眞琴の心には冷たい火花が散り始めた。
匠は、眞琴が愛する伽羅の歌のバックに、メロディの隙間を埋めるように、不必要なオブリガートをこれでもかと詰め込んでくる。明らかに手数が多すぎるのだ。その派手なフレーズは、伽羅が紡ぎ出そうとしている静謐な世界観をあからさまに侵食し、潰していた。そして眞琴のフルアコ特有の豊かなエア感を持つL-5の響きも、匠のByrdlandの硬く速いアタック音によって暴力的に塗りつぶされていく。
(……ああ、若いな。大切な響きも空間もあったもんじゃない)
眞琴は心の中で奥歯を噛み締めた。だが、ステージの上だ。眞琴は「大人の先輩」としての仮面を必死に貼り付け、顔には出さずにリズムを刻み続けた。
やがて伽羅の歌が終わり、アドリブソロが匠へと回った。
その瞬間、匠の指先が爆発した。そのテクニックは見事だった。目の覚めるような速弾き、難しいポジションのコードワークも難なくこなし、一音のピッキングミスもない、極めて正確なプレイ。……しかしそれはもはやセッションではなく、完全に自分一人の技術を誇示するための、圧倒的な曲芸のワンマンショーだった。
眞琴は辟易した。今すぐギターを弾く手を止め、伴奏を放棄してしまいたいという衝動に駆られた。
隣を見ると、伽羅も匠のその人間離れした超絶技巧の指先に、完全に呑まれて圧倒されていた。その大きな瞳を見開き、匠のワンマンプレイに釘付けになっている。
それを見た瞬間、眞琴の胸の奥で、ドロドロとした黒い感情がさらに二重三重に膨れ上がった。
これは音楽ではない、と先輩として後輩を教育するために、ここで伴奏をやめてステージを破綻させることもできる。そうすれば、あいつの幼稚さが浮き彫りになる。だけどそんなことをすれば、今度は眞琴自身が「若い才能に嫉妬して嫌がらせをした大人気ない先輩」になってしまう。そんな惨めな真似もしたくない。プロとしてのプライドと、男としての醜い嫉妬の狭間で、眞琴の精神は激しくのたうち回った。
「くそっ……!」
眞琴は内心の毒をすべて飲み込み、大人気ない衝動を力技で抑えつけながら、匠のソロを支える最低限のバッキングを狂いなく刻み続けた。
客席の反応は爆発的だった。観客たちは匠の超絶技巧に完全に目を奪われ、息を呑んで見入っていた。ソロが終われば一際大きな拍手喝采。そしてその一曲が終わった瞬間には、ライブハウスはこの日一番の大歓声に包まれた。
すべての演奏が終わり、興奮の余韻に包まれた観客たちが、上機嫌に匠の超絶技巧を噂し合いながらライブハウスを去っていく。
ガタガタと椅子の片付けられる音が無機質に響くがらんとした店内の片隅で、眞琴は愛用のGibson L-5をハードケースに収めながら、胸の奥底で渦巻くドロドロとした黒い感情に、激しい嫌悪感を覚えていた。
あんなものは音楽なんかじゃない、ただのマウンティングだ――。
重い足取りで歩く、ライブハウスからの帰り道。冬の澄んだ夜空には凍てつくような星々が輝き、街路樹に輝くイルミネーションの光が、二人の足元を明るく照らしていた。すっかり落ち込んで無口になった眞琴の様子を察したのか、隣を歩く伽羅が、コートのポケットに手を突っ込んだまま、白い息を吐きながら夜の空気を弾ませるように明るく言った。
「私は、眞琴のギターが断然好きですよ? 暖かくて、なんかこう広がっていく感じがして、私の歌には眞琴のギターでないとダメみたいです。えへへ」
隣で照れくさそうに笑う彼女の言葉は、眞琴の傷ついたプライドを温かく包み込んだ。気落ちしていた彼には、その優しい気遣いが何よりありがたかった。その純粋な好意を受け取って、眞琴の頭脳に徐々に明晰さが戻る。その時、脳裏にかつて貪るように読み込んだ、古い精神世界の本のタイトルが浮かび上がった。
――ジェームズ・レッドフィールドの「聖なる予言」。
あの本の中に、人間の人間関係における不毛な衝突の正体を鮮やかに解剖した「コントロールドラマ」という概念がある。人は幼少期の家庭環境などを通じて身につけた四種類の行動パターンによって、無意識のうちに他者を支配し、精神的なエネルギーを得ようとする――という考え方だ。
他者を大声や暴力、圧倒的な力でねじ伏せて支配しようとする「脅迫者」。
質問攻めにして相手の落ち度を暴き、罪悪感を植え付ける「尋問者」。
心を閉ざしてわざと一歩引き、ミステリアスな態度で相手の気を引こうとする「傍観者」。
