魔術師の影が迫る
中は、普段通りのごく普通の美術室だった。
石膏や絵画が襲ってくることはない。美術の授業で訪れるときと何ら変わらない風景がそこに広がっていた。
成は玲騎の陰から美術室を見渡し、非常階段の在処を探す。
「どこだったっけ」
「非常階段は美術準備室を抜けた先だ」
玲騎が成のこぼした呟きに答えた。疑問が解消されたことは嬉しいが、教えてもらったことが気に入らない。
「しってるし」
強がるようにそう言ってから、美術室へと踏み込んだ。
「あっそ」
玲騎は動かない。
成は美術準備室がどっちにあるかがわからず、入って数歩で立ち止まった。
「はやくしろよ、れいき」
閉めたドアの前から動かない玲騎に声をかける。
「ここで見張ってるから、先に行けよ」
玲騎は腕を組みながら答えた。知っているのが嘘だと見破ったうえで、自発的に言わせようとしている。成はそう感じた。
「いいから、いくぞ」
だが、成は認めたくない。
美術準備室の中にあることも知らなかったというか、そもそも美術準備室なる部屋の存在すら今初めて知った。それは純然たる事実だが、認めてしまえば玲騎に負ける。
そんな思いがあった。
「おい、れーき。うごけよ」
美術室の真ん中の辺りをぐるぐると歩き回りながら、成は玲騎が動き出すのを待つ。
その瞬間は、期せずして訪れた。
「なあ、れー」
「危ない!」
振り返って名前を呼ぼうと瞬間、玲騎に両手で突き飛ばされる。バランスを崩してズレた視界に一瞬、いやに立体的な天井が映った。
「いつっ!」
受身を取ることも出来ずに倒れてしまい、床に後頭部を打ちつける。すぐには起き上がれないくらい痛かった。
「……はっ。無事かよ、成」
足元で玲騎の声がする。だが、姿は見えない。見下ろしているなら、視界に映るはずだ。
成は頭を片手で押さえながら、体を起こした。
「なんでだよ」
そこにいたのは、崩れた天井の下敷きになっている玲騎。肩から上は見えているが、それより下は瓦礫のせいで全く見えない。けれど、瓦礫の下から滲み出る赤い液体が無事ではないことを雄弁に語っていた。
美術室だが、絵の具とかペンキとかそういった類のものではない。血だ。血溜まりはどんどん広がっていき、顔からは血の気が引いていく。
「なんで、おれをかばったんだよ」
「……知る、かよ。体が、かぁてに、うごいたん……」
「……もっと、ちゃんといえよ」
「はっ……誰が、おあえのぁ……」
玲騎がゆっくりと目を閉じる。その目が開かれることは二度となかった。
成はやおら立ち上がり、美術室を見渡す。
塗り掛けのキャンバスが置かれたイーゼルの奥。石膏達の視線が集まるその場所に、扉のようなものが確認出来た。
壁一面を覆う黒板の存在感が強すぎて気づけなかったが、探そうと思えば探せる範囲だ。消えかけてはいるが、扉の上には美術準備室と書かれた板もついていた。
成はスライド式の扉を静かに開ける。
特に何も起こらなかった。
壁際に設置された棚には、白いキャンバスや絵の具、筆が所狭しと並び、棚の上には美術室に飾りきれなかった分の石膏。床にはイーゼルや模造紙が無造作に入った段ボールが置かれている。
入口から対角となる位置では、この部屋には似つかわしくない鉄の扉が存在を主張していた。
足元に気をつけながら進み、重厚な扉の前に立つ。
「……ついてこいよ、れいき。おいてくぞ……」
そんな寂しげな呟きに答えるように、後ろで扉が開く音がした。
◇
玄関では、3人の少女がガラス戸と格闘を続けていた。
力を合わせて文殊の知恵を絞り出し、色々な方法で開けようとするが、ガラス戸には未だヒビ1つ入っていない。何も成果が得られないまま時間だけが過ぎていた。
「あー、もうだめ」
最初に音を上げたのは、優奈。床に座り込んでしまい、動く気配はない。
「諦めよ。ほむら」
世緋も寄り添うようにして腰を下ろした。
「天気も悪くなってきたし、ね」
ダメ押しの一言。いつの間にか降り出した雨は、いまも少しずつ音を増していた。
「うん……でも」
荒瀨もそのことはよく分かっている。それでも、学校にいるほうが危険だと直感的にそう感じた。
「やっぱり出よ?」
荒瀨は2人に呼びかける。
「…………」
「…………」
2人からの返事はなかった。
「優奈? 世緋?」
「…………」
「…………」
荒瀨は怖くなって1歩、後ろに下がる。
「…………」
