5話 坊ちゃんと呼ばれる理由
森を抜けると、空気が変わった。
湿り気が薄れ、匂いが軽くなる。土と苔の匂いの中に、微かに焦げた鉄の匂いが混じる。街が近い証拠だ。人が多く、火を使い、物を作る場所は、遠くからでも分かる。
オーガを倒した後、俺たちはそのまま街へ戻る道を選んだ。
冒険者のパーティーは疲労が隠せない様子だった。前衛の男は肩を借りて歩き、回復役の女が何度も状態を確認している。後衛の男は周囲を警戒しつつも、どこか落ち着かない。
「……正直、助かりました」
回復役の女が、こちらに向かって丁寧に頭を下げた。
「仮登録とは思えない動きでした」
「評価は、街に戻ってからだ」
俺は淡々と答える。
「森じゃ、何も決まらない」
第5話 坊ちゃんと呼ばれる理由
森を抜けると、空気が変わった。
湿り気が薄くなる。
鼻に残っていた土と苔の匂いへ、今度は焦げた鉄の臭いが混ざり始める。鍛冶場の炉だ。街が近い証拠だった。
風の温度まで違う。
森の中より少し乾いていて、人の生活の熱が混ざっている。
オーガを倒したあと、俺たちはそのまま街へ戻る道を選んだ。
冒険者のパーティーは、さすがに疲労を隠せていない。
前衛の男は片腕を押さえたまま歩いている。回復役の女が肩を支え、時々顔色を確認していた。
後衛の男だけは周囲へ視線を飛ばしていたが、警戒というより落ち着かない様子に近かった。
戦闘が終わったあと、人は急に現実へ戻る。
そういう顔だ。
「……正直、助かりました」
回復役の女が言った。
歩きながら、こちらへ小さく頭を下げる。
髪にはまだ土がついていた。
「仮登録とは思えない動きでした」
「評価は街に戻ってからだ」
俺は前を見たまま答える。
「森じゃ何も決まらない」
カイルは何も言わなかった。
戦闘の後だというのに、呼吸も歩調も変わっていない。
剣についた血だけが、さっきまでの戦いを残していた。
仕事が終わった、それだけの顔だった。
街道へ戻る頃には、遠くに城壁が見え始めていた。
レイヴァルト。
近くで見ると、やはり壁が高い。
新しい石と古い石が混ざっている。継ぎ接ぎみたいな色合いだ。何度も修繕しながら使い続けてきたのが分かる。
街が生き延びてきた証拠だった。
門へ近づくにつれ、人の流れも戻ってくる。
荷車。
旅人。
露店へ荷を運ぶ男達。
森帰りの静けさが、少しずつ押し流されていく。
門をくぐる。
その瞬間、音が一気に戻った。
人の声、車輪の軋み、鉄を打つ音、どこかで怒鳴る声、油と煙の臭い。
森の中で削ぎ落とされていた感覚が、一度に押し戻される。
前衛の男が、小さく息を吐いた。
「……戻ってきたな」
回復役の女も肩の力を抜く。
「街の匂い、久しぶりな気がします」
「生きてる証拠だ」
後衛の男が苦笑した。
ギルドにの前を通る。
後衛の男が無意識に扉へ視線を向ける。
体が居場所を探している。
「今日は寄らない」
俺が言うと、男は我に返ったように頷いた。
「……ああ」
酒場へ向かう途中、後衛の男がふと口を開いた。
「旅の奴隷商人って、やっぱ珍しいですよね」
「そうでもない」
「いや、金の管理とかどうしてんのかと思って」
男は少し笑う。
「持ち歩いてる風には見えない」
「必要最低限だけだ」
俺は答えた。
「残りは銀行に預けてる」
「銀行?」
回復役の女が少し驚いた顔をする。
「冒険者だと、あんまり縁がなくて……」
それはそうだ。
冒険者は金が溜まらないし、稼ぎは不安定。さらに装備と回復薬で消える。
金を預ける前に、次の依頼で動かすことになる。
高位まで行けば別だ。
遠征。
長期契約。
街を跨ぐ仕事。
そこまで行く連中は、信用機関を使う。
そうしないと、金の重さで動けなくなる。
だが、そこへ辿り着く冒険者は少ない。
「街が大きいと必要になる」
俺は歩きながら続けた。
