逃げる生徒の活路
教室から脱出した生徒のほとんどは、階段を駆け下りた。深い考えがあるわけではなく、前にならっているだけ。
だから、上で物音がしても立ち止まらない。
足元に走った亀裂さえ、気がつくのは大きくなってからだった。
亀裂が入ったのは、2階へ辿り着き、1階へ続く階段に先頭を行く生徒が踏み込んだ瞬間。それに気がついたのは、誰かが隙間に足を取られてからだ。
「わッツ!」
後ろにいた生徒達は立ち止まり、前にいた生徒達は駆け抜ける。逃れることが出来なかったのは、足を取られたひとりだけ。
階段は瓦礫ではなく砂塵にその姿を変え、彼を飲み込んだ。
「らんが!」
誰かが呼びかけるが、返事はない。
残った生徒達の間に沈黙が訪れる。
だが、黙っていても状況が好転する訳では無い。最初にそう思い至ったのは先頭を行っていた荒瀨だった。
「あたしらはこのまま下に行く。あんたらも非常階段から降りてきな」
言うだけ言って、階段を駆け下りる。返事を待つとか、後ろを振り返るとか、そんな余裕は全くなかった。
階段を降りてもその足は止まらない。
いつもよりも長く感じる廊下を走り抜け、広いフロアにたどり着いたところで、ようやくその足が止まった。
玄関のすぐ近くまで来たことで、危機感が安心感を下回ったのだ。
「……離れ、離れに、なっちゃったね」
「……向こうは、大丈夫、かな」
ついてきた2人――世緋と優奈が息も絶え絶えに口を開く。全力疾走をしたせいか、それほど長くない距離であったはずなのに、額には大きな汗の雫が浮かんでいた。
「蘭雅……」
「やっぱり、気がかり?」
優奈が心配そうな表情で覗き込んでくる。蘭雅のことが気がかりなのは図星だが、不安を広げても仕方ない。
「蘭雅なら大丈夫っしょ!」
荒瀨は笑ってごまかした。
「それより、早く外に出よっ!」
明るい声で言って、走り出す。こんな状況でも明るい声が出ることに、彼女は人知れず驚いていた。
「待ってよ、ほむー」
世緋が慌てて走りだす。
「ほら、遅いぞっ」
「ほむらが速いんでしょ」
優奈も呆れたような笑顔でついてくる。
荒瀨は2人に追いつかれないように速度を上げた。声は明るく出せても、表情をしっかりと繕えているかは自信がなかったのだ。
「ほらほら、置いてくぞっ」
傍から見れば元気そうに、荒瀨は短い距離を全力で走った。
そして、
「開かない……」
玄関にたどり着いた3人はガラス戸の前で立ち尽くしていた。本来なら押しても引いても簡単に開くはずのガラス戸が、3人がかりでもびくともしないのだ。
ガラス越しに見える空は、まるで3人の心情を表現しているかのように、黒い雲に覆われていた。
「ど、どうしよう……」
世緋は声を上ずらせて、頭を抱える。そうしたい気待ちは荒瀨にもわかるが、そんなことをしていても問題は解決しない。
一方、優奈は慌てることもなく下駄箱へと戻っていった。
3人は上靴のまま飛び出してきている。外靴に履き替えるというのは間違ってないかもしれない。
「靴替えてる場合じゃないよ、優奈」
「違うってー」
そう言うと、優奈は自分の下駄箱からスチール製の板を取り出した。下駄箱の上下を区切っている板だ。
「こうするの!」
大きく振りかぶって、スチール板を投げる。スチール板は縦回転しながら飛んでいき、ガラス戸に当たって床に落ちた。
「だめかぁ……」
綺麗な投球フォームもとい投板フォームだったが、状況の改善には至らない。
「優奈、ごめん」
彼女は彼女なりに開ける方法を考えて、動いた。その事に気づけなかったことを謝罪。
「いいっていいって、それより他の方法考えよ?」
優奈は笑顔で受け止める。
「うんっ。ほーら、世緋も考えるぞ」
項垂れる世緋に喝を入れ、ガラス戸を開ける方法を探す。
「これは?」
