偽りの告白
玄関の内側の小窓から見えた影が、闇に溶けたあとも、俺の身体はしばらく動かなかった。
心臓の音がうるさい。自分の血の流れる音が、耳の奥で波みたいに寄せては返す。冷房の効いた家の中なのに、背中だけ汗が浮いて、Tシャツがじっとり貼りつく。
出たらダメだ。
それだけは分かっていた。鍵に手をかけた瞬間、頭の中で健一さんの声と母さんの声が同時に鳴った。“躊躇うな”と、“安全優先”が、同じ意味で響く。
俺はゆっくり息を吐き、震える指でスマホを握り直した。母さんを起こす。すぐに。今この状況を、俺一人の判断で抱え込むな。
メッセージアプリを開いて、短く打つ。
『玄関の郵便受けに田村っぽい人が手紙を入れた。外に出てない。今、家の中。』
送信すると、既読がつくまでの数秒が異様に長く感じた。深夜の数秒は、昼の数秒より重い。
既読。
すぐに電話が鳴った。着信音が静かな家の中で鋭く響いて、俺は反射で音量を下げた。
「……母さん」
『隆太郎、今どこ? 玄関の近く?』
「うん。中から見た。入れて、立ち去った」
『鍵は?』
「閉めたまま。出てない」
『いい。絶対に出ないで。今、私が行く』
母さんの声は低くて落ち着いていた。寝起きのはずなのに、迷いがない。俺はそれに救われながら、玄関から少し離れてリビングへ戻った。足音を立てないように、でも急ぐ。怖がっているのをアリスに見せたくない、と思ってしまう。
……でも、見せないのは違う。
俺は階段の途中で立ち止まった。二階の廊下は暗い。アリスの部屋のドアは閉まっている。起こすべきか? 起こさないべきか? 迷いが一瞬で頭を埋める。
けど、明日になって知るより、今知った方がいい。アリスは“知らない恐怖”に弱い。封筒の時もそうだった。見えないものは、勝手に大きくなる。
俺はアリスの部屋のドアをそっと叩いた。
「アリス……起きてるか」
数秒。返事はない。寝ている。
もう一度、少しだけ強く叩く。
「アリス」
布団が擦れる音がして、ドアの向こうから眠そうな声がした。
「……ん……?」
「悪い、起こした。ちょっと、リビング来れる?」
間があって、アリスが「うん……」と答えた。ドアが開き、パジャマ姿のアリスが出てくる。金髪が寝癖でふわっと広がっていて、目がまだ半分閉じている。けれど俺の表情を見た瞬間、目が覚めたのが分かった。
「……隆太郎、どうしたの」
「……来た」
それだけで伝わった。アリスの顔が白くなる。
「田村、先輩?」
「たぶん。郵便受けに、手紙入れてった」
アリスの指先が震えた。口元が微かに動いて、言葉にならない息が漏れる。俺はすぐに言った。
「大丈夫。外には出てない。母さんが来る」
アリスは小さく頷いた。頷いたけど、足が少しふらついた。俺は反射で肩を支える。アリスの体温が冷たい。怖さで血が引いている。
俺たちはリビングへ降りた。照明は落としてあって、間接照明だけが薄く灯っている。真夜中のリビングは、昼と別の場所みたいだ。家具の影が濃くなる。
母さんが階段を降りてきた。スマホを持ったまま、顔は真剣だった。
「アリスちゃん、起こしたのね」
「……うん」
母さんはアリスの顔を見て、すぐに柔らかい声に切り替えた。
「大丈夫。ここにいる。まず座ろう」
アリスはソファに座り、膝を抱える。俺は隣に座った。母さんはテーブルの向かいに座り、深呼吸してから言った。
「隆太郎、見えたのはどんな人影?」
「背格好が似てた。立ち方も。顔は見えなかったけど……振り向いた気がした」
俺は、笑ったように見えたことは言うか迷った。言えばアリスの恐怖が増す。でも、事実は事実だ。危機管理として隠すのは違う。
「……こっち見て、笑ったように見えた」
アリスがびくりと震えた。母さんは眉をひそめながらも、すぐに言った。
「分かった。今夜の手紙は、明日以降のために保管。触らずに写真を撮る。明日、健一さんたちと共有するわ」