「金を預かって、動かして、記録する場所だ。現金を抱えるのは下策になる」
ちょうど通りの角だった。
俺は足を止める。
「少し寄る」
後衛の男が目を瞬かせた。
「今からか?」
「使う分を下ろすだけだ」
銀行は目立たない建物だった。
装飾も少なく、看板も小さい。だが、空気が違う。扉は厚く、窓は細い。
中へ入ると、外の喧騒が一気に遠ざかった。
ひんやりしている。
人の声まで自然と小さく、低くなる。金を守る場所は、こういう空気になる。
窓口へ向かうと、職員の男が顔を上げた。
「いらっしゃいませ。本日のご用件を――」
途中で言葉が止まる。
目が、俺の顔を見て止まった。
「……ジェイド・ヴァーニスト様でいらっしゃいますね」
「そうだ」
短く返す。
それだけで、職員の態度が変わった。
過剰ではない。
だが、“信用が前提”の動きになる。
「本日は引き出しで?」
「ああ。金貨で」
「かしこまりました。融資の件については――」
「父の案件だ」
俺は即答した。
「俺には関係ない」
職員は一瞬だけ目を伏せる。
「失礼いたしました」
余計な説明はない。
だが、それで十分だった。
帳面が開かれる。
署名。
印。
動きは短く、無駄がない。
しばらくして、布袋が差し出された。
中身の重みが、手に伝わる。
後ろで見ていた冒険者達は、妙に静かだった。
「……ヴァーニストって」
後衛の男が思わず呟く。
「もしかして、あの……」
「他に思いつくか?」
俺は肩をすくめた。
空気が変わる。
ガイウェスト王国最大級の奴隷商人一族。
ヴァーニスト家。
たとえそこが辺境だとしても、その名前を知らない奴は少ない。
「そんな所の……お坊ちゃんが?」
回復役の女が戸惑った顔で言う。
「坊ちゃんは余計だ」
「す、すみません……」
ヴァーニストの名前は、それだけで値札になる。
良くも悪くも。
前衛の男が苦笑した。
「正直、想像してなかった」
「よく言われる」
銀行を出る。
外の喧騒が、一気に耳へ戻ってきた。
静かな場所の後だと、余計うるさく感じる。
街は、森よりずっと騒がしい。
だが、人間にとってはこっちの方が安心する。
「……なあ」
前衛の男が、少し言いづらそうに口を開いた。
「助けてもらった礼をさせてくれ」
「礼?」
「酒場だ。奢る」
回復役の女が頷く。
「今日は、本当に命拾いしましたので」
悪くない。
「いいだろう」
俺は頷いた。
「ただし、話はそこでだ」
後衛の男が口を開く。
「《赤梟亭》って店があります」
「ああ、冒険者向けの酒場です。飯も悪くない」
名前は聞いたことがある。
情報も酒も、ほどよく混ざる店だ。
「じゃあ、そこで集合だ」
俺は布袋を腰へ下げる。
「少し用事を済ませてから行く」
「こっちもギルドに報告しねえとな……」
後衛の男が肩を回した。前衛の男も苦笑する。
「オーガの報告サボると、後で怒鳴られる」
その瞬間、空気が少しだけ緩んだ。
森の緊張が、ようやく抜け始めている。
俺は歩き出しながら、小さく呟く。
「……話が長くなるぞ」
夕方の灯りが、ギルドの看板をぼんやり照らしていた。
カイルは何も言わずに歩いている。
戦いの後だというのに、歩調も呼吸も変わらない。仕事が終わった、それだけの顔だ。
門が見えてくる。
レイヴァルトの城壁は、やはり近くで見ると高い。新しい石と古い石が混じっている。修繕を繰り返しながら使われてきた壁だ。街が生き延びてきた証でもある。
門をくぐると、音が一気に戻る。
人の声、荷車の軋む音、金属を打つ音。森で削ぎ落とされた感覚が、一度に押し戻される。前衛の男が、思わず息を吐いた。
「……戻ってきましたね」
回復役の女が言う。
「ここからは、街のルールだ」
俺はそう返した。
冒険者ギルドの前を通り過ぎると、後衛の男がちらりと掲示板を見た。
自分の居場所を、体が探している。
「今日は寄らない」