世緋が持ってきたのは、誰の黒くて大きい革靴だ。
「さすがにそれは無理だよ」
荒瀨が否定する。それでも、やってみなければわからないとばかりに世緋は革靴を履いた。
「えいっ!」
履いて蹴る。
ガラス戸はビクともしなかった。
「これなら、どう!」
優奈は傘立てに置いてあった傘でフルスイング。威勢のいい音がして、傘が折れた。ガラス戸にはかすり傷すらもついていない。
「だめかぁ……」
優奈は長いため息をついて、折れた傘を投げ捨てた。
「2人とも、使ったものは戻そうよ」
小声で呟きながら、荒瀨は靴べらを手に取った。壊すのではなく、こじ開けようと思ったのだ。
靴べらをガラス戸の隙間にあてがっーー
「あれ?」
ガラス戸の隙間より、靴べらの方が厚みがある。荒瀨の作戦は実行する前に破綻した。
◇
「あたしらはこのまま下に行く。あんたらも非常階段から降りてきな」
そう言い残して荒瀨は階段を駆け下りていく。崩れた場所の向こう側にいた円と巴もそれに続き、2階の踊り場には5人の生徒が残された。
「どうしよう」
不安そうに呟いたのは美唯だ。
事実として不安なのだろう。それも、その場に留まっていたからって解決する問題ではない。教室にいる明智も、どこかに潜んでいる魔術師もどう動くかはわからないのだ。
「非常階段は一応2つあるから、2手に別れるか」
玲騎がどちらかではなく、どちらにも行くことを提案した。その意見に、皆が頷く。
「じゃあ、ぐーちーでいくか」
成の提案に反対する人はなく、ぐーちーによってチーム分けが行なわれた。2手と言っている以上、5人の別れ方は3対2である必要がある。そして、唯一の女子である美唯は3人側のほうがいいだろうというのは、誰も口にしないが共通認識だろう。
チーム分けが難航する可能性は十分に考えられた。
だが、幸か不幸か、チームは1回目で決まった。
「で、なんでおまえとペアなんだよ」
「知るかよ」
ただし、成は納得していない。そしてそれは隣を走る玲騎も同じようだ。
2人は普段から同じグループに属してはいるが、基本的に相手のことが好きではないのだ。嫌いなわけではないのだが。
「それより、足を引っ張るなよ」
「おまえがな」
他の人から言われてもそれほど気にしないようなことでも、玲騎に言われると何故か気に食わない。だから、棘を含めて言い返す。
「は? 俺がいつお前の足を引っ張っていうんだよ?」
「でた。めんどくさいやつ」
「俺は根拠を求めてるだけだ。証拠出せ、証拠」
「うるさいうるさい」
何か言えば、強く言い返される。それが気に入らなくて、成は嫌味を返す。いつもなら颯大や真が止めてくれるのだが、その2人はここにいない。
「いいから、いこうぜ」
成は強引に話を終わらせた。
「お前から始めた話だろーが……」
玲騎はブツブツと文句を呟きながらも、その後ろに続く。そして、1歩前に出た。
成は1歩の歩幅を大きくし、玲騎の1歩前に出る。
玲騎も負けじと速度を速めて、1歩前に出た。
スピードを上げながら、2人は無言の戦いを続ける。
2人が向かっているのは外には繋がらないほうの非常階段だ。ただし、3階のピアノ室から1階のゴミ捨て場を繋ぐ階段であり、普段から使う人もいるため、反対の階段に比べると状態はいい。
欠点は、直接外に繋がらないということ。それから、非常階段に行くために美術室を通り抜けなければいけないというのも、今回は欠点といえるかもしれない。
魔術師はどこに潜んでいるかわからないのだ。
「入るぞ」
美術室に先に着いたのは、玲騎だった。
「ドアをこわすなよ」
1歩の差とはいえ負けたのが気に入らない成はそう答える。当然、玲騎としては気に入らない答えだったのだろう。
「お前じゃないんだから、誰が壊すかよ」
普段と変わらない悪態を返しながら、玲騎は美術室のドアを開けた。