母さんは立ち上がって、スマホのライトをつけた。
「隆太郎、ついてきて。アリスちゃんはここ」
「私も行く」
アリスが反射で言った。母さんは首を振る。
「今は、離れない方がいい。外に出ないだけじゃなくて、心も落ち着かせないと」
アリスは唇を噛んで、俺の袖を掴んだ。俺はその手を握ってから、母さんに小さく頷いた。
「……すぐ戻る」
玄関へ行く。鍵は閉まっている。母さんがチェーンも確認する。郵便受けは玄関ドアについているタイプで、内側から取り出せる。母さんはまず、スマホで郵便受けの外側を撮影した。日付と時間が残るように。次に、郵便受けの蓋をゆっくり開ける。
中に、封筒が入っていた。
白い封筒。切手は貼っていない。手渡しではなく、わざわざ“投函”した。これが意味するのは、直接会わずに侵入感だけを残す行為だ。こちらの生活に入り込めると示す行為。
母さんが封筒に触れず、郵便受けの中で封筒が見えるように写真を撮った。それからようやく、ティッシュを二枚重ねて封筒を摘まみ、テーブルの上に置いた。俺はその一連の動きを、息を止めるみたいに見ていた。
「……開ける?」
俺が聞くと、母さんは首を振った。
「今は開けない。朝になって、健一さんと相談してから。中身が何でも、今日の時点で“投函”という行動が成立してる。そこが重要よ」
母さんの言葉は冷静で、俺の焦りを少しだけ鎮めた。中身が気になっても、優先順位はそこじゃない。行動を止めるのが先。
リビングへ戻ると、アリスがソファで固まっていた。俺たちが戻ってきたのを見て、少しだけ肩の力を抜く。
「……どうだった?」
「封筒が入ってた。母さんが保管する」
俺が言うと、アリスは小さく頷いた。
「……私、怖い。家なのに」
「分かる」
俺は短く言った。分かる、と言うことしかできない瞬間がある。励ましが軽くなってしまう時、否定が彼女を孤独にする時。こういう時に必要なのは、同じ場所にいることだ。
母さんがアリスに向き直って言った。
「アリスちゃん。明日、私の代わりに健一さんが学校に行くって言ってたでしょう? それと同時に、田村くんの保護者にも連絡を入れる方向で話を進める」
アリスが目を見開く。
「保護者……」
「うん。学校の指導だけだと、家の外でやる可能性がある。家庭も巻き込んで、止める」
アリスは膝を抱える腕に力を込めた。
「……でも、私のせいで」
「違う」
母さんが強めに言って、すぐに優しく言い直す。
「あなたのせいじゃない。相手がルールを破ってるの。今必要なのは、あなたが罪悪感を抱くことじゃなくて、守られること」
アリスの目から、また涙が一粒落ちた。俺はティッシュを取って渡した。アリスは受け取り、そっと目元を押さえる。
俺は自分の中で、怒りが形になっていくのを感じた。静かな怒り。叫ぶ怒りじゃない。線を引き、手続きを進め、確実に止めるための怒り。
“正義”を装った侵入を、許したくない。
※ ※ ※
翌朝、健一さんから返信が来たのは、朝食の途中だった。
『夜に投函? 了解。今から学校に行く。保護者連絡も進める。封筒は開けず保管するんだ』
短い文章。判断が早い。俺は母さんにスマホを見せ、母さんは頷いた。
「予定通りね」
アリスはトーストを齧りながら、手が止まっていた。夜のことがまだ身体に残っている。眠れたのかも分からない。目の下が少しだけ青い。
「アリス、今日は無理しなくていい」
俺が言うと、アリスは首を振った。
「……無理しない。でも、普通にしたい」
普通にしたい。願いが切実すぎて、俺は言葉を失った。普通でいるために、ここまで対策が必要になる。それが理不尽だ。
母さんが静かに提案した。
「今日は、家で勉強しましょう。図書館はやめておこう」
「うん……」
アリスは素直に頷いた。昨日“追われたかもしれない”場所へわざわざ行く必要はない。