俺が言うと、彼は小さく頷いた。
酒場へ向かう途中、後衛の男が気になったらしく、俺に声をかけてきた。
「旅の奴隷商人ってのは、やっぱり珍しいですよね」
「そうでもない」
「いや、金の管理が気になりまして。持ち歩いてる風には見えない」
「必要最低限だけだ」
俺は答える。
「他は、銀行に預けてる」
「銀行、ですか」
回復役の女が、少し驚いた様子で言った。
「冒険者だと、あまり縁がなくて……」
冒険者が銀行に縁がない理由は、単純だ。
稼ぎが安定しない。持っていた金も、装備や回復薬ですぐに消える。金を預けるほど溜まる前に、次の依頼で動かすことになる。
高位の冒険者になれば話は別だ。
遠征や長期契約を抱え、街を跨いで動く連中は、信用機関を使う。そうしないと、金の重みで動けなくなる。
だが、そこまで辿り着ける冒険者は少ない。
「街が大きいと、必要になる」
俺は歩きながら続ける。
「金を預かって、動かして、記録する場所だ。現金を抱えるのは下策だ」
ちょうどいい位置だった。
俺は足を止めた。
「少し寄る」
「今から?」
後衛の男が聞く。
「使う分を下ろすだけだ」
銀行は、外見こそ地味だが、空気が違う。
扉は厚く、窓は小さい。中に入ると、ひんやりとした静けさが広がっている。人の声も自然と低くなる。守るものが明確な場所だ。
窓口に向かうと、職員がすぐに気づいた。
「いらっしゃいませ。本日のご用件を――」
言いかけて、職員は一瞬だけ言葉を止めた。
「……ジェイド・ヴァーニスト様でいらっしゃいますね」
「そうだ」
俺は頷く。
職員の態度が、はっきりと変わる。
丁寧になるが、過剰ではない。信用が前提の対応だ。
「本日は、引き出しで?」
「ああ。金貨で」
「かしこまりました。融資の件については……」
「父の案件だ」
俺は即答する。
「俺には関係ない」
「失礼いたしました」
余計な説明はしない。
だが、それだけで十分だった。
帳面が開かれ、署名をし、印を押す。手続きは短く、無駄がない。ほどなくして、布袋が差し出された。中身の重みが、手に伝わる。
その様子を、冒険者たちは黙って見ていた。
「……ヴァーニストって」
後衛の男が、思わず口にする。
「もしかして、あの……」
「他に思いつくか?」
俺は肩をすくめた。
空気が変わる。
ガイウェスト王国最大級の奴隷商人一族。
ヴァーニスト家。
知らない者の方が少ない名前だ。
「そんな所の……お坊ちゃんが?」
回復役の女が、戸惑いながら言った。
「坊ちゃんは余計だ」
「失礼しました……」
ヴァーニストの名前は、この辺境でも知られている。
少なくとも、奴隷商売に関わる人間なら知らない方が珍しい。
良くも悪くも、それだけ大きい家だった。
前衛の男が、困ったように笑う。
「正直、想像してませんでした」
「よく言われる」
銀行を出ると、街の喧騒がやけに騒がしく感じられた。
静かな場所にいた後だと、余計にそう思う。
「……なあ」
前衛の男が、少し言いにくそうに口を開いた。
「助けてもらった礼を、させてくれ」
「礼?」
「酒場だ。奢る」
回復役の女が続ける。
「今日は、本当に命拾いしましたので」
悪くない理由だ。
「いいだろう」
俺は頷いた。
「ただし、話はそこでだ」
「ちょうどいい店があります」
後衛の男が言う。
「《赤梟亭》っていう、冒険者向けの酒場です」
名前は聞いたことがある。
情報も酒も、ほどよく混ざる店だ。
「じゃあ、そこで集合だ」
俺は言った。
「少し用事を済ませてから行く」
「ああ、こっちもギルドに色々報告しなきゃいけねえ」
全員が頷く。
酒場の名を聞いた瞬間、空気が少し緩んだ。
森の緊張が、ようやく抜け始めている。
俺は歩き出しながら、独り言のように言った。
「……話が長くなるぞ」
酒場の灯りが、遠くに見えていた。