自分の不幸やかわいそうな境遇をアピールして同情を買おうとする「犠牲者」。
「……あいつは、剥き出しの「脅迫者」だったんだ」
眞琴はハードケースを載せたキャリーカートを引く手を緩め、冷たい冬風が背中を伝うのを感じた。
一ノ瀬匠がステージの上で見せた、あの引き算を知らない過剰なまでの超高速の速弾き。あれは単なる若さゆえの自己顕示や技術の誇示ではない。眞琴には彼が、あの本が言うところの、他者を圧倒し、ねじ伏せ、ひれ伏せさせることで、観客や僕たちから強引に精神的なエネルギーを分捕ろうとする「脅迫者」のドラマそのものに見えたのだ。
そして、それに対して自分が発動させたドラマの正体は、何だったか。
ステージを破綻させたくないという大人のプライドの仮面を被り、感情を押し殺して冷めた目で一歩引き、心の中で「幼稚だ」「音楽ではない」と相手を冷酷に見下していた僕のこの態度。
これこそが、典型的な「傍観者」のドラマではないか。
「脅迫者」に対して「傍観者」を決め込み、相手を心の中で密かに見下すことで、自分のエネルギーを奪われるのを防ぎ、逆に「僕の音楽観の方が高尚で正しい」というエゴを満足させようとしていたのだ。
他者のエゴを冷酷に「検証」しているつもりの自分が、実は誰よりも醜いエゴの泥仕合に囚われていた。
眞琴はふと、脳外科医の河野のことを思い出した。もしかすると、あの河野に対する憤りの感情も、自分の中の何かを奪われんとするがためのコントロールドラマだったのではないか。河野は確かに非情ではあるが、それは数多くの命を背負う外科医としてごく自然な立ち振る舞いだったのかもしれない。
冬のイルミネーションが、冷たい舗道を鮮やかに彩っている。
(いや……違う。僕のこの思考そのものが、すでに歪んでいるんだ)
ふと、眞琴は自分の浅い呼吸に気づき、ハッと息を呑んだ。
そうやって目の前の出来事や人間関係のすべてを理論で解釈し、きれいに分類して「理解した」気になっていること。それ自体が、己の気づきや論理を絶対の真実だと信じ込み、他人を頭の上から見下して防衛しようとする、自分自身の冷酷な独善そのものではないか。
匠の攻撃性も、河野の冷淡さも、そして自分自身の醜さも、すべてを論理のフレームに押し込めて裁こうとしていたのは、他ならぬ自分だったのだ。
思考を重ねれば重ねるほど、世界から自分が切り離されていくような、どこまでも暗く冷たい孤独感が胸を締め付ける。
「……眞琴?」
足取りの重くなった眞琴の異変に気づいたのか、歩幅を合わせていた伽羅が立ち止まり、覗き込むように顔を覗かせてきた。
「どうしたんですか? 顔色、すごく悪いですけど……」
「あ……いや。なんでもないよ」
眞琴は必死に声を整えようとしたが、コートの襟元をかき寄せる手がわずかに震えていた。
「あの……さっきの一ノ瀬君の演奏のこと、考えてましたか?」
伽羅はコートのポケットに手を突っ込んだまま、夜空を見上げて小さく首を傾げた。その表情には、いつもの穏やかさと、どこか素朴な戸惑いが浮かんでいる。
「世の中には、あんな風に音楽をとらえている人がいるんですね。……音がひとつも途切れなくて、息つく間もなく隙間が全部埋まっていて」
「……嫌じゃなかったかい? 君の歌の邪魔をされるような演奏をされて」
「正直いうと、私の居場所がありませんでした。私たちが大切にしている歌心とか、情景とか余白の響きとかとは、彼は全然違う場所を目指して音楽に取り組んでいるんですね」
さらに伽羅は続けた。
「嫌とかじゃないですけど……パフォーマンスとしての価値はすごくあると思います。彼はきっと毎日孤独にもの凄い練習をしてるんだろうな」
伽羅は優しく微笑みながらそう言って、自分の吐いた白い息を追うように、夜の空気を柔らかく見つめた。
「でも、どれだけ心を込めて歌っても、どれだけ良い音を鳴らしても、あの場所には誰も入れないのかなって感じました……。だから嫌とかじゃなくて、ちょっとだけ、寂しい気持ちになっちゃいました」
その言葉を聞いた瞬間、眞琴の胸の奥で、カチリと音がして冷たい鎧が崩れ落ちた。
自分は「脅迫者だ」「傍観者だ」と難解な理論で武装し、匠を、そして自分自身を冷酷に断罪していた。だが伽羅は違った。彼女は理論など何ひとつ知らなくても、他人を裁くことなく、ただ彼の足元に広がる「寒さ」や「孤独」を、生の人間としての肌感覚でそのまま感じ取っていたのだ。