午前中、俺たちはリビングで勉強した。数学の問題集を開いて、アリスが隣で英語の単語をチェックする。時々、母さんが洗濯物を畳みながらこちらを見守る。家の中の空気が、俺たちを包んでくれる。
それでも、玄関の方から少し音がすると、アリスの肩がびくりと跳ねる。俺も同じだ。身体が反射で警戒するようになってしまっている。
昼過ぎ、スマホが鳴った。母さんの方だ。母さんが電話に出て、表情を変えずに「はい」と答える。しばらく聞いてから、短く頷いた。
「……分かりました。ありがとうございます」
電話を切った母さんは、俺たちに向き直った。
「健一さんから。学校が田村くんに指導を入れた。保護者にも連絡がついたそうよ」
アリスが息を飲む。
「……それで、止まる?」
母さんはすぐに「止まる」とは言わなかった。代わりに、現実的な言い方をした。
「止まる可能性は高くなる。でも、完全に安心するのはまだ早い。今みたいに、行動を記録して、手続きを進める。それがいちばん確実」
俺も頷いた。ここで油断したら、相手の“物語”が勝つ。
午後、玄関の封筒を開けることになった。母さんが手袋をして、健一さんに電話をつないだ状態で、封筒を開く。アリスは俺の隣で、俺の手を握っている。
中から出てきたのは、短い手紙だった。
内容は――謝罪の形をしていた。でも、謝罪の中身が謝罪じゃない。言葉は丁寧で、相手を思いやっているように書いてある。けれど、その行間には、自分の正しさしかない。
“君を救う”
“君は本当は助けを求めている”
“君が怖いと言ったのは、周りのせい”
“俺なら君を自由にできる”
読めば読むほど、背筋が冷たくなった。
俺はアリスの手を握り返した。
「……これ、もう“告白”だ」
俺が呟くと、アリスが小さく震えた。
健一さんの声が電話の向こうで低く響く。
『……明日、田村本人と話す場を作る。学校の場で。朝日が出る必要はない。俺が出る』
健一さんはそう言った。つまり、直接の対話の段階に入る。
それは一つの山場だ。相手に“ここまで”を理解させる最後の線引き。
でも、相手がそれを理解しない場合、さらに厄介になる。
アリスが震える声で言った。
「……私、会いたくない」
「会わなくていい」
俺が即答すると、母さんも頷いた。
「会わない。あなたが安心できる距離で、私たちが止める」
アリスは目を閉じて、小さく頷いた。
その時、俺のスマホが震えた。
画面に表示された通知――知らない番号。
俺は息を止めた。母さんも目を細める。アリスが俺の腕を掴む。
着信。
俺は出なかった。出る必要がない。
着信が切れると、すぐにメッセージが届いた。
『白金さんに伝えて。君は悪くないって。君の味方だって。』
田村。
名乗っていないのに、文面の“癖”で分かる。勝手に“味方”を名乗る言葉。拒絶されてもなお、自分を正義の側に置く言葉。
俺は画面を伏せた。アリスに見せない。母さんにだけ見せる。母さんは一瞥して、静かに言った。
「エスカレートしてる。番号も控える。メッセージも保存」
アリスが恐る恐る聞いた。
「……なに?」
「大丈夫。今は見なくていい」
俺が言うと、アリスは小さく頷いた。けれど、その頷きは重い。見えない恐怖が、また大きくなる。
俺は決めた。
次は、アリスに“知らなくていい情報”と、“知るべき情報”を分ける。隠すんじゃない。守るための情報設計だ。ビジネスでも危機対応でも同じで、必要な人に必要な情報を、適切なタイミングで渡すのが最善だ。
そして、田村の行動はもう次の段階に入っている。
――告白。
相手の意思を無視して、一方的に“関係”を成立させようとする段階。
明日、学校で何が起きるか。
それが、この夏休みの分岐点になる。
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