3話 戦闘
門を抜けた瞬間、街の音が背中で薄くなった。
露店の呼び声も、鍛冶場の金属音も、人のざわめきも、城壁を境に一枚隔てられる。代わりに聞こえてくるのは、荷馬車の車輪が土を噛む音と、草を撫でる風の音だった。
空気が軽い。
街の中に溜まっていた油と汗の匂いが消え、乾いた土と若い草の匂いが鼻に入る。
「ここからが森か?」
カイルが言った。
「正確には、森の入口だ」
俺は手綱を握ったまま、前を見る。
道の先には、低く広がる緑が見えていた。木々は密集しているわけではない。街道沿いは枝が払われ、下草も刈られている。
人の手が入った森だ。
「安心するには早いが、慌てる必要もない」
レイヴァルト近郊の森は、管理されている。
冒険者ギルドが定期的に討伐を回し、街道沿いの魔物を掃除する。魔物が出ないわけではない。ただ、増えきる前に潰される。
浅いところは安全。よく聞く言い回しだ。
だが、正確には少し違う。
浅いところは、危険が分かりやすい。
草が踏まれていて、木が間引かれている。視界が通り、逃げ道も残る。人の匂いが濃い分、魔物には住みにくい。
だから、よほど腹を空かせた個体か、頭の悪い連中くらいしか寄ってこない。
今日の相手はゴブリンだ。
弱い。
群れる。
知能は低い。
だが、油断した人間を殺すくらいの力はある。
「森の中に入ったら、喋るな」
「了解」
カイルは短く頷いた。
余計な質問はない。
命令を待ちすぎないし、逆らいもしない。必要な分だけ受け取って、あとは自分で動く。
傭兵上がりらしい反応だった。
荷馬車を道脇に寄せ、森へ入る。
足元が変わった。
固い土から、落ち葉の沈む柔らかい地面へ。
踏むたび、乾いた葉が小さく砕ける。湿り気が少しずつ増え、匂いも変わった。
街の匂いが遠ざかる。
木々の影が、肩や足元にまだらに落ちた。
「……浅いな」
カイルが小声で言う。
「浅いというより、削られてる」
俺は周囲へ視線を流した。
「間引きが入ってる。見通しがあるだろ」
木と木の間は広く、低い枝も刈られている。
これなら、獣が飛びかかってきても見える。逆に言えば、こういう場所で襲われるなら、相手は最初から人間を狙っている。
道沿いには、細い杭が立っていた。
ギルドの印や討伐済み、巡回済み。
人間の都合で森に打ち込まれた、ここまでは管理下だという目印だ。
だが、森は森だ。
杭が立っていようが、一歩入れば人間の方がよそ者になる。
俺は足を止め、前を指した。
「ここから先は、俺は口を出さない」
「分かった」
「好きにやれ」
「了解」
カイルが前へ出る。その瞬間、足音が変わった。
さっきまでの歩き方とは違う。
軽い。だが浮ついていない。
体重を落とす場所が、一歩ごとに決まっている。
俺は少し後ろに下がった。
ここから先、俺の仕事は戦うことじゃない。
観察することだ。
値段をつけることだ。
しばらく歩く。
浅い森は退屈だ。
危険がないからじゃない。
危険の種類が少ないからだ。
こういう場所で死ぬ奴は、大抵、派手な魔物に殺されるわけじゃない。
足を取られたり、手を切られたり。気づいた時には、面倒なものを呼んでいる。
地味で、つまらなくて、だからこそよく死ぬ。
カイルは慎重だった。
無駄な動きが少ない。
強いかどうかは別として、少なくとも生き残り方を知っている。
それだけで値段は上がる。
カイルの右手が、腰の剣へ近づいた。
「……いる」
ほとんど息だけの声だった。
俺も気づいていた。
前方の茂みが揺れている。
風ではない。葉の揺れが一点に寄りすぎている。
何かがいる。
ゴブリンは、隠れるのが下手だ。待つのも下手だ。
だが、下手な奇襲ほど刺さる時がある。
相手が油断していれば、それで十分だからだ。
カイルは真正面に立たなかった。
一歩、横へずれる。
茂みの前に一直線で入らない。
たったそれだけで、最初の一撃は殺しにくくなる。
次の瞬間、茂みが破れた。
緑がかった皮膚。
痩せた手足。
濁った目。
粗末な短剣。
ゴブリンだ。
一体、その後ろにもう一体。
さらに右の影から、三体目。
浅い森にしては、少し多い。小さな群れの残りか。
あるいは、どこかから流れてきたか。
「ギィッ!」
叫び声が森に跳ねた。
威嚇というより、合図に近い。
三体が動く。
正面。
左。
右。
囲む気だ。
雑だが、形にはなっている。カイルは動かなかった。いや、動かないように見えただけだ。
膝が沈む。
肩から余計な力が抜ける。
次の一歩を、もう決めている姿勢だった。
最初に飛び込んだのは正面の一体。
短剣を振り上げ、勢いだけで跳びかかる。
カイルが半歩下がった。
剣が抜ける。金属音は小さい。
刃が光った時には、もう遅かった。
ゴブリンの腕が落ちる。
続いて、胴が斜めに崩れた。血が落ち葉へ散る。
湿った土が、黒く染まる。
左から来た一体は、仲間の死体を踏み越えてきた。
恐怖が薄い。知能が低いからだ。
あるいは、腹が減りすぎている。
カイルは今度、下がらなかった。
踏み込む。
振るのではなく、突く。剣先が喉へ入り、後ろへ抜ける。ゴブリンの声は途中で潰れた。
最後の一体が止まる。
ほんの一瞬。
逃げるか。
刺すか。
迷った。
その迷いが命取りだった。
カイルは剣先を向ける。
「来るなら来い」
低い声だった。
ゴブリンは来た。結果は変わらなかった。
剣が短く走り、三体目が膝から崩れる。
終わるまで、時間はほとんどかかっていない。
カイルの息は乱れていなかった。
肩も上下していない。
剣についた血を軽く振り払い、周囲へ視線を戻す。
勝った人間の顔ではない。
まだ終わっていない場所にいる人間の顔だった。
悪くない。
「終わりだ」
カイルが言う。
「ゴブリンは増える」
俺は死体へ近づきながら答えた。
「近くに巣があるかもしれない」
「浅いのに?」
「浅いからこそだ。掃除の隙間に潜る」
カイルは頷き、死体の処理に入った。
今回は討伐数の確認だけでいい。耳を取れば済む。
刃物の扱いは手早かった。無駄に顔をしかめることもない。
慣れている。
俺はその間、周囲を見る。
森が静かだった。静かすぎる。風はあるし、葉も揺れている。だが、それだけだ。
鳥の声がしない。小動物の気配も薄い。
さっきまであったはずの細い音が、いつの間にか消えている。
こういう静けさは、よくない。
魔物が近い時、あるいは、人が荒らした後。
どちらにせよ、森の空気が削れている。
カイルは気づいているようだった。
耳を取り終えた手を止め、ゆっくり顔を上げる。
さっきより歩幅が狭くなった。
剣は鞘に戻していない。
俺は何も言わなかった。
言う必要がない。
浅い森のはずだった。
見通しもある。
杭も立っている。
街からも遠くない。
それなのに、木々の奥だけがやけに暗く見えた。
実際に深く入ったわけではない。
ただ、戻るには少し遠くなった。
それだけのことだ。
ここから先は、予定通りにはいかない。




