事情聴取
翌日。
昨日は佐野雪芽という名前を、頭の中で何度も転がした。ダウナーで気だるいのに、仕事の話になると目の温度が変わる女。言葉が少ないくせに、核心だけ刺してくる女。しかも、アリスの輪郭を測るみたいに見ていた。
田村の件が一段落して、ようやく呼吸が戻ってきたと思った矢先に、別の種類の“視線”が現れた。
田村の視線は湿っていた。執着が混ざった、生々しい視線だ。
佐野の視線は乾いている。冷たい。観察で、人を分解する視線だ。だからこそ厄介だった。あの目の前では、感情を見せた方が負ける気がする。何を言っても、何をしても、データとして扱われそうな感じがした。
俺は朝から太刀川家へ向かった。アリスの夏休みを、少しでも穏やかにしたかった。田村で荒れた夏の終わりを、なるべく綺麗に閉じたい。そう思っていた。
太刀川家の玄関を開けると、恵さんが「いらっしゃい」と笑って迎えてくれた。笑顔は優しいけれど、目はちゃんと現実を見ている。ここ最近で、恵さんの“母の強さ”を何度も見た。
「隆太郎くん、朝日は今、二階で支度してるよ」
「ありがとうございます」
俺が上がろうとした瞬間、スマホが震えた。母さんからでも、健一さんからでもない。見慣れない番号。
胸が一瞬だけ冷えた。
田村じゃない、と思いながらも、反射で警戒する。だが表示された名前は――登録していないはずなのに、通知欄に短く出ていた。
『佐野』
昨日、交換なんてしていない。なのに、なぜ“佐野”と出る。恐る恐る開くと、メッセージアプリの通知だった。どこから繋がったのか分からないが、送信者名が「佐野雪芽」になっている。
『宮本隆太郎くん。今日、五分だけ時間ちょうだい。駅前。14:00。』
命令みたいな文章だった。丁寧語のくせに、拒否を想定していない書き方。気だるげな顔の裏に、仕事の合理性だけが見える。
俺はスマホを握りしめた。
――なんで、俺の連絡先を知ってる。
健一さん経由? いや、健一さんが勝手に渡すとは思えない。学校関係? 名簿? それとも、もっと別の方法? 佐野は探偵だ。本人がその気なら、“情報は取れる”側だ。
背筋が冷たくなる。
俺はとりあえず通知を閉じ、二階へ上がった。廊下の先でアリスが部屋から出てくる。今日は白いブラウスに淡い色のスカート。制服じゃないのに、学校へ行くみたいな格好。夏休みを、ちゃんと楽しみたいときの服装に見えた。
「隆太郎」
アリスが俺を見つけて笑う。その笑顔に、俺の胸が少しだけ軽くなる。
「来た」
「今日、何する? 夏休みもうすぐで終わるよ」
「……何したい」
俺が聞くと、アリスは少し考えてから言った。
「散歩したい。近くの公園まで。あと、帰りにアイス」
「いいな」
そこで、俺のスマホがもう一度震えた。さっきのメッセージに続く通知。
『遅れるなら教えて。来ないなら、その理由を。』
圧が強い。
アリスの視線が俺のスマホに吸い寄せられた。彼女の眉がわずかに寄る。
「……誰?」
アリスの声が少し硬い。俺は隠すか迷った。けれど、佐野のことを隠すのは危険だ。あの女の介入は“仕事”の可能性が高い。なら、情報共有した方がいい。
「……佐野雪芽。昨日の探偵。俺に会いたいって」
アリスの目が大きくなる。
「え。なんで隆太郎に?」
「分からない。駅前で五分だけって」
アリスの口が小さく開いて、そのまま閉じた。言葉を飲み込んだ顔。嫌だ、という感情が先に出ているのに、理由を整理している顔。
「……行くの?」
「行くかどうか、迷ってる」
アリスの頬がほんの少し膨らんだ。昨日の田村の件があるから、過敏になっているわけじゃない。佐野は田村と違う。だけど、“隆太郎に接触してくる女”という一点で、アリスの心を刺すには十分だった。
「……私も行く」
即答だった。
「無理だろ。佐野は多分、仕事の話だ。健一さんの依頼の」
「それでも。隆太郎だけは、嫌」
言い方が、子どもみたいに直球だった。けど、それが嬉しくもあるし、切なくもある。アリスは「取られる」という恐怖を、田村の件で強く学習してしまった。だから、今度は最初から手を伸ばしてくる。
「……分かった。一緒に行く」
アリスの頬が少しだけ緩む。安心の色が混ざる。俺はその反応を見て、胸が痛くなる。俺が一人で行くと言っただけで、これだけ揺れるのか。
俺はアリスの手を軽く握った。
「取られねえよ」
小さく言うと、アリスが目を瞬かせる。
「……なにそれ」
「事実」
アリスは少し照れた顔になって、すぐに視線を逸らした。
「……ふん」
拗ね方がかわいくて、俺は笑いそうになった。でも今は笑うより先に、駅前で何が起きるかを考えないといけない。
※ ※ ※
午後二時前。
駅前は、人の流れが途切れない。コンビニ袋を下げた人、買い物帰りの人、制服の学生、スーツ姿の社会人。雑踏の中で、佐野雪芽は目立たないのに目立っていた。
