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6話 赤梟亭にて

《赤梟亭》へ向かう前、俺は宿へ寄った。


夕方の通りは、昼より少し湿った熱を帯びている。鍛冶場の煙と、屋台で焼かれる肉の匂いが混ざり、レイヴァルトの街全体が夜に向けて騒がしくなり始めていた。


宿の入口では、馬丁が厩の前で干し草を運んでいる。扉の向こうからは、食堂の笑い声と皿の音が漏れていた。


部屋に戻り、グラントノアを呼び出す。


「カイル以外は、宿で待ってろ」


そう告げると、グランとノアはほぼ同時に頷いた。


理由を聞き返す者はいない。


待てと言われたら待つ。


奴隷として身についた反応なのか、それとも単に面倒を避ける知恵なのか。


どちらにせよ、助かる。


「長くなる」


俺は続けた。


「戻るまでは自由にしていい。ただし――」


「外に出るな」


グランが先に言った。低い声だった。


分かっている、というより、分かりきっていることを確認しただけの声だ。


「話が早くて助かる」


「外に出て面倒になるのは、こっちも嫌だ」


「実に合理的だ。俺の財布にも優しい」


グランは答えず、宿の奥へ向かった。

ノアはすでに共用スペースの本棚を見ていた。


宿の壁際に置かれた古い棚だ。帳簿の写し、地図、旅人向けの読み物、誰かが置いていった日誌のようなものまで雑に並んでいる。


ノアは迷わず一冊を抜き取った。

床に座り込み、膝の上で本を開く。


「読めるのか」


俺が聞くと、ノアは顔を上げないまま答えた。


「……簡単なのなら」


「へえ」


「難しいのは、少しだけ」


短い返事だった。


だが、ページを追う目は速い。


こいつ、思ったより頭を使う。


面倒な方向に育つ可能性がある。


つまり、売り方を間違えると損をする。


グランは部屋へ戻り、荷物から小さな本を取り出していた。


擦り切れた表紙。


鍛冶の基礎書だ。


ページの端は何度も捲られて丸くなっている。暇潰しで読む本ではない。何度も読み返すための本だ。


「酒は?」


一応、聞いてやる。


グランは視線も上げずに言った。


「いらん」


「即答か。付き合いが悪いな」


「頭を使う」


「酒場に行く俺への嫌味か?」


「事実だ」


言い返せない。


カイルは2人を一度だけ見た。

何か言いかけたようだったが、口を閉じる。

代わりに、短く言った。


「すぐ戻る」


誰に向けた言葉なのかは曖昧だった。


グランは本を開いたまま片手を上げる。


ノアは反応しない。


それぞれの時間に戻るのが早い。

待つことに慣れた人間の動きだ。俺は宿の扉を押し開ける。


外へ出た瞬間、街の喧騒が一段濃くなった。

夕方のレイヴァルトは、昼間より金の匂いが濃い。


仕事を終えた者、これから飲む者、明日の依頼を探す者。


全部が通りに混ざっている。


「行くぞ」


「ああ」


カイルが後ろにつく。


今度は、俺の番だ。


◇


《赤梟亭》に着いた時、冒険者の三人は店の外で待っていた。


入口脇の壁際。


前衛の男は腕を組み、壁にもたれている。怪我をした方の腕を庇っているのが分かった。


後衛の男は通りに目を配っていた。


癖だろう。


回復役の女は二人の間に立ち、時々前衛の顔色を確認している。

まだ森の疲れが抜けきっていない。


「来ましたね」


女がこちらに気づき、軽く頭を下げた。


「待たせたか」


「いえ。今着いたところです」


前衛の男が肩をすくめた。


その動きで少し痛んだらしく、口元がわずかに歪む。


「見栄を張るな。怪我人が」


後衛の男がぼそりと言った。


「うるせえ。歩けてる」


「歩けてるのと無事は違う」


「仲が良くて結構だ」


俺が言うと、回復役の女が困ったように笑った。

カイルは一歩後ろで足を止め、店の中を一度だけ覗く。

扉の隙間から、酒と煮込みの匂いが流れてきた。


中は騒がしい。


だが、怒号ではない。


酔いと疲労と金勘定が混ざった、冒険者向けの騒がしさだ。


「……騒がしすぎない」


カイルが小さく言う。


「話をするにはちょうどいい」


俺は扉を開けた。


《赤梟亭》の中は、外観より広かった。


低い天井に太い梁。


壁には古い盾や刃こぼれした剣が飾られている。飾りというより、置き場に困った結果そのまま吊るしたように見える。


床板は傷だらけだ。


椅子も机も頑丈そうだが、どれも細かい修理跡がある。


酒場というより、冒険者が壊して、店主が直して、また壊される場所だ。


煮込みの匂い。


麦酒の匂い。


濡れた革と鉄の匂い。


入った瞬間、いくつもの視線がこちらを向いた。