「…………」
2人は無言で立ち上がった。
荒瀨はさらに後ろへ行こうとするが、踵がガラス戸にぶつかる。これ以上、後ろへ下がることは出来なくなった。
「2人とも、急にどうしたの? ねぇ、なんか答えてよ!」
荒瀨が叫ぶ。それに呼応するようにして、閃光が瞬いた。少し遅れて轟音が響く。
荒瀨が外に気を取られた瞬間、世緋が動いた。距離を詰めて、跳び、体を回して蹴りを放つ。
「くぅっ!」
荒瀨は両手でブロック。体勢が崩れるのを利用して、体の向きを変えた。背中に出来た退路を使って、距離を取ろうとする。
だが、世緋の追撃のほうが早かった。表情は虚ろながら、鋭いハイキックが繰り出される。それをガードすれば、次は拳、さらに手刀、飛び膝蹴り。
流れるような連撃を、荒瀨はなんとか躱し、防ぎきった。2人の間に距離が開く。
「どうしたの、世緋!」
「…………」
荒瀨の呼びかけに世緋は答えず、ハイキックを放った。
距離が空いていれば、守る以外にも対処法はある。防戦一方だった荒瀨は、反撃を決意した。
「どうなってもしらないよっ!」
世緋が放ったハイキックを左手で受け止める。足を持ったまま、距離を詰めて、体を支える足を払った。両足が地面から離れ、世緋の体勢が崩れる。倒れる彼女の頭を右手で支え、後頭部を打ちつけないようにしつつ、勢いよく押し倒した。
「かふっ……!」
背中を打ちつけ意識を失ったのか、世緋はピクリとも動かない。
「世緋……」
荒瀨は警戒しつつも、ゆっくりと立ち上がった。
「まさか、これも魔術師の力なの……」
世緋に格闘技の心得があるという話は聞いたことがない。テニス部の彼女が空手部の荒瀨と闘えるほどの技術を元から持っていたとは考えづらかった。
そんな不可能を可能にする力とは、魔法もしくは魔術と呼ばれるものだろう。
「優奈。あんたが魔術師なの?」
それが、荒瀨が導き出した答えだった。
「…………」
荒瀨の問いかけに対し、優奈は静かに首を横に振る。否定の意味だろうが、世緋の時とは全く異なる反応だ。
「…………」
優奈は無言で、折れた傘を拾った。
荒瀨は後ろに1歩下がる。折れた傘の強さはわからないが、自分もなにか持ったほうがいい。そう判断して、荒瀨はさらに1歩、後ろに下がった。
「……か……ため」
「え?」
優奈が呟く。
「あ……たの……」
「どういう意味?」
荒瀨が問いかけると、優奈は悲しげな表情を浮かべた。
「あな……ちが……ね」
優奈の言葉は荒瀨には聞き取れない。
「……ねん」
悲しげな表情のまま、優奈は勢いよく傘を地面に叩きつけた。折れた傘が、2つに割れる。
優奈は折れた先端を拾い、両手に傘だったものを構えた。
壊れた傘の二刀流。折れた部分が荒瀨に向けられており、不用意に触れれば怪我は免れない。安価ながら、非常に危険な武器だった。
「し……」
空気が漏れるような音とともに優奈が駆ける。
魔術師かどうかもわからないし、わかったところでどんな闘い方がいいのかがわからない。
結局。荒瀨は世緋の時と同じように気絶させる方法を選んだ。
「こ……!」
優奈は柄がついたほうの傘を振り下ろす。狙いは肩。それを予想していた荒瀨は、迫り来る傘ではなく、彼女の手首を掴んだ。
傘は突き刺さる手前で止まっている。でも、少しでも力を抜けば、彼女は容赦なく傘を突き刺すだろう。
両手で掴んで、押し返す。
「ごめんね……」
明瞭な呟きに驚いた荒瀨が顔を上げると、優奈は泣いていた。潤んだ瞳からポロポロと雫が流れ、頬を濡らす。
そんな表情と言葉に反して、腕に込められる力は片手とは思えないほどに強かった。そう優奈は片手だ。
荒瀨は両手を使っているが、彼女はまだ片手しか使っていなくて……
「くっ、あぁ……」
荒瀨が苦悶の声を漏らす。折れた傘の先端を、脇腹に突き立てられたのだ。
「ご……ね」
優奈の瞳から大量の涙が溢れ出た。その姿を見せられれば、嫌でも状況は理解出来る。
「優奈……ごめん、ね」
荒瀨の瞳からも涙が零れた。
彼女は魔術師じゃない。魔術師に操られているだけなんだ。
荒瀨は優奈の腹部を蹴って、距離をとる。手から離れなかった傘が、脇腹を抉った。
「あぐっ……」
気を抜けば意識を持っていかれそうになるほどの激痛だが、舌を噛んで意識を保つ。
けれど、長くは持たない。
「手加減は出来ないから!」
荒瀨は拳を握りしめた。