黒っぽいワンピースに薄いカーディガン。髪は整っているのに、表情は眠そうで、身体の力が抜けている。なのに視線だけは鋭い。気だるさと緊張が同居していて、近づくと空気の密度が変わる。
俺とアリスが近づくと、佐野は一度だけ俺を見て、それからアリスを見た。
「……二人で来たんだ」
声は淡い。肯定もしないし、咎めもしない。ただ事実として拾う。
「用件はなんですか?」
俺が先に聞くと、佐野は小さく息を吐いた。
「五分で終わる。……宮本隆太郎くん。太刀川朝日と最後に一緒にいた“位置”を確認したい」
言い方が冷たい。位置。最後。関係性じゃなく、座標として扱う言葉。
アリスが俺の隣に一歩寄った。袖が触れる。守るというより、支える距離。
「……駅前です」
俺は、先に言った。佐野が誘導する前に、事実だけを置く。
「改札の外。駅前広場で別れました。朝日は電車。俺は徒歩で帰ってました」
佐野の目がわずかに細くなる。情報が正確に入った時の反応だ。頭の中で地図を広げている目。
「ホームにはいない」
「いません」
「別れた時間は」
佐野が淡々と続ける。俺は記憶の棚を開ける。あの日は、時間だけが妙に刺さっている。何度も巻き戻して、何度も「もし」を考えたからだ。
「……夕方。細かい分は覚えてません。でも、改札の外で数分話して、朝日が改札を入った。そのあと俺は、駅から反対方向に歩いて帰りました」
「誰か、尾行されてる気配は?」
「ないです」
「不審者は見た?」
「……見てない。俺は、何も」
言いかけて、喉が詰まった。“何もできなかった”という感覚が、今でも刺さる。けれど、佐野の前で感情を見せるのは違う。佐野はそれを“情報”として使う。俺は感情を飲み込んで続けた。
「見てないです。駅前は人も多かったし、普段と変わらなかった」
佐野は頷き、次にアリスへ視線を移した。
「白金さん。……あなたは、今の話をどう聞いた?」
唐突な問い。俺の心臓が跳ねた。アリスは“当事者”で、でも“当事者”じゃない。朝日としては当事者だが、今は留学生のアリスとしてそこにいる。ここで揺れたら危ない。
アリスは一拍置いて、笑顔を作りすぎない表情で答えた。
「……悲しい話だと思いました。大切な人が、目の前からいなくなるのは」
正しい答えだった。一般論として成立し、心情としても嘘ではない。
佐野は「ふうん」と小さく息を吐いた。興味がないふりをして、観察だけは続けている。
「隆太郎くん。もう一つ。朝日は改札を入ったあと、誰かと合流する予定だった?」
「なかったと思います。少なくとも、俺は聞いてない」
「駅構内での待ち合わせも?」
「聞いてません」
佐野は短く頷いた。
「了解。あなたがホームにいなかったのは、逆に重要。……現場の目撃情報として扱えない。だから、駅前での“最後の接点”の精度が上がる」
仕事の言葉。冷たいのに、筋が通っている。
俺は息を吐き、聞き返した。
「……進展、あるんですか」
佐野は気だるげに視線を外して、淡々と言った。
「少しだけ。映像は欠けてる。でも、欠け方が自然じゃない」
またその話だ。保存段階で消えた可能性。つまり、痕跡を消せる手口。
背中が冷たくなる。
佐野は続ける。
「駅前のカメラも、同じ時間帯だけ“質が落ちてる”。完全に消えてはいない。でも、顔が判別しにくい。……偶然とは考えにくい」
「……消されてる、ってことですか」
「可能性が高い」
佐野は即答した。曖昧な言い回しをしない。だから怖い。
そして、佐野の視線がもう一度アリスへ向く。輪郭を測るような目。身長、肩幅、顔の配置。全てを“データ”として見ている目。
「……白金さん」
佐野が淡く呼ぶ。
「はい」
「気をつけてね。太刀川家の近くも、駅前も。……この街、少し変」
アリスが息を呑む。俺も喉が鳴った。
佐野はそれ以上説明しなかった。説明しないまま不安だけ置いていく。探偵らしいと言えばそうだ。情報は必要な分だけ渡す。余計なことは言わない。
「じゃ」
佐野はそれだけ言って、踵を返した。
去っていく背中は気だるげなのに、歩く速度は一定で、迷いがない。仕事が終わったから去る、というより、次の現場へ移動する背中だった。
俺はその背中を見送りながら、アリスの手を握り直した。
アリスの指先は、少し冷たかった。
「……隆太郎」
「ん」
「私、あの人、苦手かも」
「俺も」
理由は違う。でも、結論は同じだった。
田村の“湿った執着”とは別の、乾いた“疑い”の目。
あの目が、これから俺たちの日常に入り込んでくる。
そんな予感だけが、駅前の雑踏の中で妙に鮮明に残った。
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