(僕は……頭のなかで言葉をこねくり回して、勝手に世界から孤立していただけだったんだ)
己の気づきを絶対視し、論理の城に閉じこもる自分の独善的な孤独を溶かしてくれたのは、高度な知性や精神物理学などではなかった。目の前で白い息を吐きながら、世界をありのままに慈しむ、伽羅の圧倒的な「人間としての温もり」そのものだった。
「……そっか。彼は寒そうだったか」
「はい。だから私、やっぱり眞琴のギターが好きだなって思ったんです。眞琴の音は、すごく暖かいから」
伽羅はふふっと小さく笑うと、歩道に飾られたイルミネーションの光の中へと一歩踏み出した。
「ねぇ伽羅?」
「はい?」
「僕は一ノ瀬に何かエネルギーを奪い取られたような感じがしたんだ。ある本ではそういうエネルギーの奪い合いをコントロールドラマと呼んでるんだけど……」
「私も聞いたことがあります」
「うん、それでね、いったい僕は彼に何のエネルギーを奪われたんだろう、と考えていたんだ……」
「ああ、はい」
「僕たち生き物は、本能的に「死」につながることに恐怖心を抱くと思うんだ」
「はい、そうですね」
「僕は一ノ瀬にエネルギーを奪われたと感じたとき、それはつまり、突き詰めると「死」につながるような危険を、直感的に感じた、ということなんだと思う」
「ふふふ、極論ですね。でも、なるほど。それで?」
「ははは。それでね、僕の考えでは、「死」というは「個」としての自分が消えてしまうことであり、それはつまり自分の「渦」が消えてしまうことなんだよ」
「はい。みんな必死に渦を保とうと頑張ってるんでしたね」
「そう。僕は一ノ瀬に、自分の「渦」が消されてしまう危険を感じた、ということなんじゃないかな」
「なるほど。理解しました」
「コントロールドラマというのは、渦の消し合いなのかもしれない」
「なるほど。確かにそうかもしれません」
眞琴はしばらく考えを巡らせていたが、やがて何かを確かめるように口を開いた。
「僕たちがステージで演奏していて、時々、迷いがいっさい消えて一つになれるとても気持ちのいい瞬間があるよね」
「はい!私はそれがあるからやめられません」
「ははは、僕もそうなんだけど、たとえばスポーツ選手が「ゾーンに入る」っていう瞬間とか、あと深い瞑想の中で宇宙と一体になる感覚とか……いわゆる「変性意識状態」っていうらしいんだけど……」
「はい」
「意識がいつもより格段に明晰になって全知万能な気分になるんだよね。そのときはたぶん、「渦」の回転速度が上がってるんじゃないかな」
「おお、なるほど。渦の回転速度は生命力? というか生きる力、んー、活力?」
「そうそう。逆にエネルギーを奪われると回転速度が落ちる。そう考えるとそれが「渦」の消滅、つまり「死」につながるから本能的な恐怖を抱く、それが怒りや憤り、競争心や対抗心となって顕在意識の表面に浮上するんじゃないかな」
「ああ、なるほど。世の中には高飛車な人とか傲慢な人とか、いろんな人がいますものね。私もイラッときたりムカッとしたりする時があります。人間関係に疲れる原因ですね」
「あはは、伽羅もそんな時あるんだな。そうそう、そんな感じだね。……そう、認知症や臨死体験なんかは、渦の回転速度が低下して消えかかっているってことなんだろうな」
公園の脇道を歩く二人の目の前に、小さなつむじ風が渦を巻いた。枯葉が何枚か巻き上げられ、クルクルと回転してから舞い落ちた。つむじ風は、何事もなかったかのように消えていた。
二人はしばらく、その場に目を向けていた。それから、互いに寒そうに肩をすくめた。
「眞琴? 早く帰りましょう。私たちまで凍えちゃいますよ」
「……そうだね。帰ろう」
彼女の背中を追いかけながら、眞琴は静かに息を吸い込んだ。
キャリーカートを引く眞琴の手から、あの刺さるような重苦しさはすでに消えていた。二人の足音が並んで響き、冬の夜の静寂の中に、優しく柔らかなリズムを刻んでいった。
【気づき】
《コントロールドラマ》……人間関係の摩擦や支配欲の正体とは、他者にエネルギーを奪われ自分という「個の渦」が消失することへの、本能的な死の恐怖のあらわれなのではないか。
《渦の回転速度》……意識の変性状態とは一様ではなく、歓喜や集中によって「個の渦」の回転が高まる「生命力の最大化」と、離脱や弛緩によって回転が衰えていく「還元の始まり」のふたつが存在するのではないか。




