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8話 坊ちゃんと呼ばれる理由

森を抜けると、空気が変わった。


湿り気が薄れ、匂いが軽くなる。土と苔の匂いの中に、微かに焦げた鉄の匂いが混じる。街が近い証拠だ。人が多く、火を使い、物を作る場所は、遠くからでも分かる。


オーガを倒した後、俺たちはそのまま街へ戻る道を選んだ。


冒険者のパーティーは疲労が隠せない様子だった。前衛の男は肩を借りて歩き、回復役の女が何度も状態を確認している。後衛の男は周囲を警戒しつつも、どこか落ち着かない。


「……正直、助かりました」


回復役の女が、こちらに向かって丁寧に頭を下げた。


「仮登録とは思えない動きでした」


「評価は、街に戻ってからだ」


俺は淡々と答える。


「森じゃ、何も決まらない」


カイルは何も言わずに歩いている。

戦いの後だというのに、歩調も呼吸も変わらない。仕事が終わった、それだけの顔だ。


門が見えてくる。


レイヴァルトの城壁は、やはり近くで見ると高い。新しい石と古い石が混じっている。修繕を繰り返しながら使われてきた壁だ。街が生き延びてきた証でもある。


門をくぐると、音が一気に戻る。


人の声、荷車の軋む音、金属を打つ音。森で削ぎ落とされた感覚が、一度に押し戻される。前衛の男が、思わず息を吐いた。


「……戻ってきましたね」


回復役の女が言う。


「ここからは、街のルールだ」


俺はそう返した。


冒険者ギルドの前を通り過ぎると、後衛の男がちらりと掲示板を見た。

自分の居場所を、体が探している。


「今日は寄らない」


俺が言うと、彼は小さく頷いた。


酒場へ向かう途中、後衛の男が気になったらしく、俺に声をかけてきた。


「旅の奴隷商人ってのは、やっぱり珍しいですよね」


「そうでもない」


「いや、金の管理が気になりまして。持ち歩いてる風には見えない」


「必要最低限だけだ」


俺は答える。


「他は、銀行に預けてる」


「銀行、ですか」


回復役の女が、少し驚いた様子で言った。


「冒険者だと、あまり縁がなくて……」


冒険者が銀行に縁がない理由は、単純だ。


稼ぎが安定しない。持っていた金も、装備や回復薬ですぐに消える。金を預けるほど溜まる前に、次の依頼で動かすことになる。


高位の冒険者になれば話は別だ。

遠征や長期契約を抱え、街を跨いで動く連中は、信用機関を使う。そうしないと、金の重みで動けなくなる。


だが、そこまで辿り着ける冒険者は少ない。


「街が大きいと、必要になる」


俺は歩きながら続ける。


「金を預かって、動かして、記録する場所だ。現金を抱えるのは下策だ」


ちょうどいい位置だった。

俺は足を止めた。


「少し寄る」


「今から?」


後衛の男が聞く。


「使う分を下ろすだけだ」


銀行は、外見こそ地味だが、空気が違う。


扉は厚く、窓は小さい。中に入ると、ひんやりとした静けさが広がっている。人の声も自然と低くなる。守るものが明確な場所だ。


窓口に向かうと、職員がすぐに気づいた。


「いらっしゃいませ。本日のご用件を――」


言いかけて、職員は一瞬だけ言葉を止めた。


「……ジェイド・ヴァーニスト様でいらっしゃいますね」


「そうだ」


俺は頷く。


職員の態度が、はっきりと変わる。

丁寧になるが、過剰ではない。信用が前提の対応だ。


「本日は、引き出しで?」


「ああ。金貨で」


「かしこまりました。融資の件については……」


「父の案件だ」


俺は即答する。


「俺には関係ない」


「失礼いたしました」


余計な説明はしない。

だが、それだけで十分だった。


帳面が開かれ、署名をし、印を押す。手続きは短く、無駄がない。ほどなくして、布袋が差し出された。中身の重みが、手に伝わる。


その様子を、冒険者たちは黙って見ていた。


「……ヴァーニストって」


後衛の男が、思わず口にする。


「もしかして、あの……」


「他に思いつくか?」


俺は肩をすくめた。


空気が変わる。


ガイウェスト王国最大級の奴隷商人一族。

ヴァーニスト家。


知らない者の方が少ない名前だ。


「そんな所の……お坊ちゃんが?」


回復役の女が、戸惑いながら言った。


「坊ちゃんは余計だ」


「失礼しました……」


前衛の男が、困ったように笑う。


「正直、想像してませんでした」


「よく言われる」


銀行を出ると、街の喧騒がやけに騒がしく感じられた。

静かな場所にいた後だと、余計にそう思う。


「……なあ」


前衛の男が、少し言いにくそうに口を開いた。


「助けてもらった礼を、させてくれ」


「礼?」


「酒場だ。奢る」


回復役の女が続ける。


「今日は、本当に命拾いしましたので」


悪くない理由だ。


「いいだろう」


俺は頷いた。


「ただし、話はそこでだ」


「ちょうどいい店があります」


後衛の男が言う。


「《赤梟亭》っていう、冒険者向けの酒場です」


名前は聞いたことがある。

情報も酒も、ほどよく混ざる店だ。


「じゃあ、そこで集合だ」


俺は言った。


「少し用事を済ませてから行く」


「ああ、こっちもギルドに色々報告しなきゃいけねえ」


全員が頷く。


酒場の名を聞いた瞬間、空気が少し緩んだ。

森の緊張が、ようやく抜け始めている。


俺は歩き出しながら、独り言のように言った。


「……話が長くなるぞ」


酒場の灯りが、遠くに見えていた。

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