奴隷を連れた商人。珍しくはない。

だが、歓迎される仕事でもない。


特に冒険者は、奴隷商人を嫌う奴と、世話になる奴で綺麗に分かれる。


視線はすぐに戻った。


ただし、完全には消えない。


酒場の隅に、薄く残る。


奥の長机に腰を下ろす。


前衛の男が手を挙げると、店主がすぐに気づいた。顔なじみらしい。

ここは、命を預けた後に来る店なのだろう。


「今日は俺が出す」


前衛の男が言う。


「命を拾った礼だ」


「遠慮はしない」


俺は椅子を引いた。


「だが、話は落ち着いてからだ」


酒が運ばれてくる。


前衛と後衛はエール。


回復役の女は薄めの果実酒。


カイルには水。


俺も酒は取らない。


商談前に酒を入れる奴は、だいたい後で損をする。

俺が損する側になるのは趣味じゃない。


「まずは、名乗ろうか」


前衛の男が杯を置いた。


「俺はラグス。前衛だ」


「後ろで矢を撃ってる、フェルだ」


後衛が続ける。


軽そうな口調だが、目はよく動く。


「回復を担当しております、ミレアと申します」


女が丁寧に頭を下げた。視線がカイルに向く。

カイルは水の杯に指を添えたまま、短く言った。


「……カイルだ」


それだけだった。


最後に、三人の視線が俺へ集まる。


「ジェイド・ヴァーニストだ」


俺は言った。


「旅の奴隷商人をやっている」


一瞬、間が空いた。


酒場の喧騒が、その間だけ少し遠くなる。


「……銀行でも聞いたが」


フェルが苦笑する。


「まさかヴァーニスト家のご子息様とはな。正直、驚いた」


「隠す理由がない」


俺は肩をすくめた。


「それに、俺はもう独立した商人だ。今は家は関係ない」


「関係ないと言える時点で、だいぶ関係ありそうだがな」


ラグスが笑った。


「細かいことを気にすると、飯が冷めるぞ」


「それは困る」


運ばれてきた煮込みを見て、ラグスが素直に頷く。

ミレアは笑いかけて、すぐに表情を整えた。


「改めて、お礼を申し上げます」


彼女は背筋を伸ばす。


「命を助けていただき、ありがとうございました」


言葉の途中で、視線がカイルへ向いた。


「仮登録とは思えない動きでした」


カイルは何も言わない。

水を一口飲み、杯を置く。


俺が代わりに口を開いた。


「評価は街のルールで決まる」


「……承知しています」


ミレアは頷いた。


「ですが、あの場で助けていただけなければ、私たちは――」


そこで言葉が切れる。


続きを言う必要はない。


割れた盾、折れた腕、オーガの棍棒。


全員、覚えている。


「前衛が足りない」


俺は事実だけを置いた。


ラグスがエールを一口飲む。


喉が動き、杯が机に戻る。


「……ああ」


声は低かった。


「分かってる」


「それで、ここにいる」


フェルが横から言う。


「礼だけなら、酒場じゃなくてもよかった」


「正直で助かる」


「商人相手に遠回しな話しても、値段上げられそうだしな」


「よく分かってる」


カイルは黙っている。


杯を見ているのか、机の傷を見ているのか、判断しづらい。

だが、逃げるような沈黙ではなかった。


聞いている、自分の話を。


「話を続ける前に、一つ確認だ」


俺は三人を見る。


「これは仕事の話だ」


周囲の酒場の声が、少しだけ近づいて、また遠のく。


「感情は、あとだ」


フェルが肩をすくめた。


「冒険者相手に、随分はっきり言うな」


「商人だからな」


「……だろうな」


ラグスが真っ直ぐ俺を見る。酔いはまだ回っていない。痛みもある。だが、目は逃げていなかった。


「条件を聞かせてくれ」


「その上で、払えるかどうか判断する」


「いいだろう」


俺は頷く。


「ただし――」


言葉を切る。


三人がわずかに身構えた。


カイルだけは動かない。


「本人の意思は、最後だ」


全員の視線がカイルへ向く。


カイルは眉をわずかに動かした。


水の杯から手を離す。


それでも、まだ何も言わない。


「今日は、ここまでだ」


俺は言った。


ラグスが目を細める。


「……焦らすな」


「焦って買うと高くつく」


「値段を上げるためか?」


「もちろん」


「正直だな」


フェルが呆れたように笑い、ミレアは小さく息を吐いた。


カイルは、ただ静かに座っている。

酒場の喧騒が戻ってくる。

誰かが大声で笑い、別の卓で杯がぶつかる音がした。


《赤梟亭》は今日も賑わっている。


だが、この卓だけは、もう別の時間に入っていた。

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